フェリーで鹿児島を出て沖縄へ向かう(提供写真)

ツアーナース(旅行看護師)と呼ばれる看護師たちの存在をご存じでしょうか?

「最後の旅行を楽しみたい」「病気の母を、近くに呼び寄せたい」など、さまざまな依頼を受け、旅行や移動に付き添うのがその仕事です。

ステージ4の膵臓がんを患った稲本秀俊さん(当時49歳)は、可能なすべての治療を乗り越え、緩和治療を行っている最中、意識が朦朧とする中、「沖縄に行こう」と声をふりしぼるようにして家族に話しました。そこから、ツアーナースと家族の7日間におよぶ旅が始まります。

父の膵臓に見つかったステージ4のがん

家族4人の沖縄旅行から戻った13日後、稲本秀俊さんは53年の生涯に幕を閉じた。

「最後に旅行に行けて、本当に良かった。決して長くない人生だったけど、父は幸せだったと思います」

現在、夫の仕事の関係でアメリカ・ロサンゼルスに暮らす稲本愛里さんはそう言って微笑んだ。

2019年の冬。愛里さんの父、当時49歳の稲本秀俊さんにがんが見つかった。みぞおちに強い痛みを覚え、救急を受診したのだが、後日、精密検査で膵臓がんであることが発覚した。ステージ4の状態だった。

膵臓は「沈黙の臓器」と言われる。異常があっても、自覚しにくい。症状が現れたときには、すでに進行している場合が少なくない。秀俊さんも、まさにそのケースだった。

家庭での秀俊さんは、明るく活動的な父親だった。

「うちは、家族5人。父と母と、子供は私を含めた三姉妹です。家庭では父は私たち娘の話をよく聞いてくれる人で 、例えば仕事の愚痴を家で漏らすことはなく、弱い姿を見せる人ではありませんでした。だけど、自分の体ががんに侵されていることには、当然、強く動揺していました。がんであること、症状がかなり進行していることを聞かされた私たちも、大きなショックを受けました」(愛里さん)

アウトドア関連の趣味も多く、土日の休みにはよく家族を連れて海に出かけ、ウインドサーフィンを楽しむこともあった秀俊さんの姿から、がんの進行は想像もできないことだった。当時、大学4年生だった愛里さんは、大学院に進む予定を急遽変更し、父親の側で過ごすために、神奈川県の実家近くの会社に就職した。

抗がん剤治療を止め、緩和治療へ

すぐに闘病生活が始まった。主治医の説明によると、「手術ができるところまでがんを小さくするために、まずは抗がん剤の投与を始める」とのことだった。投与が始まると、それまで元気そうに見えていた父親の体が、どんどん小さくなっていくようで不安だった。

「抗がん剤のおかげで、ある程度がんは小さくなって、やっと手術できるようになったのが、がんの発覚から11カ月経ったころのことでした。12時間もかかる大変な手術だったけど、父は頑張って乗り越えてくれました」(愛里さん)

その頃、稲本家では身内の不幸が続いていた。秀俊さんの手術のあと、親戚のひとりに大きな病気が見つかり、その対応にも追われた。そんな慌ただしい毎日の中で、秀俊さんの症状は一進一退を繰り返した。

秀俊さんの膵臓がんは見つかった段階でステージ4である。手術をして膵臓のがんはすべて摘出したものの、術後に再発し、肝臓に転移していた。

「その後も抗がん剤治療は続いたのですが、2022年の10月を最後に、抗がん剤治療は終了しました。それ以上効果は見込めないということでした。そこから先は緩和治療です」(愛里さん)

終末期の患者が過ごすホスピスへの入院も検討されたが、秀俊さんは、自宅で家族と共に暮らすことを選んだ。

2023年2月上旬。秀俊さんは敗血症性ショックを起こし、救急車で病院に担ぎ込まれる。

「朦朧とした意識の中で、父は突然のように、沖縄に行こう。と言い出したんです。たぶん、残された時間の短さを悟っての言葉だったのだと思います」(愛里さん)

愛里さんは、父の言葉の中に、「沖縄に行きたい」ではなく、「家族を沖縄に連れていきたい」との意思を感じたのだと言う。秀俊さんは最後まで、父親でいたかったのかもしれない。沖縄旅行のことを担当の医師に相談したが、すぐには首を縦に振ってはくれなかった。

「がんの終末期ですから。いつ何があっても不思議ではありません。飛行機を使う旅行は気圧の変化などもあり、許可することはできないということでした」(愛里さん)

それでも秀俊さんの意思は固かった。どうしても家族を沖縄に連れていきたい。そんな思いが、痩せて落ちくぼんだ眼窩の奥に光る瞳に感じられた。

──よしわかった、連れていってもらおうじゃないか。

愛里さんは心を決めた。

「陸路と海路で行きます」

愛里さんの言葉を聞いた担当医師は、それ以上反対はしなかった。ただ静かに、次のようにアドバイスした。

「お父さんは、春まではもたないと思います。旅行に行くならなるべく急いだほうがいい。あと、道中、もしくは滞在先で亡くなることがあるかもしれない。そのこともよく考えておくこと」

ツアーナースとの出会い

進行がんで弱っている秀俊さんは症状の進行から、食欲低下、身のおきどころのない倦怠感や体の痛みがあり、それらの苦痛を和らげるため、持続点滴や鎮痛剤などの薬剤投与の医療ケアが行われていた。また呼吸困難の出現の可能性も考えられ、すぐに酸素療法が行える必要があった。家族だけでの対応は難しい。

そんなとき、愛里さんはネット検索で「日本ツアーナースセンター」の存在を知る。

「きれいなホームページだし。ハードルが高そうだなって、初めはすごく不安だったのですが、連絡を取ってみると、とても親切で、いろいろとアドバイスしてくれました」(愛里さん)

稲本家の沖縄旅行を担当することになった日本ツアーナースセンター、看護師長の細山理恵看護師はこう語る。

「がん終末期の患者さんのご状態は様々です。事前に担当医師から稲本さんのことをお聞きすると、とても厳しい状態でした。沖縄までは長距離で、もし途中何かあれば、思いを叶えることができなくなってしまう、どうにか移動に時間がかからない場所で思いを叶えられることはないか、娘さんにお聞きしながら、提案しました」

沖縄でなくても家族の思い出の場所は他にもあるかもしれない。海が見たいのであれば、近くに適した場所があるかもしれない。様々な可能性を考慮して、看護師としての意見を述べた。しかし、愛里さんの決心は固かった。

──お父さんの思いを叶えたい。

その強い意思を感じた細山看護師は、最後まで支えることを決心したのだった。

沖縄旅行の計画は4泊5日の日程を組んだ。ホテルの予約はすんなり終わった。問題は行きと帰りの移動だ。今回は電車と船の旅である。片道30時間もかかる。自宅から新横浜までの介護タクシー。新横浜から小倉までは東海道新幹線。そこから鹿児島までは九州新幹線。列車の旅では、それぞれ多目的室の予約が必要だ 。それらもなんとか手配することができた。しかしそれだけでは済まない。

鹿児島から沖縄までの行き帰りはフェリーでの移動となる。その船中泊も合わせると、7日間の長旅となるわけだが、ツアーナースは医療保険がきかない 。旅行の間ずっとツアーナースがつきっきりでは費用がかさんでしまう。

「だから、沖縄にいる4日間は、医療保険が使える現地の訪問看護をお願いするといいですよって、細山さんにアドバイスをもらったんです」(愛里さん)


小倉(提供写真)

そうすれば、自費となるツアーナース費用は、行き帰りの2日分だけで済ませることができる。ただ、沖縄の訪問看護師に知り合いがいるわけではない。愛里さんは片っ端から電話をかけて、4日間だけ通ってくれる訪問看護師を探した。

そしてたどり着いたのが、「ひまわり訪問看護ステーション(沖縄県国頭郡)」だった。

「ホテルからもそれほど離れておらず行き来できる場所にあり 、電話をかけて事情を話したら快諾してくれました」(愛里さん)

同ステーション代表の豊里泰子さんの話。

「最初ご連絡をいただいたときには、終末期の方ということで、少し驚いたのですが、状況を把握するするツアーナースもいらっしゃるということで、安心しました」

稲本家の旅の準備は、着々と進んでいく

当時、愛里さんは、大学時代から交際していた人と結婚し、妊娠6カ月の状態だった。姉は体調が悪く、旅行の準備に参加することはできない。母に父の看病を任せ、旅の行程のあれこれについては、愛里さんを中心に妹と2人で準備を進めた。主治医には「行くなら早いほうがいい」と言われていた。

「朦朧とした意識から覚めた父にもう一度、本当に沖縄に行く? と確認しました。すると父は、“行く”と力強く言ってくれました。その表情を見て、私も決心がつき、そこから3日ほどで準備をしました」(愛里さん)

秀俊さんはまだ元気だった頃、夫婦2人で行ったハワイ旅行で宿泊したホテルの印象が強く残っていた。あまりにも素晴らしいホスピタリティ。秀俊さんは、その感動を家族みんなでいつか共有したいと考えていた。

「だから、4泊の沖縄旅行では、最初の2日間をそのハワイのときと同じ系列のホテルに宿泊することにしました」(愛里さん)

後の2日間は、家族での沖縄旅行で何度も利用したことのあるホテルを予約した。こちらは、家族の思い出のホテルである。宿の予約はすんなり終わったが、行き帰りの行程には苦労した。

陸路と海路で沖縄へ

「もう、その頃の父はひとりでベッドから起き上がることもできなくなっていたので、移動は車いすです。自宅から駅まで、それから沖縄滞在中の介護タクシーと、新幹線、フェリーの予約です」(愛里さん)

担当医の許可がおりないので、飛行機は利用できない。陸路と海路で行くしかないのは既述の通りだ。自宅から新横浜まで介護タクシー、新横浜からはJR東海とJR九州の新幹線を乗り継いで鹿児島まで行く。そこから沖縄までは20時間以上かけての船旅だ。


鹿児島のフェリー乗り場から桜島を望む秀俊さん(提供写真)

秀俊さんは全行程を車いすで移動する。新幹線も車いすごと利用できる多目的室の予約が欠かせない。こうした部屋では、いすを倒してベッドとして使うこともできる。

「行きは北九州市の小倉駅でJR九州の新幹線に乗り換えます。新幹線の予約や車いす、点滴等持ち物の確認のために電話するのですが、多目的室の空き状況と照らし合わせて新幹線の組み合わせを提案してもらうことになるため、折り返しの電話を待つ必要もありました。

新幹線の決定までに時間がかかってしまったため、旅行が始まるまでに準備が間に合うか不安でした」(愛里さん)

3日間で全行程約1週間の旅の準備だ。それでなくても目が回るようなスケジュールである。加えて、愛里さんは身重だ。どうしても神経が高ぶることもあった。

「妹と喧嘩になることもありました。2人で泣きながら準備をしたのを覚えています」

担当医の本心

しかし、担当医はなぜ、飛行機での旅行を許可しなかったのだろう。稲本さんの沖縄旅行に付き添うことになった日本ツアーナースセンターの細山看護師は次のように語る。

「ストレッチャーや酸素吸入機、点滴などの医療機器を航空機内で使う場合は、メディカル・インフォメーション・フォーム(MEDIF)という書類に医師のサインをもらう必要があります。それを航空会社に提出したうえで、航空会社が搭乗可能かどうかを判断します。

稲本さんの担当医師は、そのMEDIFにサインはしてくれませんでしたが、稲本さんの診断書や診療情報提供書などは、日本ツアーナースセンターのほうに提出してくれました」(細山看護師)

関東から沖縄まで、2000キロメートルの行程だ。がん末期の患者に対して負担はあまりにも大きい。気圧の変化などもある飛行機の旅は許可できなかったのかもしれない。ただ、稲本さん家族の意思は固かった。医師にもその気持ちを後押ししたいという思いがどこかにあったのだろう。旅に必要な書類の提出は拒まなかった。

「今考えると、担当の先生が仮にMEDIFにサインをしてくれたとしても、航空会社は搭乗を許可しなかったかもしれません。それほど、稲本さんの病状は一刻一秒を争う状態でした」(細山看護師)

宿泊するホテル。父の体にあった車いすのレンタル、介護タクシーと新幹線、フェリーの予約。ツアーナースと現地での訪問看護師の確保。わずか3日間で、これらの準備をやり遂げた。

自分たちの着替えや、秀俊さんの医療機器などをバタバタと準備し、2023年の2月下旬、秀俊さんと妻の菜々子さん、次女の愛里さんと、三女の翔子さん。

そしてツアーナースの細山看護師。5人での沖縄旅行がスタートした。前にも書いた通り、長女は体調不良で残念ながら旅に参加することはできなかった。

愛里さんはこう語る。

「父には、1秒1秒が大切な旅の行程です。とにかく、すべての瞬間を楽しもうと、心に決めていました」

そして、もうひとつ、家族全員が共有していた思いがある。それは「とことんまでお父さんに寄り添う」だった。

床ずれを防ぐために、姿勢を微調整する

「移動は車いすです。完全リクライニングが可能な車いすなので、車いすに乗ったまま体を伸ばして休むこともできます。ただ、ずっと同じ姿勢だと、尾てい骨にできてる床ずれが圧迫されて痛みます。それを防ぐために、いろんな形のクッションを当てて、姿勢を微調整するんです」(愛里さん)

本人が楽になれる姿勢を探りながら、脇の下、腰の裏、首の後などにクッションを挟み込む。

「でも、うまく位置が決まらないときがあります。父は『ちょっと違う。もっと右』とか、わりと注文が厳しいんですよ(笑)。何度も何度もダメ出しをもらって、心の中ではため息をつくこともありました。

でも、父は自分で動けないから私たちに頼るしかないんですよね。そんな私たちに少しでも嫌な顔されたらあきらめてしまうかもしれない。それが嫌でそんな表情は絶対に表には出さずに、OKが出るまで続けました」(愛里さん)

既述の通り、愛里さんは妊娠6カ月の体だ。それでも、「旅の間はパパが最優先」の姿勢を貫いた。(後編に続く)


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(末並 俊司 : ライター)