早稲田に合格して通ったものの、東大を諦められなかった理由とは。写真は湯島天神(写真: elise / PIXTA)

現在、浪人という選択を取る人が20年前の半分になっている。「浪人してでもこういう大学に行きたい!」という人が激減している中で、浪人はどう人を変えるのか。また、浪人したことで何が起きるのか。 自身も9年間にわたる浪人生活を経て早稲田大学の合格を勝ち取った濱井正吾氏が、さまざまな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張ることができた理由などを追求していきます。

今回は、幼少期に父親から暴力を振るわれながらも勉強を続け、熊本県立熊本高等学校に合格。1浪して早稲田大学に進むも、仮面浪人を決断し、2浪目で東京大学文科一類に合格。東大卒業後の現在は、新卒で入社した某上場企業に30年以上勤務し続けている田中伸さんにお話を伺いました。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

教育に行き過ぎた熱意を注ぐ親たち

都心部を中心に、受験の早期化が過熱している昨今。子どもの意思を無視して、無理やり受験をさせる親が話題になっています。


この連載の一覧はこちら

今回お話を聞いた田中伸さんは、まさに「勉強ができない」と父から頻繁に暴力を振るわれ、父親に仕返しをするために、勉強を頑張ってきた人です。

2浪を経験しますが、目標にしていた東京大学文科一類に合格し、法学部に進んで、一部上場企業への就職をかなえました。

「2浪したことに後悔はない」と語る彼は、「浪人は社会勉強の場所でした」と30年以上前の過酷な日々を、懐かしく振り返ってくれました。

彼が経験した過酷な幼少期・浪人生活が、50代後半を迎えた今の人生にどのように影響しているのかを聞いてみました。

田中さんは1967年、熊本県の本渡市(現:天草市)に生まれました。父・母ともに中学校・小学校の教員で、教育熱心な家庭だったようです。

「母親は私が入学した新和町の小学校で教えていました。朝と夕方にバスがそれぞれ1本しかない僻地で、小学校は全校生徒合わせて100人程度でした。

その中でも私の学年は丙午(ひのえうま)の迷信があったので、とりわけ人数が少なく、同級生は11人しかいませんでした。4年生のときに親の転勤で本渡市の学校に転入し、全校生徒も200人に増えましたが、1学年1クラスだったのは変わりませんでした」

「人口は少ないし、産業もない場所だった」と語る田中さんの幼少期は、父親の過激なしつけが大きく影響していたようでした。

「親父に小学校1年生ごろから、繰り上がり・繰り下がりの足し算をやらされていたのですが、できなかったらそのたびに思いっきりぶたれました。筋肉隆々の30代の男性に、それをやられたらたまらないんです。何としても将来偉くなって仕返ししてやる!というモチベーションで勉強をしていました」

父親は2021年に亡くなったそうですが、それまでの人生でも、田中さんの頭の中にはずっと小さい頃の思い出が鮮烈に残り、見返す対象として、勉強を頑張っていたそうです。

いじめの対象になってしまった

その結果もあって、小学校のテストでは100点を連発。中学校に上がってもトップクラスを維持しました。しかし、身体が弱く、運動が苦手だった彼は、いじめの対象になってしまったそうです。

「田舎だから、勉強しかできない人間はいじめられるので、小・中学校時代はそれで嫌な思いをしました。生まれてくる場所と親は、残念ながら選べません

中学生になった田中さんは、進学校である熊本高等学校に進学しようと考えていました。

「中学校時代から『ブラック・ジャック』みたいな医者になりたかったんです。自分のように身体が弱い人を助けたかったのと、作品内に出てくるブラック・ジャックの父親も、悪いやつだったので、自分の境遇と重ね合わせていました。その影響を受けて、熊本大学の医学部に行くために、熊本高校に行こうと思っていたんです」

中3のときに、またしても父親の転勤で、本渡市内の別の中学校に転校した田中さんは、ここで初めて1学年が35人×2学級という、複数クラスに分かれる経験をしました。

最高学年になった彼は、そのときに受けたある授業で知った事件から、大学の志望校を変える決断をします。

「公民で大阪空港公害訴訟のことを知りました。騒音の被害に耐えかねて訴えた人が大阪高裁では勝訴したのに、最高裁で夜間飛行の差し止め請求を却下。過去の損害賠償のみを認める判決を下したのです。その話を聞いて、私は『許せん!』と思いました。当時、私は権力を持つ悪いやつらが、弱い立場の者をいじめることに激しい怒りを感じていました。最高裁長官になって、正しい裁判を実現したいと思い、そのためには東大文一に入る必要があると思いました」

こうして勉強を頑張った彼は、なんとか熊本高校に入ることができました。

熊本高校に入った田中さんは、自宅から熊本市内までの通学で、片道2時間半ほどかかることから、下宿屋に住み、そこから学校に通うようになります。

「高校から歩いて20分ほどのところにある下宿屋さんに住んでいたのですが、夏休み期間は閉めてしまうのです。下宿生は地元に帰省するしかないので、部活には出られず、勉強するしかありません。そのため、休み明けの「整理考査(確認テスト)」ではいい点が取れました。英数国3科目だけですが、高2のときには1位を2回取れました」

高得点を叩き出したが、周囲からの妬みも

当時、ついたあだ名は「整理考査の田中」でした。しかしそこには「部活に出ないから、高得点は当然」、「理科・社会は負けるくせに」という妬みの気持ちが込められていた、と田中さんは感じていたようです。事実、5科目の定期試験や模試では、450人中、30位台にまで低迷していました。

必死に勉強していた田中さんでしたが、この当時、地方の進学校から東大の文系を目指すのは、とても大変なことだったようです。

「東大の入試の科目は、英数国と、社会科2科目がありました。当時の熊本高校の社会科の授業は、1年生は全員現代社会、2年生のときに世界史・日本史・地理の3教科を週2時間ずつ、3年生で世界史・日本史・地理から1科目選ぶという内容でした。

学校も3年生のときに日本史の補習をしてくれていたのですが、日本史の先生が嫌いだったことに加えて、当時読んでいたエール出版社の『私の東大合格作戦』に開成出身者が『真剣にやるなら世界史と地理を選ぶべきだ』と書いていたのを、鵜呑みにしてしまいました。そのため、3年生の授業1科目では、地理を受講して、世界史を独学でやるという決断をしてしまったのです」

この決断が、彼の成績が伸び悩む原因を作ってしまいました。結局、現役時の共通1次試験は860/1000点と、ボーダーである9割を少し割るくらいの点数だったものの、2次試験で失敗し、東大の文科一類に落ちてしまいました。

「試験が終わった瞬間に落ちたと思いました。申し訳なかったのが、親戚のおばちゃんに激励されて、お金や差し入れをもらったり、母方の祖父が合格発表のときに『孫が東大に受かるかもしれん!』と上京してきたりして、田舎だから周囲が東大に受かるかもしれないということで大騒ぎしていたことですね。結果は本人がいちばんわかっていただけに、応援してくれたのに結果を出せなかったことを、申し訳なく思いました」

こうして現役の受験を失敗で終えた田中さん。彼は浪人した理由を「なんの取り柄もない自分が唯一できることだったから」と答えてくれました。

「勉強自体はずっとしていました。だから、必死にガリ勉していた自分がまさか浪人するとは思っていなかったんです。勉強しかできないはずの自分が落ちるなんてありえないと落胆しました。大学に入って浪人生をバカにするやつがいたら、自分が諌めてやるつもりだったのに、まさか自分が浪人生になるなんて……。だから、持っていたしゃもじに『鬼』と書いて、浪人した以上は絶対に東大に行くと決意しました」

東大模試でA判定、ついに射程圏内に入ったが…

厳しい父親も、「上の学校を目指せば、満足する人だった」ために浪人を認めてくれたようで、4月から千葉県の下総中山駅近くの寮に住みながら、お茶の水にある駿台予備学校の3号館に通い、東大を目指して勉強を始めました。


東京大学(撮影:今井康一)

根岸世雄先生、長岡亮介先生といった駿台の超一流の先生たちが、板書しながら、一緒に問題の答えを考えたり、ヒントを与えたりしてくれる講義は、田中さんにとって非常に刺激的でした。駿台の授業を受けたことで、数学の成績は大きく伸びたそうです。

その結果もあって、現役時に偏差値40程度だった東大模試の結果は、60を超えるようになっていました。模試でもA判定が出て、ついに東大が射程圏内に入ります。しかし、満を持して臨んだ共通1次試験では、810/1000点と、国語の失敗で前年より下がってしまいました。

「この年は、早稲田大学の法学部と、中央大学の法学部も受験してどちらも受かりました。国語の失敗はショックで、試験が終わってから1週間くらいうつ気味でしたが、熊本高校から一緒に浪人していた友達が励ましてくれたのがよかったですね」

友達の支えもあり、2次試験本番で挽回できると信じて、なんとか切り替えようと努めていた田中さん。しかし、立ち直り切っていなかった彼は、まさかの大ミスをやらかしてしまったのです。

試験が終わって、恐ろしいことに気づく

「地理の第1問で、今でも忘れもしない大失敗をしました。『イランとイラクの相違点と共通点を、次の各項目について60字以内で述べよ』という問題だったので、見た瞬間にこれは書けると思い、バーっと書き進めました。しかし、試験が終わってから、恐ろしいことに気づきました。問題用紙に『なお、解答にあたっては項目ごとに改行し、項目の冒頭に(a)等の記号を付すること』と書いてあったのです……。

私はそれを見落として、改行もせず、記号もつけず、ベタ書きしてしまったのです。私は、自分が情けなくなって、泣いてしまいました。結果、その部分は0点となってしまい、この年も落ちてしまいました」

「本番で舞い上がる人は、ケアレスミスをします。試験は人間を見るのによくできている万能なものだと思いました」と語った田中さんは、意気消沈しつつも、早稲田の法学部に入学することを決めました。

1浪で早稲田に入った田中さんは、大学生活で思うように楽しめず、「拗ねていた」そうです。

「前年度の失敗を引きずっていたんです。自分は根っからの勉強好きで、まだできるなと思いましたし、ケアレスミスで落ちたのがすごく悔しかったので。だから、受験に備える体力作りをしようと思って空手サークルに入ってみっちり鍛錬し、9月になってからサークルに『再受験をします』と告げて活動を休み、受験モードに入りました」

「今思えば、早稲田の授業はいい先生ばかりでとてもよかった」と振り返り、拗ねていたのが申し訳なかったと語る田中さん。前期・後期もちゃんと授業を受けて、単位をとりながら、仮面浪人をしていたそうです。

前年度に落ちた理由を「慢心」と心に刻んだ田中さんの9月以降の生活は、2年連続で失敗した共通1次の勉強に真面目に取り組み、本番に備えていました。

「駿台の実戦模試を11月、12月と受けてどちらもA判定を取れたのですが、慢心することなくやり続けました。この年から共通1次は1000点満点が800点満点に変更になったのですが、ようやく720/800点と9割を取れました。

共通1次試験が終わってからもガンガン勉強して、東大受験本番の世界史・地理も、問題用紙で指定された箇条書きのルールを確認し、試験時間が終わるまでガンガン書き進めました。2浪目の合格発表を東大の駒場キャンパスで見て、私の受験番号11058を確認した瞬間、『よし!』と思いました」

こうして彼は2浪の末に、念願の東京大学文科一類に合格することができたのです。

浪人は社会勉強の場所だった

2浪で憧れの東京大学に入ることができた田中さん。浪人してよかったことを聞くと、「どこまでも警戒して生きるようになったこと」、頑張れた理由については「屈辱を晴らすため」と答えてくれました。

「1浪目の失敗は自分の体たらくと慢心が招いたものだったので、自分のことを信用せず、気を引き締めて生きていかなくてはいけないと思えるようになりました。

悔しい思いを晴らすための2浪でしたが、早稲田でドイツ語を学んだり、ルネサンスの授業を受けたりしたことが、世界史の深い理解につながりましたし、早稲田で勉強できたことも、とてもよかったなと思いますね。2浪したことに悔いはありません」

1987年に入った東大を、1991年にストレートで卒業した田中さんは、某上場企業に入り、現在もその会社で勤務しています。

浪人時代に得た「文章を最後まで読む」という教訓は、社会人になってからも「人の言うことは最後まで聞く」という形で生きているそうです。

「浪人期間の受験勉強でやった正誤判定をする作業は、今でも他社の嘘を見抜くという作業につながっていると思います。浪人生は、ぬくぬくと、のほほんと生きていると思われているかもしれませんが、私にとっては1つの社会勉強の場所でした。世間から離れた浪人という立場だからこそ、世間をしっかり見れるんです。浪人は社会の一部。全然恥ずかしいことではないので、胸を張って生きていいと思います」

今でも東大の地理の過去問を解いたり、新たに物理の参考書を買うなどして、勉強を続けている田中さんの人生からは、不注意が招いた失敗さえもプラスに変えて、自分の人生に生かすことができるのだということを学ばせていただきました。

田中さんの浪人生活の教訓:大きな失敗をした後は、注意深く生きることができるようになる

(濱井 正吾 : 教育系ライター)