大河や映画話題「安倍晴明」伝説と現実のギャップ
安倍晴明神社(写真:ys_611 / PIXTA)
今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は大河ドラマや、最新映画『陰陽師0』にも登場する、陰陽師・安倍晴明のエピソードを紹介します。
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山粼賢人主演「陰陽師0」が公開
陰陽師・安倍晴明という名前は、日本史にあまり興味がない人でも、1度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
陰陽師や、晴明の名を一段と高めたのが、2001年公開の映画『陰陽師』(主演・野村萬斎さん)だったと記憶しています(映画の原作は、作家・夢枕獏氏の小説『陰陽師』、同時期に稲垣吾郎さん主演でドラマ化もされています)。
そして2024年4月には、山粼賢人さん主演の映画『陰陽師0』の公開が始まりました。昔から令和の現代まで、ドラマや小説で描かれてきた晴明ですが、はたして、どのような人物だったのでしょうか。
晴明は、延喜21年(921)に生まれたと言われています。藤原道長は康保3年(966)の生まれなので、晴明のほうが45歳も年上ということになります。
晴明は、江戸時代初期の仮名草子(物語)『安倍晴明物語』(以下、『物語』と略記)の主人公としても描かれています。
それによると、晴明の父は安倍保名であり、先祖は阿倍仲麻呂とされています。仲麻呂は、遣唐使の留学生として唐国に渡り、玄宗皇帝に重用されたことで、日本への帰国を果たせなかった人物として有名です。
この『物語』では、仲麻呂は玄宗皇帝と対立し、幽閉され、断食したことで、亡くなります。そして仲麻呂は死後、鬼になったといいます。
仲麻呂が亡くなった翌年には、吉備真備が遣唐使として唐に入りますが、玄宗皇帝から難題を課された真備を、「鬼」の仲麻呂が助けることになるのです。
仲麻呂の助力により、真備は無事に日本に帰ることができました。玄宗皇帝から多くの宝物を賜った真備。宝物の1つに『金烏玉兎集』という書物が含まれていました。これは、陰陽道の秘伝書です。
日本に帰国して、出世した真備は、恩人ともいうべき阿倍仲麻呂の子孫に恩返しをしたい、と考えるようになります。そして『金烏玉兎集』は、摂津国の阿倍野に住む、仲麻呂の子孫に託されることになるのです。
安倍晴明の母親は狐だった?
しかし、せっかく託された秘伝書に、晴明の父・保名が関心を示すことはありませんでした。
『金烏玉兎集』に興味を持って、勉強し始めたのは、「安倍の童子」こと安倍晴明だったのです。
安倍晴明の像(写真: skipinof / PIXTA)
『物語』によると、晴明の母は狐だったとされます。しかもたんなる狐ではなく、信太明神の化身。晴明は「神の子」であったというのです。晴明が『金烏玉兎集』という秘伝書を読みこなし、陰陽道を習得できたのも「神の子」であったからでしょう。
さて『物語』には、こんなエピソードも描かれています。晴明は、村上天皇の病の要因を、カラスが話す噂話を理解したことにより突き止めるのです。その功により、晴明は陰陽寮トップである陰陽頭(おんようのかみ)に抜擢されたばかりか、易暦博士および縫殿頭の官職に任命されました。やっと真備から仲麻呂への恩返しが、果たされたと言えましょう。
ところで、江戸時代前期に成立した『物語』は、晴明の母を神の化身の狐としていました。
もちろん、これは虚構であり、「物語」にすぎないでしょう。その一方で、中世後期には、晴明を狐の子とする逸話も生まれていました。いや、母が狐どころか、父も母もいない、化生の者(化け物)との噂も、庶民の間で広がっていたのです。
それは先ほどのエピソードにもあったとおり、晴明が鳥獣が語る言葉を理解し、天皇を苦しめる病の根源(霊の祟り)を治すという、特殊能力の使い手と見られていたからこそ、だったと思われます。
しかし当然ですが、現実の晴明は化け物ではなく、人間です。父も母もいたのです。
晴明の父は『尊卑分脈』(室町時代に編纂された系図集)「安倍氏系図」によると、安倍益材(ますき)だとされます。母親についての記載はありません。
晴明の父・益材は「大膳大夫(おおかしわでのかみ)」だったと言われています。大膳職(宮内省の管轄。宮中の官人の食事や朝廷での会食の調理を担当)の長官だったのです。つまり、陰陽師ではありませんでした。晴明の先祖も、陰陽師ではなかったのです。
晴明の陰陽師としての活躍は『今昔物語集』(平安時代末に成立した説話集)などにも掲載されていますが、それはあくまで物語集に記載されたものです。
実際の陰陽師の仕事内容
『本朝世紀』という平安時代末に編纂された歴史書には、晴明について次のように記されています。「正統朝臣の左大臣に申して陰陽師晴明を召して政始の日時勘文を進めしむ」と。これが史書に晴明が登場した最初の記述だと言われています。康保4年(967)6月23日の項目です。晴明はすでに47歳でした。
では、先ほどの一文はどのような意味なのでしょう。左大臣・藤原実頼の意向を承った、大外記・菅野正統に「陰陽師晴明」が呼び出されることになります。
政始(年始や改元などのあとに、天皇が初めて政治を行う儀式)を催行するのはいつがいいのか、晴明は吉日や吉時を書き出した文書(日時勘文)を正統に提出したのです。
後世の物語などにあるような、天皇の病を治しただとか、呪術行為といったような話ではありません。それらと比べたら、とても、地味な活動が記されていたのです。
朝廷の儀式を、凶日に行うわけにはいきません。吉日を選ばなければならないのです。凶日を避け、吉日を選ぶ。それが、平安時代中期における陰陽師の仕事の1つとなっていたのです。
とはいえ、そうした行為を地味なものであると、あくまで現代人の視点から申し上げましたが、平安時代の人々にとっては、重要なことだったのでしょう。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・繁田信一『安倍晴明』(吉川弘文館、2006)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・繁田信一『殴り合う貴族たち』(KADOKAWA、2008)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)