授業サボる学生だった私が教授になって思うこと
連載第9回のテーマは「生き方の定点観測」です(写真:ペイレスイメージズ1(モデル)/PIXTA)
財政社会学者の井手英策さんは、ラ・サール高校→東京大学→東大大学院→慶應義塾大学教授と、絵に描いたようなエリート街道を進んできました。が、その歩みは決して順風満帆だったわけではありません。
貧しい母子家庭に生まれ、母と叔母に育てられた井手さん。勉強机は母が経営するスナックのカウンターでした。井手さんを大学、大学院に行かせるために母と叔母は大きな借金を抱え、その返済をめぐって井手さんは反社会的勢力に連れ去られたこともあります。それらの経験が、井手さんが提唱し、政治の世界で話題になっている「ベーシックサービス」の原点となっています。
勤勉に働き、倹約、貯蓄を行うことで将来の不安に備えるという「自己責任」論がはびこる日本。ただ、「自己責任で生きていくための前提条件である経済成長、所得の増大が困難になり、自己責任の美徳が社会に深刻な分断を生み出し、生きづらい社会を生み出している」と井手さんは指摘します。
「引き裂かれた社会」を変えていくために大事な視点を、井手さんが日常での気づき、実体験をまじえながらつづる連載「Lens―何かにモヤモヤしている人たちへ―」(毎週日曜日配信)。第9回は「生き方の定点観測」です。
最近の学生はとてもしっかりしている
5月はキャンパスに落ち着きが生まれる季節だ。4月になると、「四月病」と揶揄したくなるほど多くの出席者で講義はにぎわうが、ほどなくして「五月病」の季節が訪れ、出席者はそれなりの数に落ち着いていく。
ただ、最近の学生は、とてもしっかりしている。多少の増減はあるものの、基本的に授業の参加者数は安定している。感心させられるが、そんな学生たちを見るにつけ、「不まじめでまじめ」だった自分の大学生時代を思いだす。
「不まじめ」は私のひねくれた性格が原因だ。講義で先生の話を聞けば聞くほど、頭のなかが疑問でいっぱいになった。なんとか理解しようとがんばるが、授業はどんどん進み、気づくと私は置いてきぼりになっていた。
ミクロ経済学の講義だった。先生は授業の最初で「希少な資源を……」と言われた。すると、世の中にはモノがあふれかえっているではないか、と考えはじめ、そこで思考はストップしてしまう。
子どものころ、「あと30年で石油はなくなるのよ、だから無駄使いはやめなさい」と母に言われていたが、大学に入ったら石油の可採年数は45年に増えていた。私の感覚は、経済学の前提と大きく異なっており、そこでまずつまずいた。
効用の最大化という言葉にも悩まされた。効用とは、自らの満足の度合いのことだ。私たちは、満足度を最大化するのが「経済的に合理的な行動だ」と教わった。だがその考えを聞くなり、私は「人が自ら死を選ぶのも満足の最大化なのか?」と思った。
確かに、楽になりたくて、人は命を断つのかもしれない。でも、それを、満足の度合いを最大にするための合理的な行動なのだと言われてもピンとこない。違和感はこの歳になっても変わらない。専門用語で「個人の生涯効用の期待値が一定の水準を下回ったから自殺したのだ」と聞かされても納得できない自分がいる。
なぜ、その人はそんな「非合理的」にしか見えない選択をしたのだろう。なぜ死ぬことで満足を覚えるのだろう。現実を「効用の最大化」という言葉で片づけるのではなく、なぜそんな悲しい現実が起きるのかを考えてみたい、と私は思った。
一時が万事こんな具合で、私は、次第に授業に出なくなった。振り返れば、もったいないことをしたと思う。入り口の違和感さえ我慢すれば、経済学という道具を使って違う世界が見られた気がするし、経済理論以外にも、もっと面白い講義があったはずだ。
本くらい読まないと母に申し訳ない
ただ、学校をいたずらにサボっていたわけでもなかった。母子家庭なのに大学に行かせてもらっていたから、本くらい読まないと母に申し訳ない、と思った。私は、経済学の教科書の代わりに古典を読むこととした。これが私の「まじめ」な部分だ。
みなさんはPh.D.という言葉を知っているだろうか。日本語で言えば博士号である。Doctor of Philosophyの略であり、Philosophyとは哲学を意味する。多くの学問は哲学から派生している、というわけだ。
この事実を知ったのはずっとあとだったが、学問の原点は哲学だという直感は正しかったようで、私は、無鉄砲な大学生らしく、哲学の古典を読むことにした。
最初に買ったのは、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』だった。ところが、当たり前だが、まったく歯が立たず、さっぱり理解できない。そこで助けを求めたのが三島憲一の『ニーチェ』という本だった。
この歳になると、古典を解説書に頼るのは邪道だと思うけれども、ニーチェの生い立ちに迫り、どのような思想を持っていたのかを何となく知ってから読み直すと、少しだけ意味がわかったような気になった。
この成功体験は大きかった。私は、それ以来、図書館から本を借りて、粘り強く古典を読むようになった。その後も何度か解説書に助けられたが、納得したり、疑問を感じたりしながら、読み進める作業はとても愉快なものだった。
そんな体験があったから、私は、学生たちに「古典を読みなさい」と言う。
ただ、自分が愉しいと思ったから、では理由にならない。なぜ古典を読まなければならないのか、自分なりに考えたが、どうにもうまく説明できない。「なぜ古典を読むのか」をテーマにした本もあるが、いくら読んでも私にはしっくりとこなかった。
年齢を重ねるごとに大事だと思う場所が違っている
そんなあるとき、依頼された原稿を書かねばならず、シュンペーターの『租税国家の危機』を読み直してみた。若いころからの私のお気に入りで、ページをめくると、何種類もの線が引かれていた。
私にはクセがあって、1度目に読んだときと2度目に読んだときでちがう線を引く。3度目、4度目であれば色を変える。年齢を重ねるごとに本は線だらけになるのだが、大事だと思う場所は違っている。これが「人間が成長する」ということなのだ。私はそう実感した。
思えば、同じような体験は、思春期のころにもあった。
早熟だった私は、成長するとはどういうことなのか、自問していた。身長は黙っていても伸びていたが、そうではなく、心が育つとはどういうことなのかを知りたいと思った。
私は桜が好きだった。ところが、雨で満開の桜が散りはじめたとき、行き交う人たちに踏みつけられた花びらを見て、なんともいえない不快な気持ちになった。
私は、舞い落ちる花びらに眼差しを向けた。すると、少しずつ芽吹きはじめていた、鮮やかな緑色の葉っぱが視界に飛び込んできた。私は、その緑に宇宙のすべてが凝縮されている気がした。葉っぱを通じて自分が宇宙とつながったような、そんな不思議な感覚だった。
桜は何十年ものあいだ、春になると、同じ場所で、同じようにツボミをつけ、花を咲かせる。
この繰り返される自然の単純なリズムに対して、私たち人間の心は絶えず変化する。だから、桜が咲き、散るという見慣れた現象が、突然、まったく違って見えるようになる。
これが心の成長なのだ、これが生きているということなのだ……若い私は世紀の大発見をしたような気持ちになり、1人で興奮していた。シュンペーターを読み返しながら、そんな昔の記憶がよみがえってきた。
古典を通じて成長の足あとを確かめる
古典を読む意味もきっと同じだ。何十年、ときに何百年も昔に書かれた古典の内容は決して変わることがない。いや、不変であるだけでなく、歴史を超える大切な視点があちこちにちりばめられているからこそ、長い期間にわたって人びとから愛され続けている。
変わらないもの、大切な視点が埋め込まれたものを読む。何度も読む。心はざわめく。だが、その「場所」は変化する。私たちは、古典を通じて自分の心の変化の軌跡、成長の足あとを確かめる。こんなところに興味を持っていたんだな、と懐かしく振り返りながら。
自分とはいかなる存在なのかを知るうえで、人生の「定点観測」が必要なのかもしれない。
私たちは、どうしても、他者と比較して、自分の価値を評価してしまう。慶應に来た理由を学生たちに問えば、彼ら/彼女らは気の利いた答えを探すだろう。だが、多くの学生の本音は、「みんながいい大学だと言っているから」なのだと思う。
だが、「他者」という移ろいゆくもの、変化するものと比較し、その勝ち負けに不安を覚えるのではなく、変わらないものとの対比で、自分の絶対的な成長や変化を実感し、自分が生きてきたことの価値を確信する方法もある。
他者と比べられるもののほとんどは、数的、量的なものだ。背の高さや足の速さはもちろん、学歴、肩書き、社会的な地位もまた、偏差値や年収などの数や量を反映している。生産性と呼ばれるものはその最たるものだ。
一方、私たちが生きる社会は、質的に異なる人びとでできている。だからこそ、互いの価値を私たちは尊重しなければいけないし、他者を尊重するから自分も尊重してもらえる。相互尊重があるから、お互いの理解が深まり、社会の分断も解消できる。
自分自身の「質的な変化」を感じ、それを肯定する
自分が生きてきたことの価値を信じられない人に、他者と対等な関係を築き、相手を尊重することができるだろうか。他者と数や量を競い合い、相手を蹴落とすことで確認される私の価値、それは他者の否定から成り立っており、他者尊重とは対極にあるものだ。
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私の場合、そんな自分を知るための「点」の1つが古典だった。もちろん、古典がすべてではない。自分の原体験とも呼べるような「点」があれば、それといまの自分を比べることで、自分が生きた意味、過去からの変化、成長を知ることができる。
私たちは、生きることによって多くの価値と出会い、そこから何かを学び、変化を遂げ続けていく。
あえて難解な古典に挑むのもいい。苦い過去に思いを馳せながら、あのとき、ああしておけばよかったと頭を悩ませるのもいい。自分自身の「質的な変化」を感じ取り、それを肯定することだ。それが成長するということ、それが生きるということなのだ。
(井手 英策 : 慶應義塾大学経済学部教授)