京都御所の紫宸殿(写真: でじたるらぶ / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第27回は一条天皇の波乱な人生と、素顔が分かるエピソードを紹介する。

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一条天皇は高く評価されていた

「天下、甘心せず(天下は感心しなかった)」

藤原実資が日記の『小右記』でそう記しているとおり、一条天皇の行動は、宮中でも問題視されていたらしい。一条天皇は、兄・伊周の不祥事により出家している定子のことが忘れられず、職曹司(しきのぞうし)に移してまで寵愛を続け、物議を醸すこととなった。

よほど呆れたのか、実資は「太(はなは)だ稀有なことなり(とても珍しいことである)」とまで書いている。納得できないと藤原道長の命にすら従わなかった実資らしい辛辣さだ。

しかし、そこには「賢明な一条天皇らしくない」という、実資の思いも込められていたのではないだろうか。

というのも、一条天皇には、実資と同様に「ダメなものはダメ」という一本筋が通ったところがあり、また側近からも「好文の賢皇」と高く評価される人物だった。

後に一条天皇となる懐仁が生まれたのは、天元3(980)年6月1日のこと。治世がスタートしたのは、寛和2(986)年6月23日なので、たったの7歳(数え年)で即位したことになる。

8歳で即位した朱雀天皇や、9歳で即位した清和天皇や陽成天皇よりもさらに幼く、史上最年少(当時)で一条天皇は即位することになった。

一条天皇が即位したのは、先代の花山天皇が、東山の元慶寺で突然、出家してしまったからだ。その裏には一条天皇の祖父・藤原兼家による陰謀があった。


花山天皇が出家した元慶寺(写真: 金土日曜 / PIXTA)

兼家は孫を天皇に即位させるために、3男の道兼を花山天皇に接近させる。道兼は「ともに出家しましょう」と 言葉巧みに 花山天皇を誘い出して、剃髪を見届けてから、自分だけ宮中に戻っている。

「花山天皇を早く退位させたい」という父の意を受けた道兼は、見事にプロジェクトを成功させて、その結果、一条天皇が7歳の若さで即位することとなった。

7歳で即位した当日に起きた「生首事件」

天皇に即位した経緯からして「大人の陰謀」にまみれていた一条天皇。当然のことながら、よく思わなかった者もいたらしい。

『大鏡』によると、即位式の日に準備をしていると、大極殿の中央に設けられた天皇の座において、血のついた生首が発見されたという。

神聖な場所が穢されたとなれば、式典が中止になってもおかしくはない。だが、兼家は凶事の報告を受けても動じることなく、予定通りに一条天皇の即位式を決行している。

そんな異様な空気のなか、一条天皇の治世が始まることとなった。

即位して約1カ月後の7月25日、一条天皇は「服装や日頃の食事を倹約せよ(服御・常膳等を減ず)」と最初の詔を発している。

もちろん本人の意思ではなく、外祖父で摂政となった兼家が主導したのだろう。また、母の詮子も「国母」として幼帝を支えた。

実質的な政務を行う代わりに、一条天皇は学問に親しむことになる。同年の12月8日には読書始がスタート。講義を担当したのは大江斉光で、『御注孝経』をテキストとした。『御注孝経』は、唐の玄宗が撰述した『孝経』の注釈書で、漢文を学ぶ際に早くに親しまれることが多い書物である。以後、一条天皇は学問に励み、学識を磨いていくことになる。

一方で、一条天皇を取り巻く政治的な環境は、どんどん変化していく。兼家の長男・道隆は娘を一条天皇に入内させることで、父と同じように外戚になろうと目論んだ。この娘こそが、一条天皇の運命を大きく左右する藤原定子である。

定子は正暦元(990)年1月25日、15歳のときに、4歳年下の一条天皇に入内する。後に一条天皇が、定子にあれほど執着したのは、2人が幼い頃から絆を深めた特別な関係だったからこそだろう。

しばらくして兼家が病により関白を辞すると、道隆が関白、さらに摂政となった。父が病死すると、道隆は自分がしてもらったように、嫡男の伊周を露骨に引き上げていく。

さらに、すでに皇后、皇太后、太皇太后の3人が「中宮」と称されているなかで、15歳の定子を一条天皇の中宮にし、いつも辛口の実資から「皇后4人の例は聞いたことがない」(皇后4人の例、往古、聞かざる事なり)と呆れられている。

そうして中関白家が最盛期を迎えるなか、一条天皇は、定子にとっては兄にあたる伊周とも親しく交流していたようだ。定子に仕えた清少納言は『枕草子』で、権大納言にまで昇進した伊周が、一条天皇のところにやってきて、漢詩の講義をしたときの様子をつづっている。

「いつものように、すっかり夜が更けてしまった」(例の、夜いたくふけぬれば)とあるので、漢詩について夜明けまで語り合うのが、恒例だったらしい。眠気に耐えられずに一条天皇が柱に寄りかかって居眠りした……そんなほほえましい光景が描写されている。

伊周の暴走を牽制し道長を引き上げた

気心知れた仲ということもあってか、父の道隆が病で伏せるようになると、伊周は一条天皇に「おねだり」するようになる。病で父が関白を辞すると、伊周は「関白の随身兵仗を自分につけさせてほしい」と一条天皇に申し出ている。

随身兵仗とは、関白の護衛を行いながら、その威厳を知らしめる存在のこと。伊周は当時、内大臣にもかかわらず、関白の護衛をつけてほしい、と言い出したのだから、宮中も冷めた目で伊周を見ていたことだろう。いつも辛辣な実資は「このことはきっと嘲笑されるだろう。ようやく顎が外れるほどのことだ」とまで言っている。

しまいには、病に苦しむ伊周の父・道隆まで一条天皇に「伊周を関白にしていただきたい」と言い出したのだから、この親にしてこの子あり。

道隆の死後は弟の道兼が跡を継ぐが、数日で亡くなってしまう。そこで一条天皇は、道兼の弟である道長に「内覧」という関白に準じた役職を与えている。

母の詮子が伊周の関白就任を望まなかったことに加えて、伊周に対する宮中の反発ムードを感じ取り、一条天皇は「伊周では、みなをまとめられない」と冷静に判断したのだろう。

親しき伊周に「ダメなものはダメ」としっかり伝えながら、母の意向も汲んで、ライバルである道長のほうを引き上げていった。暴走気味の伊周に呆れていた実資も、溜飲が下がる思いがしたのではないだろうか。

文芸詩歌・音楽・猫を愛した名君

文芸詩歌だけではなく、横笛など音楽の技芸にも長けていた一条天皇。猫が好きで、五位の官位とともに「命婦のおもと(御許)」という名前まで与えたこともある。

そんなお茶目な一面がありながらも、基本はマジメな一条天皇のことだから、地震や洪水など不幸な災害が相次いだことには、自身に責任を感じていたことだろう。当時、災害は「王道に背いた為政者に対する天の警告」だと考える向きもあったからだ。

だが、蔵人頭として一条天皇のそばに仕えた藤原行成は「一条天皇に責任はない」と考えた。長保2(1000)年6月20日の日記『権記』で「愚暗の人、理運の災を知らず。発水湯早、免れ難し」とかばっている。現代語訳すると、次のようなものだ。

「愚かな人は、起こるべくして起こる災厄のことを知らない。発帝(中国・夏朝の第16代帝)の治世では洪水が起き、湯王(中国・殷王朝の創始者)の治世では干ばつが起き、いずれも免れようがなかった」

さらに行成は同日の日記で、一条天皇の名君ぶりをこう讃えている。

「一条天皇は情け深い君主であり、天暦(村上天皇の治世)以後では、学問と芸術を好んだ賢明な天皇である。政務の合聞には、深い考えをめぐらして、期するところは澄らかである」

(主上、寛仁の君にして、天暦以後、好文の賢皇なり。万機の余閑、只叡慮を廻らし、期する所澄清なり)

「賢帝」として慕われ続けた

出家した定子を寵愛して子どもを次々ともうけたことは、宮中をざわつかせはしたものの、一条天皇は賢帝として周囲から慕われ続けたのである。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)