北宋時代の都だった、開封(写真:Wtake400 / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第21回は、道長の全盛期と重なる北宋時代について紹介する。

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越前守に就いた式部の父・為時

いつの時代も人事異動には不満がつきものだ。

紫式部の父、藤原為時は長徳2(996)年に、淡路守に任じられると、「苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼」という漢詩を一条天皇に送って、無念さを吐露したという。意味としては、次のようなものだ。

「寒い夜の苦学の甲斐もなく希望した地位につけずに、血の涙にむせいでいます」(苦学の寒夜、紅涙が襟をうるおす 除目の後朝、蒼天眼に在り)

当時、国司が赴任する国は大国、上国、中国、下国の4つにランク分けされていた。淡路国は下国だったため、為時がそんな漢詩を官職を求める上申書に添えたところ、まだ10代の一条天皇の胸を打ったらしい。為時のやるせなさを想像して、一条天皇は食事も喉を通らず、寝所に入って泣いた……。

いささかナイーブすぎる気がするが、その結果、為時は淡路守ではなく、越前守に就くことになったという。

越前は大国にあたるため、為時も漢詩を送った甲斐があったというものだが、『今昔物語集』などにあるこの話は、いささかできすぎている。

そもそも、為時は長く官職に恵まれず、花山天皇によって式部丞、六位蔵人に任ぜられた。

12年ぶりに官職を得て、さぞ張り切ったことだろうが、花山天皇は出家して退位。為時は官職を失い、またもや10年も不遇の時期を過ごすこととなった。そんななか、淡路守に任じられたのだから、激しい不満を持つのは不自然だろう。

では、なぜ任地替えがなされたのか。ちょうどこのとき、越前には70人あまりの宋人がやってきていた。状況的に、漢語に長けた為時が越前守に適任だと、いったん任地が決まったあとにそんな声が上がったのではないか……とも言われている。

唐の衰退で日本独自の文化が花開く

長く不遇だった為時の能力をまさに時代が求めたともいえそうだが、日本にとって、長く国づくりのお手本だった中国との関係が、この頃にはずいぶん変わっていた。

「日本」と号しての外交が初めて行われたのは、702年のこと。公卿の粟田真人が遣唐使として唐にわたり、大宝律令の完成を報告したとされている。

しかし、794年に平安京に遷都されてから100年後の894年、遣唐使は廃止されることになる。

もはや国力が衰えた唐に危険を冒してまでいく必要はない――。そう考えて、遣唐使の廃止を提案したのは、菅原道真だった。その判断は正しかったらしい。唐は907年に滅亡することになる。

唐の滅亡後、華北中原には5王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が、その周辺には10国(前蜀・後蜀・呉・南唐・呉越・閩・荊南・楚・南漢・北漢)が乱立。「五代十国」と呼ばれる時代が始まる。そこから実に70年にもわたる混乱期を経て、979年に中国を再統一させたのが、宋だった。


北宋の都だった中国・開封の風景(写真: Wtake400 / PIXTA)

その間、日本は何をしていたか。これまでは隋や唐から仏教・儒教・律令制などさまざまなものを取り入れたが、唐の衰退によって、日本独自の文化が形成されていく。7〜9世紀に中国から取り入れた「漢字」をもとにしながら、10〜11世紀にかけて「仮名文字」が作られた。

仮名文字の誕生によって、日本語ならではの表現方法が磨かれた。その結果、生まれたのが、『枕草子』であり、『源氏物語』だった。

そうして国風文化が盛り上がりを見せることになったが、894年に遣唐使が廃止されてからも、中国との交流が途絶えたわけではない。むしろ、民間の海上交易は活性化している。

道長・頼通の治世と重なる「北宋時代」とは?

中国を再統一させた宋が建国されたのは、960年のこと。そこから金に滅ぼされるまでの1127年までを「北宋時代」と呼ぶ。

一方、国内に目を転じると、966年に生まれた藤原道長は、996年に左大臣にまで上り、政権を掌握。1017年に摂政と藤原氏長者を嫡男の頼通に譲っている。道長が1028年に没すると、頼通が1074年に亡くなるまで、長く権力を握り続けた。まさに、中国の北宋時代は、藤原摂関家の全盛期から院政前期までと重なることになる。

こんなエピソードがある。

平安中期における東大寺の僧・篙然(ちょうねん)は、三論宗と密教を学んだのち、商船に乗って983年に宋に渡った。

三国伝来の釈迦像などを持ち帰ったことで知られるが、滞在時には、北宋2代皇帝の太宗に謁見する機会まで得ている。

拝謁した席で篙然は、太宗から日本についてのさまざまな質問を受けて、それに答えた。とりわけ太宗は、皇統で連綿と続く単一の王朝が貴族制によって支えられる、という国づくりに関心を持ったという。

その背景について『江南の発展 南宋まで シリーズ中国の歴史2』 (丸橋充拓著、岩波新書)では、次のように分析されている。

「中国は直近の約百年、唐末五代の大混乱を経験していた。このころ宋は、太宗の兄、初代皇帝の太祖(趙匡胤。在位960〜976)による建国から約4半世紀が経過し、五代十国最後の残存勢力だった北漢を滅ぼして(979)、本格的な天下泰平の態勢づくりにいざ始動、という局面にあったのである」

混乱期を乗り越えたものの、宋の体制がまだ盤石とはいえなかったため、日本の安定した制度から、太宗は何か取り入れようとしたのかもしれない。

もはや「日本が中国に見習う」だけの時代ではなくなったことがよく伝わってくる逸話だろう。

だが、国が十分にまとまっていない時期だからこその勢いもある。宋では、商人たちが勃興し、商業の発展によって生産力を増大させていく。

勢い盛んな宋の商人たち

道長が政権を握るや否や、商人の朱仁聡が林庭幹・羌世昌(周世昌)らとともに、船に乗って若狭国に上陸。70人あまりの宋人が、越前へと移送されたのは、まさにそんな勢いのなかで起きた出来事だった。

越前守に赴任した為時は、宋の商人たちのパワーに圧倒されたのではないだろうか。

父に同行した紫式部も、環境の変化に戸惑ったようだ。都の暮らしを懐かしみながら、この地で1年余りを過ごすこととなる。


【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)