ベトナムで「日本の会社」支える女性社長の生き様
オリジナルの懐石料理が味わえる高級日本食レストラン「天空」を開業したレ・バン・メイ社長(同社提供)
平均年齢33歳で、人口は1億人超え。若年層が購買力をつけ、成長の階段を駆け上がる、ベトナム。そんな変化の著しい市場で、30年にわたって「日本式ビジネス」を手がけ、人々の生活水準の底上げに大きく貢献した1人のベトナム人経営者がいる。
ロータスグループ創業者でCEOのレ・バン・メイさん(53)だ。日本向けアジアン雑貨の輸出事業からスタートし、現在取り扱うのは、丸亀製麺、吉野家、CoCo壱番屋、マツモトキヨシ、森永乳業、クラシエなど、日本人なら誰もが目にしたことがある日系の約40ブランド。
【2024年5月31日11時40分追記】初出時の記述に誤りがあり、修正しました。
直営・合弁・フランチャイズによる飲食店から卸小売り、農業生産に拡大し、グループ総売上高約100億円、従業員数約2400人の企業に成長させた。
農林水産省から日本食普及の親善大使に任命
2023年に、農林水産省からベトナム人初の「日本食普及の親善大使」に任命されたメイさんは「素材にこだわり、いいものをつくる。真心を込めてお客様に接する。私の仕事はすべて、日本の人たちから学んだものがベースです」と言い切る。小柄な体に、底知れぬエネルギーと情熱を宿すメイさんの、規格外のキャリアと実践、そして日本への思いについて、話を聞いた。
ロータスグループの本社は、ベトナム経済の中心都市である、ホーチミン市内にある。市民の所得水準の高まりとともに、ベトナムの物価は10年でおよそ2〜2.5倍、20年前に比べると3.5倍へと上昇した。
市内にある、ベトナム最高層ビル「ランドマーク81」の67階にあるロータス直営の日本食レストラン「天空」には、夕刻にかけ、絶景の夜景と、創作メニューを味わおうと、仕事帰りの若者たちが集まってくる。
同じくロータス直営で、77階の和牛ステーキ専門店「Ussina Aging Beef & Bar」は、値段がやや張るものの、平日でも満席の日が続く。
「30年前は考えられませんでしたが、少しずつ、ようやくここまできました」とメイさんは感慨深げにいう。
ロータスグループ創業者、レ・バン・メイ社長(同社提供)
メイさんは、ベトナム戦争中の1971年、首都ハノイに生まれた。戦争の記憶はないそうだが、旧ソビエト連邦の軍事支援を受けていた北ベトナムの街には多くのロシア人がいて、幼い頃から外国の人や文化に興味を抱いていた。
専門学校の講師をしていた父親は教育熱心で、4歳のメイさんに読み書きや計算を教え始め、小学校に入学する年齢には、一通りの基礎学力を身につけていたという。
「父がつけてくれた、私の名前の由来は、有名なポエムからとった雲と雨。雲から生まれる雨が1滴ずつでも毎日続けば石でも削れる、石にも勝てるという意味です。毎日コツコツ勉強して、頭も心も鍛え、世の中の役に立つ人になりなさいと言われて育ちました」
意外なきっかけで日本に興味を抱くように
小学生のある日、1時間のテストを10分で終わらせたメイさんは、ひまつぶしに上級生のクラスに入り、解き方を教えているところを先生に見つかった。怒られるかと思いきや、その先生が提案したのは「飛び級」だった。
1986年、メイさんは15歳で、旧ソ連・ベラルーシの外国語大学に約100人のベトナム人大学生とともに国費留学した。
ベラルーシでの生活は、食文化や生活水準のあまりの違いに驚きの連続だった。そして意外なことに、メイさんはそこで初めて「日本」に関心を持つきっかけをつかんでいる。
「ベトナムでは、ごはんと塩だけという食事ばかりだったのが、ベラルーシは都会で、肉が食べられる。牛乳やチーズ、バターを味わったのも初めてでした。いつも『すごい、すごい』と繰り返し言っていたら、ある時近所のおばさんにこう言われたんです。『日本の製品はもっとすごい、これから日本はすごい国になる、帰ったら日本語を勉強したほうがいい』、と」
大学で成績優秀だったメイさんは卒業後も、大学院へ奨学金付きの進学が約束されていた。だが、帰国を申し出てベトナムに戻ったのは1989年の夏、18歳のときだった。図らずも、それからおよそ3カ月後、ベルリンの壁が崩壊、そしてソ連崩壊へと続いた。
ベトナムに帰国したメイさんが迷わず始めたのが、日本語の習得だった。夜間の貿易学校に2年通って、日本語と貿易実務を学び、当時、ベトナムで日本企業初の駐在事務所を開設していた商社「日商岩井」(現・双日)に就職した。
面接時には話せなかった日本語も、7年勤務する間に上達。第1子を出産するタイミングで、日本企業の貿易を広くサポートしたいと、日越貿易会社に転職した。
そこで、さまざまな日本の中小企業の経営者らに出会った。アジアン雑貨ブームに乗って、民芸品を企画生産し、日本に輸出する会社を立ち上げたり、事業継続が困難になった大手日系ハムメーカーの水産加工工場を引き取ったりしながら、経験と信頼を積み重ねていった。
水産加工の事業では、子どもを寝かしつけた後、深夜0時に卸市場に出かけて原材料を仕入れ、早朝5時に戻って、2時間寝てまた仕事に出る、という生活を5年続けた。
その加工会社は2009年に新工場を稼働させ、現在、えびカツや魚のすり身を製造して日本に輸出し、ベトナム国内向けにはコンビニやスーパーに惣菜や冷凍食品を製造するなど、順調に事業を拡大している。
「いろんなトラブル、失敗もたくさんありましたが、そのたびに日本の人たちが助けてくれました。生活の面では子どもをきちんと学校に行かせ、3LDKのマンションに住めればいいと思っていました。でも、仕事で日本の人に学びたい、日本人の優しさを宣伝したいという気持ちでいっぱいでした」と振り返る。
その根っこには、「日本の人が食べているものや使うもの、丁寧につくられた、安全で衛生基準の高い製品をベトナムの人にも届けたい」という強い思いがあったのだという。
転機となったオムツの販売代理店事業
メイさんの事業を大きく方向づけたのが、1999年にスタートした大王製紙の紙オムツの販売代理店事業だ。
日本製は当時のベトナムの一般的なオムツの3〜4倍と高く、売れる見込みがない。周囲に反対されたが、誰もやらないなら挑戦したいと代理店を引き受けた。
ちょうどその頃に、メイさんの第2子が誕生した。普段使うオムツではおしりがかぶれるのに、この商品ではかぶれない。ニーズは必ずある、と確信したという。
最初は1年間で2〜3コンテナ分を売り切るのがやっと。40人のアルバイトを雇って、子どものいる裕福な家庭にサンプルを送り、感想を聞き、PRを繰り返す。
粉ミルク販売でも、同様の手法でファンを増やし、高品質のベビー関連商品の販売を5年で軌道にのせた。メイさんによると、現在は当初の「50倍以上のボリューム」を日本から輸入し、卸販売の中核商品として安定的な利益を出せるようになったという。
旺盛な飲食市場の開拓を目指して、2014年には丸亀製麺とベトナム展開のフランチャイズパートナーを締結、イオンベトナムに1号店を開業した。ベトナムのほかの都市にも広がり、今年で20店舗になる予定だ。
丸亀製麺のFC事業は8年赤字が続き、黒字化したのはつい、2年前のことだという。
「いい材料を使い原価も高い。でも、お客さんは安心安全なもの、健康のことを考えるようになる。収入も高くなり、屋台も値上げしてくるから、それまで待とうと思いました。複数の事業を育てるのは、新規事業の赤字に耐えるためでもあります」と語る。
丸亀製麺を皮切りに、CoCo壱番屋、吉野家、マツモトキヨシなどFCや提携先を増やしてきた。目指すのは、成功しているビジネスモデルを学び、高付加価値な食や製品の輸入を通して日本のライフスタイルを紹介することだ。
【2024年6月1日14時20分追記】初出時の記述に誤りがあり、修正しました。
デートに使えるお店にとデザインしたCoCo壱番屋の外観(ロータス提供)
ただ、「そのまま持ってくるだけでは価値を届けることはできない」とメイさんは強調する。ベトナムの人が好むテイスト、収入に見合った価格、世帯構成などを考慮して「リ・ブランディング」するのが、ロータス社の役割だ。
天空では、大阪の「宇治園」から仕入れた抹茶と器を生かしたオリジナルの抹茶スイーツが人気(筆者撮影)
当面の赤字を覚悟しつつも、「お金に見合う価値」を実感できるマーケットを自ら育てていく。独自企画で売れ筋をつくり出す事例が増えており、マーケッターとしての存在価値に、メイさんはますます自信を深めている。
教育方針も日本から学んだ
そんなメイさんに、レストランで取材していたときのこと。奥の席にいる客と店員のやりとりに耳をそばだてていたメイさんが、すかさずマネージャーのスタッフに声をかけ、サポートに入るよう促す場面があった。
筆者がその様子をみて、スタッフの教育方針について話題を向けてみると、「今みたいな指示も全部、日本から学んだことですよ。30年の間ずっと、日本の人が心からの愛情で社員にも商品にも向き合っている姿をみて、素晴らしいと思ってきたんです」と言い、こう続けた。
「いつも私が社員に伝えているのは、会社は私のものではないということです。いいチームをつくって、いい関係性を築いて、一生懸命目標に向かってがんばりましょうと。でも、今の時代はあまり苦労を知らないから、人の気持ちがわからなくならないか、それをとても心配しています」
2020年からのコロナ禍では、経営する飲食店がフル営業できない事態が2年近くに及んだ。日本とは異なり、政府からの助成金はない。そんな状況下でメイさんが最優先に考えたのは、「私の財産」と呼ぶスタッフの雇用の維持だった。
ほかの会社で解雇の動きが広がる中、ロータス社は所有不動産を売却し、10億円規模の追加融資を受け、毎月の給与支払いを50〜70%でもなんとか続けながら研修を重ねた。コロナ禍が明け、景気が急回復したとき、守り抜いたスタッフの機敏な動きは業績回復の大きな支えになったという。
ベトナムの商品の「逆輸入」の提案も
冒頭で紹介した日本食レストラン「天空」では、メイさんが魅せられた日本の逸品食材がふんだんに生かされ、客の「驚きと感動」を狙ったという料理やスイーツの数々を味わうことができる。
ほかにも、日本式のベーカリーカフェでは、ベトナム人好みに改良を加えた惣菜パンが評価され、FC本部から「逆輸入」を提案されることも増えた。
メイさんの”日本歴30年”の経験を詰め込んだ「ベトナム発日本食ブランド」のアジア・海外展開の可能性が、いよいよ視野に入ってきた。
かつて日本人が置き去っていったものを引き継ぎ、全力で自分のものにしながら、ベトナム社会とともに会社を成長させてきたメイさん。
戦後、目覚ましい復興と革新をリードした日本人の原動力とはなんだったのか、その日本人の仕事観、経験的な価値とは何かを、私たちはメイさんから教わる機会が増えてくるのではないだろうか。
(座安 あきの : Polestar Communications社長)