紫式部の邸宅跡と伝わる地に建つ京都 廬山寺(写真: けんじ / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は紫式部と夫の藤原宣孝との悲しいエピソードを紹介します。

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平安時代中期の作家・紫式部を「悲劇の女性」だと表現すると、意外に思う人もいるかもしれません。

『源氏物語』を執筆して穏やかに暮らしていたという印象を持つ人もいるでしょうし、何より紫式部の人生自体がそれほど知られているわけではないので「悲劇も何もわからない」という人もいるでしょう。なぜ紫式部は、悲劇の女性だと言われているのでしょうか。

50歳目前の宣孝と結婚した紫式部

紫式部は20代の後半のころに、50歳を目前にした貴族の藤原宣孝と結婚します。新婚早々、これまで紫式部が宣孝に宛てた手紙を宣孝が他人に見せたことで、2人は大喧嘩をしたものの、宣孝が折れたことで喧嘩は収束しました。

その後長保元(999年)年には、宣孝との間に、賢子という女の子が生まれたとされます。

幸せな生活が続いていくのかと思いきや、紫式部が詠んだ歌を見てみると、どうやらそうでもないようです。

「しののめの空霧り渡りいつしかと 秋のけしきに世はなりにけり」(夜明けの空も霧が立ち込めて、早くも秋の景色となりました。あなたは早くも私に飽きたようですね)と詠んでいるのです。

これは宣孝から送られてきた歌「うち忍びなげき明かせばしののめの ほがらかにだに夢を見ぬかな」(ため息をついて夜明かしをしたので、夜明けに懐かしいあなたの夢も見ることができなかった)への返歌です。

これらの歌からは、夫の宣孝が紫式部のもとに通う頻度が減っていたことがわかります。

夫の浮気を疑い悲しみに暮れる

また紫式部の別の歌には「横目をもゆめと言ひしは誰なれや 秋の月にもいかでかはみし」というものもあります。

「私(宣孝)も決して浮気などして、お前(紫式部)に心配をかけないからと仰ったのはどなたでしたか。私がどうして秋の月を眺めて夜を明かしたのか、あなたはおわかりですね」ということを意味しています。

どうやら紫式部は夫の浮気を疑っているようです、いや確信しているようにも思えます。

宣孝は紫式部と結ばれる前に別の女性と結婚していますし、先妻との間に子どももいました。宣孝は元々、プレイボーイ的な性格。それは紫式部もよく理解していたうえで結婚したはずです。


京都市にある源氏物語の石像(写真:skipinof / PIXTA)

しかし、いざ、夫が自分のもとに通ってくる頻度が減ってくると、やはり腹立たしさや悲しい気持ちになったのだと思われます。

「入る方はさやかなりける月かげを 上の空にも待ちし宵かな」(あなたのお目当ての所ははじめから他所の方(女性)とはっきりしていたのに、私は今か今かとあなたを待っていました)という紫式部の歌からは、夜になってもすぐに眠らず宣孝の訪れを待つ、健気な様子が垣間見えます。

それに対し、宣孝は「さしてゆく山の端もみなかき曇り 心も空に消えし月かげ」(訪ねようと思っても、あなたの機嫌が悪そうなので、途中で逃げてしまったのです)と歌を送りつけてきました。

2人の仲は、危険水域と言っていいかもしれません。紫式部は、手紙上での夫婦喧嘩のときでも「罵り合って2人の仲を絶ってしまうおつもりなら、それでもかまいません。お怒りになるのを怖がってはいません」と夫にキッパリ主張するタイプの女性でした。

堂々とした態度には好感が持てますが、宣孝は紫式部の気の強さが段々と苦手になっていったのかもしれません。

「夫の訪れを待つ」としていた紫式部ですが、次第に心境の変化もあったようで「おほかたの秋のあはれを思ひやれ 月に心はあくがれぬとも」(他の方に心を惹かれているのはわかりますが、いつも悲しみに暮れている私のことも思いやってください)と哀願ともとれる歌を詠むようになります。可哀想な紫式部です。その紫式部を更なる悲劇が襲います。

49歳で宣孝が急死する

長保3(1001)年4月、夫・宣孝が急死するのです。49歳でした。このとき紫式部は30歳前後とされています。

その前年から、「死病の者が京中に満ちている」とも言われるほど、疫病が流行していたのです。朝廷では祈祷を行いますが、効果はありませんでした。

同じ年の2月には、宣孝は藤原道長から呼び出しを受けて、所用を命じられていますが、「痔病」を理由に断っています。痔は命にかかわる病ではなく、宣孝の死因とはまた別のものでしょう。おそらく、宣孝も疫病によって亡くなったのだと考えられます。

紫式部が夫の死に際して、詠んだ歌は残っていませんが「世の中の騒しきころ、朝顔を人の許へやるとて」という詞書のもとで「消えぬ間の身をも知る知る朝顔の 露とあらそふ世を嘆くかな」との歌を詠んでいます。

「世の中の騒しきころ」というのは、疫病が流行していた頃を指すのでしょう。この歌は、宣孝が亡くなった年の7月か8月頃に詠まれたと推測されます。「いつ死ぬかわからないと覚悟はしていながら、朝顔の露と競い合うようにして人が死んでゆくのを悲しんでいます」との歌意です。

直接的に夫の死の悲しみを指したものではありませんが「朝顔の露と競い合うようにして人が死んでゆく」の「人」の中には、夫も入っていたと思われます。

そして「いつ死ぬかわからないと覚悟はしていながら」との文字からは、紫式部自身も死の恐怖を感じていたことがわかります。伝染病の猛威は、紫式部の真近にも迫っていたのでした。

このところの紫式部の歌は、当初はあった伸びやかさや明るさをなくしてしまったように見えます。結婚生活の悩み、夫の死が紫式部からはつらつさを奪ってしまったかと思われるほどです。

結婚生活はわずか2年という短さ。そしてその生活も、寂しさと隣合わせのもの。夫は急死し、残された娘はまだ2歳。紫式部はシングルマザーとなったのでした。

その後『源氏物語』を完成させる

紫式部がここで生きる意味を見いだすことができず、何もしなければ、歴史教科書に名が記されるほどの人物にはなっていなかったでしょう。

紫式部が『源氏物語』を完成させるのは、その後の出来事です。それは、悲劇に見舞われながらも、逞しく生きた女性の生涯を見るに等しいものだと思うのです。夫を亡くした紫式部はこれからどう生きていくのでしょうか。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)