カルトではない「宗教2世」が抱える困難と思い キリスト新聞編集長に聞く
安倍晋三元首相が銃撃され死亡した事件を契機に、宗教2世が抱える苦悩が大きな注目を集めた。親による教義の強制や献金問題、虐待行為、周囲からの孤立など当事者の声は重く、行政も動き出そうとしている。
統一教会やエホバの証人などの宗教2世による告発が相次いでいるが、宗教2世の話題からこぼれがちなのが「カルトではない普通の宗教の2世」だ。
仏教や神道、キリスト教など、日本でも一定の歴史がある宗教2世は今の騒動をどう見ているのか。キリスト新聞の編集長を務め、自身もプロテスタント2世の家に育った松谷信司氏に話を聞いた。(取材・文:遠山怜)
●特定の宗教を持つ家に生まれ育つということ
松谷さんは高校を卒業して大学進学時に関東に移り住むまで、福島県の郊外で生まれ育った。両親はともにプロテスタント派のクリスチャンであり、その家に生まれ育った松谷氏も後にクリスチャンとなった。カルトではない宗教2世の親子間では、どのような家庭教育やルールが形成され、信仰継承が行われているのだろうか。
松谷氏:まず、なんらかの宗教に属している家庭も、そうではない家庭と同様に親や家族間の関係や地域性、時代によって、信仰に対する意識や教育、生活スタイルはバラバラです。この宗教に属している人は必ずこう育てられる、という訳ではないことはご理解いただきたいです。
そのうえで共通点を挙げるとするならば、クリスチャンであれば「日曜日は教会に行く」ことは共通していることが多いでしょうか。個人差が大きくありますが、恋愛関係に制限がある家庭の子もいます。クリスチャン以外と交際してはいけないというルールです。さらに家庭内で聖書を読む時間が設けられていたり、食事の前に祈る時間があったりするケースもあります。また、飲酒に関する規定がある家庭もあります。
これらの規定は、年齢を重ねるにつれ、負担としてのしかかってくることが多いものです。例えば、日曜日に運動会や文化祭などが行われる学校は多いですが、行事に参加できない。クリスチャン以外と交際できないとなると、宗教人口が少ない日本では大きな支障が出ます。また、お酒も以前ほどではないとはいえ、社会人として生活する中で仲を深める機会として頻繁に登場します。アルコールが苦手だと言い訳できればいいですが、それでも飲酒を強要されそうな雰囲気の時にどうすればいいか戸惑う人は多い。
私の場合は両親ともに一般信徒でしたから、「自分たちはクリスチャンである」と人に伝えない限りは宗教に属しているとは分かりませんが、牧師の子として生まれた子は「あの子はクリスチャンの子だ」と近所や学校の人にはすぐにわかってしまいます。「立派な職業の人の子である」と人から見られることにより、他の家庭よりも礼儀正しく真面目であることを求められる傾向はあると思います。
また「家庭内の当たり前が世間の当たり前ではない」「家庭内に起きていることを外のコミュニティの人に伝えにくい」問題は、程度に差はあれ宗教に属しているどこの家庭でも発生しているのではないでしょうか。問題を抱えていても、外部の誰かに相談しにくくなってしまったり、頼っても助けにならない感覚を持ち孤立する子どもも少なくありません。
ーーキリスト教内でも家庭内で伝道が行われたり、「親と同じ宗教に入って欲しい」という気持ちを持つ親御さんは多いのでしょうか。
松谷氏:キリスト教には「他者にキリスト教を教え、広めよう」という基本的な行動規範があります。自分の子どもであっても他の人と同様に信徒になって欲しい思いを持つ親御さんは多いでしょう。同じ信仰を持つことで家族としての一体感も高まりますから。
カトリックの家庭では親が希望すれば子どもに幼児洗礼を授けることができるので、物心つく前にクリスチャンになっていた子どもが多い。一方、プロテスタントでは「自分でキリスト教を信仰する」と自覚し、告白してから信者となる規定があります。その辺りは教派によっても様々です。プロテスタントの方が自分の自由意志で入信するように見えますが、小学校3・4年生で「周囲が喜ぶからなんとなく」洗礼を受けてしまう子がいるのも事実です。小さい子どもにとっては、親が喜んでくれることは嬉しいことですから。
●思春期の乗り越え方は難しい
ーーそうすると思春期になってから「教会から離れたい」と思う方もいるのでしょうか。
松谷氏:信仰を続けるかどうかを悩む悩まないは人によりますが、宗教2世には必ず成長とともに葛藤が生まれます。自分で選んだ訳ではないのに、強要されたこと、制限があることに気づきますから。主に思春期に葛藤が始まることが多いため、「親が嫌で反発しているのか」「宗教が嫌で反発しているのか」うまく分化できない場合もありますね。宗教に属していない家庭の子どもよりも、思春期の乗り越え方は難しいかもしれません。
最終的には親が属していた宗教とは決別し、コミュニティからは距離を置く人もいます。特に進学・就職で地元を離れる人は多いですから、そのタイミングで一つの区切りとされやすい。もちろん、離反せずにそのままキリスト教徒であり続け、そのコミュニティ内にとどまる人もいます。そもそも反抗期もなく、宗教への所属や規律が嫌だと感じたこともない子がいるのも事実です。幸せな宗教2世もいますから、一枚岩ではないですね。
●「宗教2世」の問題ではなく「カルト2世」の問題?
ーー今回、旧統一教会の事件から宗教2世界隈が一気に話題になりました。隠れた虐待や問題行為、子どもが負う問題の深さが明るみになってきた今、カルトではない宗教2世はどう思われているのでしょうか。
松谷氏:実はいわゆる「宗教2世」問題が顕在化する前から、日本の伝統宗教(仏教、神道、キリスト教など)の間でも2世問題は叫ばれていたんです。2世の子どもがぐれてしまったり、その後の人生に生きづらさを感じている声が多数あがっていた。ですから、「ようやく注目してくれた」と思っている人たちも少なからずいます。
その反面、このムーブメントをよく思っていない人も当然ながらいます。今回は旧統一教会などのカルト系宗教2世が問題となっていますが、これが「カルト2世」ではなく「宗教2世」と名付けられたことで、伝統宗教の家庭に生まれた子も同じ「宗教2世」とみなされてしまいます。
しかし、今世間で叫ばれている一連の問題は、「宗教2世」の問題ではなく「カルト2世」の問題だと区分けしたがる宗教1世、2世は多い。「あくまでカルト内の問題であって、伝統宗教である自分たちは関係ない」「自分たちがこれまで継承してきた伝道と生活スタイルは変える必要がない」と。
しかし、本来「カルト宗教」と「普通の宗教」を隔てる境界線は常に曖昧なものだと思います。
高額な献金を要求しなければ、霊感商法を用いていなければ、設立から年数が経っていて地域に馴染んでいれば、カルトではないと断定できるものでしょうか。確かに一つの判断軸にはなるでしょう。しかし、それだけで認定できるものではありません。歴史があって社会的に認知されている宗教であっても、時代が経つにつれ特定の教義やルールを絶対化してしまうことはありえます。それはカルト的ではないと言い切れるものでしょうか。
●宗教とカルトを隔てるもの
キリスト教に限らずですが、宗教自体が自分で考えることを手放し、教義や神様、信仰しているものに身を委ねることを良しとする傾向があります。キリスト教では何か疑義を感じても「その考えはサタン(悪魔的)だ」と敵視し、自分の中でもコミュニティの中でも疑念が生じてもなかったことにしてしまう例があります。思考停止を良しとしてしまうことは、ある種の洗脳状態に導きやすい危険をはらんでいます。
もちろん、そうした「自分で考えずに絶対的なものに身を委ねる」利点はあります。心の葛藤が深すぎたり追い詰められている際には、自分の責任や判断力を一旦手放してしまった方が楽になれます。それで救われてきた人は、歴史的にもたくさんいるわけです。
利点があるからこそ、宗教にはそのような教義やルールが設けられてきた背景があると思います。しかしその反面、問題もあることには自覚的にならなくてはいけない。自分たちの欠点や危険性を意識せずに「宗教は良いものですから信じてください、理解してください」と言っても、了承は得にくいでしょう。良い面があることを信じたいならば、悪い面も持ち合わせていることを受け入れなくてはならない。
私も含め、伝統宗教に属していると何か外部から指摘されたり責められることがあると、「うちは昔からこうだったから」「聖書にはこう書いてあるから」と正当化する言い訳をしがちです。しかし、それは宗教に属していない外側の人からみた場合、信頼性に欠ける態度でしょう。
私を含め、宗教に属している人は自分たちの宗教の意義や価値を信じています。だからこそ、自分たちに都合の良い部分だけではなく、悪い面があることも認めて、それでもなぜ自分たちの宗教が世の中に必要とされるのか、説明する責任があると私は感じています。
宗教2世の問題に光が当てられている今、自分たちがカルトではないと信じている宗教に属している方々も、自分たちの襟を正すべきではないでしょうか。自分たちの意義を問われる大変な局面ではありますが、被害を繰り返さずに、きちんとした宗教として成立する機会でもあります。それで離れる信者が多数出るのであれば、本当に価値を提供できる宗教の場にはなっていなかったのかもしれません。
●「いろんな家庭の子がいる」こと知ってほしい
ーー周りの方が宗教2世の方にできることはあるのでしょうか。
松谷氏:まず、日本人はキリスト教に限らずですが宗教に関するリテラシーが全般的に低いと感じています。イスラム教であれ仏教であれ、名称こそ知れど教義の概要も把握していない。そして「自分たちは無宗教。だからカルトには引っかからないしハマらない」と信じています。しかし、本来の宗教とはどういうものなのか理解していないと、怪しい団体や宗教に気がつく事は困難ではないでしょうか。先に伝えた通り、通常の宗教の皮だけ被った狂信的な団体がいる可能性はありますから。正しい科学的素地がないと、不安を煽られれば疑似科学に傾倒しやすくなるのと同じ構造です。
自分や周りの大事な人を守る上でも、そして周囲の誰かの支えになる意味でも、宗教に関するリテラシーを持っておくことは大切だと思います。
以前、カルト宗教2世の当事者の会に参加したことがあります。そこに、小学校の頃から宗教2世と既知の仲だったという友人も参加していました。その友人いわく、「小さい頃から彼は友人で、当時から何か普通とは違うと思っていた。でも何が問題なのか、幼い頃は気づいてあげることができず、大人になってようやく背景にあったカルト宗教の存在に気づけた。助けられそうな場面もあったのに、子どもの頃は何もできなかった」と後悔の念を抱いていました。
彼のように理解の手を差し伸べようとしてくれる人がいたら、それだけでありがたいですよね。宗教への理解を深めずとも、ただ普通に接してくれる友人がいてくれたら、それだけで救われる人もいると思います。せめて「いろんな家庭の子がいる」ことは、周りの親御さんも子どもも周囲の人ももっと知ってほしいと思います。
●カルト2世の願い「もっと宗教者に関心を持ってほしい」
ーー逆に、宗教2世だからこそできること、今後考えるべきことはなんでしょうか。
松谷氏:通常の宗教2世は宗教に関しての理解があるので、危険な考え方の見分け方、教義との距離の取り方を生まれつき掴んでいることが多いと思います。加えて、宗教1世、つまり自分たちの親よりも宗教に関する客観性が高い。親世代は無宗教の状態から好んで特定の宗教に入信したわけですから、教えに関して強い熱意や思いがあります。それに比べて2世は少なくとも当初は自分の意思ではなく、周りの影響で宗教に関わっているので、熱意は1世と比較すれば低い。だからこそ、宗教2世はカルト2世と交流することに意味があると思うんです。
カルト2世にとっても、宗教2世と比べることで「自分のいる環境の何が苦しかったのか」違いがわかりやすいと思うんです。宗教に属していない人と比べると、違いが多すぎて焦点を当てることがかえって難しくなる。宗教2世はカルト2世にとって、生きづらさを解明できる起点になれる気がしているんです。
今、カルト2世の問題を解決するために、様々な支援策が始まろうとしています。しかし、先に述べた通り、日本は一般的に宗教的な知識が不足しています。行政も福祉も心理職の方も宗教的な知識は乏しい。助けを求める手が上がり、支援をする人が手を伸ばそうとしているが、うまく細かいところが合致しない。
そこで、カルト2世からは「もっと宗教者に関心を持ってほしい」と要望が出ているのです。宗教者であれば、問題のある宗教との関わり方や距離の取り方、逃げ方を具体的に伝えることができる。宗教2世がその間に入ることで、助けを求めている被害者と行政がスムーズに連携することができるのではと思います。
そして、カルト2世と交流することで宗教2世も「自分の所属する宗教の問題」に気づくことができるのではないでしょうか。「私の家は普通の宗教だから」「立派な教えだから」と心に蓋をしてきたことを、見直すきっかけになるでしょう。普通の宗教だからといって、すべてを許容する必要はありません。部分的には問題があったと認めるのは、間違った行為ではないでしょう。
カルト2世とは異なり、普通の宗教2世には自助グループや被害者の会など、横の繋がりはまだありません。同じ教派内で知り合いはいても、それを超えた繋がりの形成が難しいのです。2世であるとみられたくないことも手伝って孤立しがちな状態が続いています。
しかし、どんな宗教2世であっても、生きづらさや不満に思ってきたことがあるはず。それを言語化し、発信して行く必要があると思います。「カルト2世の問題だから」と蓋をせずに、自分たちの体験を言葉にすることで、みんなにとって安らげる宗教のあり方が模索できますし、宗教2世、そして今後生まれてくるだろう3世も生きやすくなると思うんです。