LINEの友だち登録・平均200人の大学生に「本当の友達の数」を質問したら答えが衝撃だった【現代人を苦しめる<承認欲求との付き合い方>を齋藤孝が助言】
昨今はSNSの普及により「他人との適当な距離の取り方がわからない」という人が増えているようです。人間関係をうまく構築しようと意識するあまり、ストレスが大きくなることも。本記事では明治大学文学部教授の齋藤孝氏が、心地よい人間関係を構築するコツを解説します。
LINEの友だち登録200人の大学生に聞く「本当の友達の数」
大学生にLINEで友達登録している人は何人いるのかを訊ねると、「200人程度」という答えが多く返ってきます。これが平均的な若者の姿のようですが、その全員が友達と呼べる関係とは到底思えません。そこで「本当に打ち解けられる友達は何人いるのか」と訊ねてみると、3〜5人という声が多く聞かれました。そうなると200人のほとんどは、それなりに気を遣わなければならない相手です。
そういう相手との付き合いは、忍耐力のいるものです。相手の気分を害さず、悪く思われないようにと神経を遣います。思うような反応がないと傷つきますし、反応があったらあったで、今度は「さらに返信すべきか」「いつどう返信すべきか」と、また悩みます。
メッセージやおしゃべりは必ずしも悪いものではありません。良い気分転換になりますし、私も大好きです。しかし頻度が多く、継続時間が長いと、泥沼にはまり込み、抜け出しづらくなります。
現代人を次から次に襲う情報の嵐
日常的にやりとりする相手が増え、間隔が短く且つ頻度が高くなると、間が取りづらいなど、心をざわめかせる要素がたくさん出てきます。一言でいえば、現代は「心のざわめきが止まらない時代」なのです。
「明鏡止水」は、雑念がなく(明鏡)、静かに落ち着いて澄みきった(止水)心を意味する四字熟語ですが、現代人の心の水面にはこれと逆に、次々と情報が入り、止水になる隙がなく、常に雑念が生まれる構造になっているのです。
人に言葉を掛け/掛けられるたびに、心に波紋が広がります。その波紋が消えたら、また石が投げ込まれて波紋が広がる。どっぷり浸ると、湖面に常に石が投げこまれ、数多くの波紋が広がって波紋同士が干渉し合っている状態が生じます。
日々のやりとりに時間とエネルギーを取られ、他のことが手につかない状態はまさに「心のエネルギーの漏電状態」です。それがもたらす最も大きな弊害は、自我が侵食されることです。そのため、コミュニケーションの良さを享受しながら、弊害を解消する方法を考えなければなりません。
本来喜びであるはずの他者との関わりが、ストレスに感じてしまうワケ
1880年代に精神分析学を打ち立てたジークムント・フロイトは、人間の精神構造は「イド」「エゴ」「スーパーエゴ」の三層からなっているとしました。
イドは、人間の無意識からわき起こる欲動(欲への衝動)です。しかし、人が皆イドだけに従って生きていると社会が成り立ちません。社会にはルールや道徳などの規範が必要です。人間は、幼少期に主に親を通じて行動規範意識を身に付け、社会からも影響を受けながら人格が形成されていきます。個々人が、社会に適応するための行動規範を自分なりに身に付け、形成された意識が、スーパーエゴです。
無意識から出る「〜がしたい」という欲動と、社会からの影響で身に付けた「〜をすべき」というスーパーエゴのバランスを取って、「自分」を成り立たせているのがエゴ(自我)です。エゴというと「エゴイスト」とか「自己中心的」のニュアンスが強く、良い印象を持たない人が多いかもしれません。しかしエゴ(自我)は人が生きていく上で必要なもので、これが不安定になると社会生活に支障が出ることもあります。
エゴは、他者とのコミュニケーションによって侵食されることがあります。基本的に他者とのコミュニケーションは人の気を循環させ、生命のエネルギーを高めていくものですが、それがうまくいかないと自我が侵食されて傷つきやすくなります。その結果、人と交わりたくないという気持ちが生じるのです。
現代人を苦しめる「承認欲求」への対処を19世紀に描いたロシアの文豪
人には、「今はどうしても人と関わりたくない」と強く思う時期がしばしば訪れるものです。そんな時にお薦めしたいのは、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの作品、『地下室の手記』(江川卓訳、新潮文庫)です。
主人公は世の中を疎んで、ある時からずっと地下に潜って生活し始め、独自な世界観を構築します。ドストエフスキーはこの小説を書き上げたのち、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などの代表作を生み出すことになり、『地下室の手記』は重要な転機となった作品です。
じっくりため、育み、熟成させるプロセスを経た表現が、斬新で深みのあるものになったのです。「ぼくは病んだ人間だ……ぼくは意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ」と、絶望的な表現からこの小説は始まります。
「ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかった」40歳の主人公は、極端に過剰な自意識の持ち主で、一般社会とうまく関係が切り結べない男です。小官吏だったのですが、今は無職で社会との関係を断ち切って、人間関係が苦手なので、地下室に入り込んだような感じで生きています。そして自分自身について語り始めます。
人にはこの主人公のように、心がくすぶってしまう時があるものです。ドストエフスキーは19世紀の作家ですが、先見の明がありました。自分の内にこもりたいという欲求が強まる時代には、「心の中に地下室を持つ」ことをお勧めします。
八方ふさがりの自身の状況をとことんまで客観的に見つめると、不安定な状態が逆転し、強度な自意識の存在に辿りつくことがあります。この主人公は、リラックスして人に会うことができません。他人が自分を低く見ているんじゃないか、と思ってしまう、自意識の病があるのです。
承認欲求というものは肥大していくので、最初は小さくうっすらと芽生えた感情が、「少しでも馬鹿にされると嫌」と育っていってしまうものです。そして、傷つくくらいならいっそ他人と交わらないという方向に次第に閉じこもってしまいがちです。
「自分は、他の人間と違う」という膨れ上がった自尊心にはまる時期は、若いうちには往々にしてあるものです。その時は、自分にとって安心できる心の地下室を作って、そこでの充実度を高めてみてはいかがでしょうか。
SNS時代を生きる現代人が孤独に没頭するには
誰とも交流しない地下室生活は、現代生活では簡単ではありませんし、不健康なことですが、通常よりは人との交流を減らし、物事に集中する時期、読書や勉強、創作などに没頭する時期も、人生の中で一度は必要だと思います。
一方、そういうプロセスを経ていない表現は、少量の水を入れてはピュッピュッと出している水鉄砲のように、弱々しい薄っぺらなものになるでしょう。どんな分野でも、大成しようと思うなら、孤独に没頭する時期が必要です。
その時代をくぐり抜けると、何か衝撃があった時にも、自分が戻れる地下室、すなわちシェルターがあることが、安全弁になります。ただし、本気で他人とかかわること自体を拒否した場合、その世界から出られなくなるリスクがあります。
あくまでも内省は一時的なものとして、そこから出る日を自分で思い描きながら、自分なりの「地下室」でとことん思索をしてみるのです。ハードに閉じこもる場を持つことで、外に対して柔らかくなることができるなら、こもることも選択肢に入れるべきです。人は、逃げ場がないと苦しいものです。
齋藤 孝
明治大学文学部教授