“醒めない夢を、君に贈るよ”をコンセプトに活動するセルフプロデュースソロアイドル、ヤギヌマメイ(撮影:梅谷秀司)

なぜ地下アイドルになるのか「歌やダンスが好きだ」「売れたい」など、始める理由は人それぞれある。

同時に、近年の傾向として、長くても3年以内に辞めていくケースが多い。そこには活動環境はもちろん、金銭的な問題やメンタル的な問題など様々な理由が存在する。

そういった中で長く続けられるアイドルは、いったい何が違うのだろうか。

今回、話を聞いたヤギヌマメイは、アイドル開始当初より大人たちの事情に翻弄されることに嫌気がさし、セルフプロデュースに切り替え、たくましくソロアイドルを続けている一人だ。彼女のアイドルへの想い、その原動力に迫った。

*この記事のつづき:「大会場でライブしたい」地下アイドルの大胆秘策

キャリア8年目のセルフプロデュースアイドル

「ヤギヌマメイです! よろしくお願いしまーす! ヤッター!!」

とある週末、新宿にあるライブハウスに響き渡る元気な声。ペンライト片手に声を張る、はたまたカメラで熱心に撮影するなど様々なヲタクの声援を受けるアイドルがいる。

彼女の名はヤギヌマメイ。現在、キャリア8年目に突入したセルフプロデュースアイドルである。

そこにあるのは地下アイドル現場としては、ある意味完成されているライブであり、地下アイドルとしてはとても整っている風景だ。

なぜ整っているかというと7年以上、この日々のライブをセルフプロデュース、つまりは単独で継続し、築き上げてきたライブだからである。もちろんそれに加えて日々の努力を怠らず成長を感じさせる。そこにヤギヌマメイのすごさがある。

いったい彼女はどのようにしてソロアイドルを続け、これらのライブスキルを身につけてきたのだろうか。

平日の早朝ライブなどインパクトのある企画を率先して行うのがヤギヌマメイのらしさだ(動画:ヤギヌマメイ公式YouTube)

アイドルをやるまでは、いろんなことが全部中途半端に終わってて、諦めが早かったですね。諦めグセがすごかったです」

誰しもが何かやっていたことを続けられずに中途半端に投げ出した経験が一度や二度あるだろう。

ヤギヌマも、アイドルを始めるまで、いや、今の形にいたるまではそんな中途半端な人間だった。中学で柔道部に入り打ち込むも卒業と同時に辞めた。空手も習っていたが黒帯をとる前に辞めた。

高校時代は何をするわけでもなく、バイトをしてカラオケに通う日々だった。とにかくカラオケにはまっており、2〜3時間歌いっぱなし、そんな毎日を過ごしていた。

「セルフプロデュースの初期にまだオリジナル曲がなかったころ、カバー曲を歌っていたのですが、ステージングの原型はこの頃のカラオケですね。なんかイスから落ちてあざができるくらいはしゃいでました(笑)」


高校時代は原宿系ファッションに身を包み竹下通りを歩いていた(撮影:梅谷秀司)

「きゃりーぱみゅぱみゅ」に憧れた高校時代

そんなヤギヌマは、カラオケで歌うことは好きだが、あくまでそれは遊び。本人の心は原宿にあった。

当時、ものすごく影響を受けたのが「きゃりーぱみゅぱみゅ」。彼女のファッションや生き方に憧れ、自身もカラフルなファッションに身を包み原宿を歩いていた。

「右足ピンク、左足水色みたいなファッションで歩いてましたね。ファッション誌とかのカメラマンから声かけられないかな、みたいな感じで原宿にいましたね〜。声かけられることなかったんですが……」

そして高校卒業後は、声優の養成所に通い始めた。高校時代に遊んでいた友達にアニメ好きが多く、その影響を受けた。ヤギヌマ自身も映画が好きだったこともあり、洋画の吹き替え声優になろうと思い立った。

「2年間通いました。発声練習とかセリフ読みやダンスとかもあって。でも最終的に事務所に所属するためのセレクションがあるんですけど、それに落ちちゃって。結局それで諦めました」

吹き替え声優を諦めたヤギヌマは、アパレルショップで働き始める。

とはいっても、自らが希望する原宿系のアパレルブランドはことごとく面接で落ち、好みとは真逆のベーシックなブランドで働き始める。自身の趣味とは合わない場所での仕事はヤギヌマ自身が言うところの「やりがいがなくつまらない日々」を過ごしていた。

「毎日、服を畳んでは揃えてを繰り返してました。まだアイドルになる前ですね。20〜21歳ぐらいの頃。つまらない人生でした」

3年目に差しかかった頃、職場でのトラブルに巻き込まれ、バイトを辞めることとなる。残念ながらアパレルショップでの仕事も自身の好きなブランドで働くことなく、ここでも中途半端に終わってしまう

職場での人間関係で傷ついたこともあり、バイトを辞めた後は、実家で引きこもることになった。

「実家に引きこもっていましたね。メンタルもやられていたので。そうしたらやっぱり母親は心配するじゃないですか。『そろそろ働いたら?』って。だから言われるのが嫌で、友達の家に避難してたんですよ。そうしたら、その友達が『やることないならアイドルにでもなったら? なんかオーディションいっぱいあるし応募してみなよ』って。今思えば適当ですよね。でも私もやることないし『じゃあ、やろう』って応募しました」

かくしてそんな適当な友達の一言から、ヤギヌマメイのアイドル人生は動き出すことになる。2016年春のことだった。


アパレルショップでの人間関係で傷を負い、辞めた後はやる気が起きなかった(撮影:梅谷秀司)

「契約書もないフリーアイドル」としてのデビュー

応募はしたものの、当然当時のヤギヌマはアイドル、ましてや地下アイドルの存在など知る由もなかった。

そしてオーディションを受けるも、募集していたアイドルグループには不合格。しかし、そのオーディションに落選した子たちでグループを作るというので、それに参加した。

曰く運営っぽい人はいたが、事務所所属ではない。契約書を交わすこともなく皆フリーとして集まっているグループだった。

今も昔も地下アイドルが「闇深い」などと言われるのは大人が関わっているにもかかわらず、契約も結ばずにグループを運営するという、こういった適当なところにあると言わざるを得ないだろう。

だが、引きこもっていたヤギヌマにとってはチャンスであり、その機を逃したくなかった。そうしてアイドルのことを何もわからないまま、ステージデビューすることになる。

「当時は今と違って、ものすごくネガティブだったんですよ。よくXとかでネガティブなこと書くアイドルいますよね。私もああいった感じだったんです。でもある時、ライブでファンの方に『カワイイね』って言われて、私それをめちゃくちゃ否定したんです。そうしたらその方にものすごく悲しい顔をされて……。その出来事で『ネガティブな自分じゃダメだ』と思ったんです」

この出来事がアイドルとしてのヤギヌマメイを大きく変えることとなった。当時のネガティブなヤギヌマがもたらしたショックな出来事だった。

「あの時のファンの表情は忘れられませんね……」

ヤギヌマ自身も深く傷ついた。褒め言葉を否定すると、ファンが傷つくということを知った。それ以来、ファンを傷つけまいと開き直り始め、その究極が「カワイイって言えよ!」という今の強気なスタイルとなった。


とにかく明るく楽しいステージがヤギヌマメイのライブの特徴(撮影:松原大輔)

流されるまま「ソロアイドル」として再デビュー

デビューしたグループではメンバー間での意思疎通が上手くいかなくなり、早々に脱退。事務所所属でもなく、取りまとめるきちんとした運営がいないグループでは、ある意味当然の選択となる。

そして、一緒に抜けたメンバーと2人で組んでデビューを計画。だが、そのメンバーも、デビューワンマンライブの1カ月前に辞退を申し出て、その結果、ソロアイドルとして再デビューすることになった。

「今思えばもっと支え方とか話し合うとかあったと思うんですが、当時はできていませんでしたね。でも、なんとかデビューライブはやりたかったので、2人で組んでいたセットリストとか全部ソロで考え直してやりました」

2018年5月、新宿のライブハウスでヤギヌマとして再デビューを果たす。

ソロでやりたいわけではなかった。グループに再度応募する時間もなく、ひとまず一人で始めた。

ソロアイドル・ヤギヌマメイの誕生は確固たる夢や希望に満ちたものではなく、置かれた環境に合わせた云わば惰性のようなものだった。

高校の頃とかも、ずっと成功体験がなくて。アパレル店員になりたいとか声優になりたいとか、ちゃんと夢として持っていなかったと思うんですよ。持っていたら辞めずに続けられたと思うし。アイドル始めた頃も同じライブハウスで同じ曲を同じお客さんの前で歌っていて。それでも毎日歌えることは楽しかったので。それまでは大きな目標とかなかったですね。悔しい思いをするまでは……」

振り返ってみると、デビュー間もない頃はネガティブなアイドル。そしてファンからの一言で、徐々にネガティブからの脱却を図り、振り切った形となる。

全身タイツで踊り、フロアに降りて客を煽り、ぬいぐるみを振り回す。ある意味「イロモノ」的なアイドルだった。まだ、なんの目標もない楽しいだけのアイドル。

そんなヤギヌマを変えたのはコロナ禍とフランスでの大きなイベントの出演権をかけた賞レースだった。アイドルの賞レースとは「大きなイベント」への出演権をかけ、来場客の投票や、お目当ての集客人数などがポイントになり競うものである。


楽しい曲だけでなくしっとりとした曲も歌い上げる(撮影:松原大輔)

アイドル活動で初めて味わった「悔しい」思い

勝てばフランスに行けるっていうイベントでふざけながらも1点差で決勝を逃して悔しい思いをしたんです。その後に大きな会場での対バンに出るチャンスがあったんですが、配信の関係でカバー曲を歌えなくて、ぬいぐるみを使った小芝居をしてなんとかつないだんですが、めちゃくちゃすべって。これもすごく悔しかったですね」

その出来事からヤギヌマの意識が変わった。

カバー曲メインだったがオリジナル曲やオリジナルの衣装の重要性を認識した。適当だった振り付けの大切さも知った。ようやくアイドルとして本当のスタート地点に立った気分だった。

そして追い打ちをかけるようにやってきたコロナ禍。

当時、自分を覚えてもらうために例えば全身タイツを着てフロアに降りて客を巻き込み盛り上げるなどしていたが、そのやり方も当然できなくなり、純粋にステージでの歌とダンスを充実させなければならなくなった。

「性格的にも(アイドルの)王道は無理で。そこからネタ的なものになったんですが、コロナ禍でできなくなって、その時に4カ月半ぐらいライブを一度休んで準備期間に充てました。どうすればいいか考えましたね」

それまでの自らの武器を封印されたヤギヌマは一度立ち止まり、オリジナル曲、そしてオリジナルの衣装を準備して戻ってきた。そして試行錯誤しながら、今の曲とダンスを魅せる形へと進化していった。

中途半端だった人生が、ファンとのやり取りで超ポジティブなものに変わったコロナ禍でアイドルとしての魅せ方も変わった

これまで続けてこられたのは、あの日見たファンの悲しそうな顔。そしてステージで味わった悔しさ。「変わらなければ前に進めない」という現実だった。

そして今、ヤギヌマには大きな目標がある。

「あの日、悔しい思いをしたステージでワンマンライブを絶対にやります! それまでは辞められません!」

ソロアイドル・ヤギヌマメイ。彼女のアイドル人生はまだまだこれからに違いない。

*この記事のつづき:「大会場でライブしたい」地下アイドルの大胆秘策

(松原 大輔 : 編集者・ライター)