「世界一即戦力な男」が浪人して東洋大目指した訳
ウェブサイト「世界一即戦力な男」で一躍有名になった菊池良さん(画像:ウェブサイトより引用)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。
今回は高校1年生で中退し、2年生のときに大検を取得してから、6年にわたる引きこもり生活を経て、4浪の年に東洋大学文学部日本文学文化学科の夜間課程に合格。その後4年生のときにウェブサイト「世界一即戦力な男」を作った経緯が、書籍やドラマに。社会人とライター業の二足のわらじで働いた後に専業作家として独立し、累計17万部の大ヒットを記録した『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』シリーズなどの人気作品を手がけている菊池良さんにお話を伺いました。
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『もし文豪たち〜』がヒット
今回お話を伺った菊池良さんは、大学卒業後にLIGからヤフーを経て、専業作家として活躍している方です。
累計17万部売り上げた『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』シリーズ(神田桂一氏との共著)など数々の作品を世に出していますが、その才能を培ったのは、浪人時代の「インプット」だったそうです。
22歳までどこにも所属せず、受験勉強もしていない状況で「危機感がなかった」と語る彼が浪人生活で得たものとは。現在に至るまでの半生を聞いてみました。
菊池さんは沖縄で生まれ、6歳まで名古屋で過ごしました。
「父親は早稲田の社会科学部出身で、転勤がある仕事をしていました。僕が生まれたころには沖縄で、それからすぐに名古屋に引っ越して、6歳ごろまで生活していました。その後東京に引っ越して、都内でも何度か引っ越していますが、今に至るまでずっと東京で暮らしています」
幼少期の菊池さんは、ふつうの「子どもらしい、子どもだった」そうです。勉強面も平均点より少し上くらいで、特段得意というわけではありませんでした。そんな当時の彼は、アニメやゲームが好きだったこともあり、漫画家になる夢を抱いていました。
「『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』が好きでした。習い事もしてなかったので、当時は家に帰ったらずっとゲームをしたり、アニメを観たり、漫画や絵を描いたりしていました。TOKYO MXのアニメの再放送や、テレビ東京の18時台のアニメを全部観ていましたね」
「自分でも、『星のカービィ』を主人公にしたファンタジーものの漫画を描いていた」と語る菊池さん。このころからインプット・アウトプットを自然にやっていたことからも、すでに創作者としての片鱗が見られます。
年に40〜50回、遅刻や欠席繰り返すように
アニメや漫画に触れる幼少期を過ごし、八王子市内の公立中学校に進学した菊池さん。しかし中学2年生になったころから、次第に遅刻・欠席を繰り返すようになります。
それには、親の離婚も少し影響しているようでした。
「学校の成績は変わりませんでしたし、人間関係で問題があったわけではありません。これというきっかけはないのですが、親が小学校高学年くらいで別居し始め、のちに離婚したんです。
中学に進学するタイミングで、練馬から八王子に引っ越したのですが、父親と当時高校生だった兄が朝7時くらいには通勤・通学するので、日中は家に誰もいなくなる環境になりました。
それで学校に行かなくても、誰にもバレない状態になったんです。父親も通知表を見て、僕の遅刻や欠席の回数をわかっていたと思うのですが、無理に学校に行かせようという感じではありませんでした」
それから年に40〜50回くらい遅刻したものの、なんとか中学3年生に進級できた菊池さんは、進路を考え始めるようになりました。
「友達に調理科のある八王子実践高校に誘われたんです。高校には行くものだと思っていたので、進学することに対しては、疑問をあまり持ちませんでしたし、普通じゃない変わった経験ができることと、卒業と同時に調理師免許を取得できることから、この学校を受験しました。その友達には『都立高校にも受かったからそっちに行くわ』って言われて驚いたのですが、まぁ別にいいかと思いました」
調理科に興味があったことから八王子実践高校を受験して、合格した菊池さん。しかしこの高校に入ってからの彼は、学校の環境に適応できなかったそうです。その理由について、菊池さんは「チームワークが苦手だったから」だと語ります。
「毎週金曜日に、1日丸々使って調理実習をする日がありました。4〜5人のチームに分かれて料理を一品完成させ、食べるという日だったのですが、集団行動も、集団に合わせるのも苦手だった自分にとってはこの1日がつらかったですね。調理科も友達に誘われたからという理由で、自分自身で興味を持てていなかったので、1学期だけ通った後に、夏休み明けに中退を決めました」
ネットでコンテンツをひたすら見る日々
15歳で所属がなくなった菊池さんは、引きこもりになりました。特に何も考えずにただ好きなコンテンツをネットで見る日々を送ります。それでもまだ、菊池さん自身は大学に行きたい気持ちはあったそうです。
「高校を辞める際に親と相談したのですが、そのときの説得に使ったのが『大検(現・高等学校卒業程度認定試験)を取って大学に行く』という条件でした。大検の存在は、中2〜中3のときに学校に行かずに『キッズ・ウォー』を見ていたときに知りました。そこに登場する家族の長男が大検を取ろうとしていたんですね。いま思えば制作陣は僕みたいな不登校の子にメッセージを送っていたのだと思います。
それで中退を認めてもらったのですが、辞めたあとも悲観的にはならず『(大検の)試験まではモラトリアム突入だ、やった!』というように、長い夏休みのような感覚でした。大検はその当時年2回実施されていました。私は次の年の夏に受験すると決めて、試験に備えて勉強したのですが、残念ながら落ちてしまいました」
「好きなネットのコンテンツを見ながら、大検用の参考書を一通り揃えて勉強をした」と語る菊池さんは、試験の1カ月前から1日中勉強したこともあり、再び受けた12月の試験で無事に合格し、大学受験ができる資格を手にします。
しかし、これで満足した菊池さんは、高校3年生の年齢からずっとネットに入り浸る生活を送るようになります。
「大検を取ったら肩の荷が下りました。また『人生の締め切り延長だ!』といった状態で、何の危機感もなく、ネットの沼にはまっては、コンテンツばかり見ていましたね。ただこのときに、『はてなダイアリー』でブログを書いて2万PVを取れたことで、こんなにPVを稼げるのなら、ブロガーからライターになる道があるのかもしれないと意識できたのはよかったです」
ここから彼の引きこもり生活は22歳まで続きます。その生活の中で、彼の人生に大きな影響を与えた出会いがありました。
『夢をかなえるゾウ』の水野敬也さんとの出会い
「当時、『夢をかなえるゾウ』の作者である水野敬也さんのブログが面白いなと思って読んでいたんです。水野さんと映像ディレクターの古屋雄作さんが毎週ネットラジオをやっていて、それも聞くようになりました。
そのラジオで『後輩オーディション』という2人の『後輩』を募集する企画をやっていたので、2浪の年齢(20歳)のとき、3回目のオーディションに応募したんです。それで水野さんと古屋さんに面接をしてもらったのですが、古屋さんに何かあると思っていただけて、月に1回程度、映像制作の手伝いをさせていただくようになったのです」
引きこもりの時期も、家の近くにあった図書館でサブカル本や、社会学の本を読むなどして、勉強自体は続けていた菊池さん。古屋さんに気にかけてもらったおかげで、外の世界に一歩踏み出せるようになりましたが、水野さんからは少し距離を置かれていたそうです。
しかし、彼が大学への進学を決めた理由はその水野さんの一言がきっかけでした。
外の世界に出始めて、4浪の年齢になった菊池さん。この年の夏ごろからは予備校に通わずに、自宅で参考書を使いながら受験勉強をしていました。
実は菊池さんが受けた第3回後輩オーディションの後にあった食事会で、水野さんに言われたことが心の中に残っていたことが大きかったそうです。
「『後輩オーディション』はクリエイターなど、何かをやりたい、作りたいけど、その方法がわからないという人が集まる場所でした。僕も漫画家やライターになりたいと思っていた人間でした。僕は水野さんから『負のオーラ全開のやばいやつ』だと思われて距離を置かれていたのですが、一度だけアドバイスを言っていただいたことがあって。
それは『お前は大学に行ったほうがいい』だったんです。
僕は普通じゃないので、『クリエイターになりたいなら大学に行って普通を知ったほうがいい』とのことでした。それで大学に行こうと決めて、私立大学の中でいちばん学費が安い大学を調べました。東洋大学の夜間なら48万円で通えたので、奨学金とバイトのお金で通えると思い、受験勉強を始めました」
「普通を知るために」受験を決意した
この4浪の年での浪人の決断は、「敷かれたレールに戻る」という意識が働いたそうです。
「高校を辞めたときも、大検があるから社会のレールにいつかは戻ってこれるだろうという算段でした。それがいよいよ『普通』を知るためにちゃんとやっていこうという意識に変わりました」
夏から1日5〜6時間ほどの時間を使って、国語と英語を勉強していた菊池さん。ネットでやるべき参考書を調べて、試行錯誤しながら勉強を続けていたそうです。
「夏ごろに受けた模試の偏差値は国語が70で、英語は55くらいでした。英語に関しては、単語帳は『単語王』、読解は『ポレポレ』を使っていました。かんべやすひろ先生の『超・英文解釈マニュアル』はとてもわかりやすくて、これのおかげで長文がだいぶ読めるようになりましたね。
国語はもともと小学生のときから得意でしたが、出口汪先生の現代文の参考書や『マドンナ古文単語』『漢文ゴロゴ』で、よりできるようになっていきました。模試はこの1回しか受けていませんが、たぶん受かるだろうという状態に持っていけたので、東洋大学文学部の日本文学文化学科の夜間課程に出願し、無事合格して入学しました」
「ダメだったときのことは何も考えていなかったので、もし落ちていたら、おそらく次の年も頑張ろうと思っていたはずです」と語った菊池さんは、長い引きこもり生活を終え、4浪の年齢で東洋大学に入学しました。
「6年間引きこもっていたので、気分としては6浪でした」と語る菊池さん。
浪人してよかったことを聞くと「インプットがたくさんできた」、頑張れた理由については、「憧れの人とネットのおかげでつながれて、直接言葉を聞けたから」と答えてくださいました。
「浪人の期間はめちゃくちゃよかったですね。受験勉強を含めて、24時間自分のインプットに充てられたことと、水野さんに言われたことを守って、外の世界でアウトプットをしたおかげで、いまの自分の仕事につながっています」
一方で、21〜22歳まで受験勉強を開始しなかった理由を、「危機感がなかったから」と語ってくださいました。
「自堕落な性格だったので、まぁ大丈夫だろうと思っていたんです。ネットの影響も大きいですね。引きこもり・浪人の期間にはちょうど『30代で無職なんだけど楽しく過ごしてます!』というような、人生の浪費を楽しんでいるブロガーがめちゃくちゃ多かったんです。
映画ばかり見ている35歳無職の人の映画紹介のブログが多くの人に見られている様子を目の当たりにして、自分も大丈夫だと思えましたね。世間的な身分がなくてもネットで救われている人がたくさんいることがわかったことで、自分自身も救われました」
「世界一即戦力な男」がネットでバズる
引きこもってネットを見続けた日々は、菊池さん自身の人生をさらに大きく変えることになります。
25歳で就職氷河期の中、就職活動をすることに不安を覚えた菊池さんは、得意のネットを使って就職しようと考えます。そこで実名・顔出しで「世界一即戦力な男」というウェブサイトを作り、「雇いたい会社募集!」と掲げました。
ウェブサイト「世界一即戦力な男」には面接ボタンも(写真:ウェブサイトより引用)
それがバズったことがきっかけで就職先が決まり、この自身の経験を書いた書籍出版とドラマ化も決まるという、まるでジェットコースターのような日々を過ごすことになります。
現在は専業作家として活躍している菊池さん。2017年には、菊池さんがTwitter(現・X)で文豪たちの文体模写でカップ焼きそばの作り方を投稿し、バズったことがきっかけで出版した『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』がシリーズ累計17万部の大ヒットを記録しました。
彼は今こうした人生を送れているのも、浪人生活に加えて、大学で得た経験が大きいと語ります。
「大学ではいい出会いもありましたし、いい授業も受けることができましたね。大学に入って最初にできた友達が村上春樹の本を貸してくれたことと、川端康成を1年かけて読む文学部の授業のおかげで、今まで興味がなかった分野の本も読むようになりました。
それが『文豪カップ焼きそば』につながっているので、年48万円の学費を払って作家になれたことを考えると、ものすごいリターンをいただけたと思います。東洋大学でいろんな人と出会ったり、授業を受けたりしたことが、今の仕事につながっていますが、いちばんよかったことは大学生になれたことですね。(人に言える)身分を手に入れて、少しはまともな人間に近づけたのでよかったです」
浪人しても人生は終わらない
「学校に行かないとか、浪人とかしてしまっても、それだけで人生は終わらないので、気にしたり、負い目に感じたりすることはないと思います」と自身の経験から語ってくださった菊池さん。
「どうにかなる」と楽観的に、人生の締め切りを延長し続けてきた彼だからこそ、今「締め切りを守る」仕事に就いても楽しむことができているのだと思いました。
菊池さんの浪人生活の教訓:人と違う選択を負い目に感じる必要はない
(濱井 正吾 : 教育系ライター)