稲盛和夫さんは、托鉢の行を通じて「利他の心」にふれる経験をしました(撮影:今井康一)

京セラと第二電電(現KDDI)を創業、経営破綻した日本航空(JAL)の会長として再建を主導し、「盛和塾」の塾長として経営者の育成にも注力した――。

「経営の神様」とも称された稲盛和夫さんが90歳でこの世を去って1年。8月26日(土)にはNHK総合(近畿地方)において稲盛さんの一周忌特番が放送されるなど、稲盛さんの経営者としての歩みやそこで培った人生・経営哲学には、今なお色褪せない普遍的な価値があります。稲盛さんをしのび、日本で150万部、中国で600万部を突破した著書『生き方 人間として一番大切なこと』から一部抜粋してお届けします。

托鉢の行をして出会った人の心のあたたかさ

1997年9月、私は京都の円福寺(えんぷくじ)というお寺で得度をし、「大和(だいわ)」という僧名をちょうだいしました。ほんとうは6月に得度を行う予定だったのですが、直前に検診で胃がんが見つかり、急遽手術を受けることになったのです。そして、術後2カ月あまりを経過して、いまだ体調も万全とまではいきませんでしたが、9月7日に、俗界に身を置きながら、仏門の一員に加えていただきました。

それから2カ月あまりたった11月には、短期間ではありますが、お寺に入り修行もしました。病み上がりのこともあって、修行はかなり厳しいものでしたが、そこで私は生涯忘れることのできない体験をすることができました。

初冬の肌寒い時期、丸めた頭に網代笠(あじろがさ)を被(かぶ)り、紺木綿の衣、素足にわらじという姿で、家々の戸口に立ってお経を上げて、施しを請う。いわゆる托鉢(たくはつ)の行は慣れない身にはひどくつらく、わらじからはみ出した足の指がアスファルトですり切れて血がにじみ、その痛みをこらえて半日も歩けば、体は使い古しの雑巾のようにくたびれてしまいます。

それでも先輩の修行僧といっしょに、何時間も托鉢を続けました。夕暮れどきになってようやく、疲れきった体を引きずり、重い足どりで寺へと戻る途上、とある公園にさしかかったときのことです。公園を清掃していた作業服姿の年配のご婦人が、私たち一行に気づくと、片手に箒(ほうき)を持ったまま小走りに私のところにやってきて、いかにも当然の行為であるかのように、そっと500円玉を私の頭陀袋(ずだぶくろ)に入れてくださったのです。

その瞬間、私はそれまで感じたことのない感動に全身を貫かれ、名状しがたい至福感に満たされました。

それは、その女性がけっして豊かな暮らしをしているようには見えないにもかかわらず、一介の修行僧に500円を喜捨することに、何のためらいも見せず、またいっぺんの驕りも感じさせなかったからです。その美しい心は、私がそれまでの65年間で感じたことがないくらい、新鮮で純粋なものでした。私は、その女性の自然な慈悲の行を通じて、たしかに神仏の愛にふれえたと実感できたのです。

おのれのことは脇に置いて、まず他人を思いやる、あたたかな心の発露――あのご婦人の行為はささやかなものではありましたが、それだけに人間の思いと行いのうちの最善のものを示していたように思えます。その自然の徳行が、私に「利他の心」の真髄を教えてくれたのです。

「利他」の心とは、仏教でいう「他に善(よ)かれかし」という慈悲の心、キリスト教でいう愛のことです。もっとシンプルに表現するなら「世のため、人のために尽くす」ということ。人生を歩んでいくうえで、また私のような企業人であれば会社を経営していくうえで欠かすことのできないキーワードであると私は思っています。

ささやかな利他行が大きな規模の利他へと地続きに

利他というと何かたいそうな響きがあります。しかし、それは少しもだいそれたものではありません。子どもにおいしいものを食べさせてやりたい、女房の喜ぶ顔が見たい、苦労をかけた親に楽をさせてあげたい。そのように周囲の人たちを思いやる小さな心がけが、すでに利他行なのです。

家族のために働く、友人を助ける、親孝行をする……そうしたつつましく、ささやかな利他行が、やがて社会のため、国のため、世界のためといった大きな規模の利他へと地続きになっていく。その意味では、私に500円玉を施してくれたご婦人とマザー・テレサの間に、本質的な差はありません。

人間はもともと、世のため人のために何かをしたいという善の気持ちを備えているものです。昨今でも、たとえば手弁当で災害地にかけつけるボランティアの若者が数多くいるという話などを聞くと、利他というのは、人間がもつ自然な心の働きだという思いを強くします。

人間の心がより深い、清らかな至福感に満たされるのは、けっしてエゴを満たしたときでなく、利他を満たしたときであるというのは、多くの人が同意してくれることでしょう。

また賢明な人は、そのように他人のために尽くすことが、他人の利だけにとどまらず、めぐりめぐって自分も利することにも気づいているものです。

毎夜自らの心に問いかけた新規事業参入の動機

利他という「徳」は、困難を打ち破り、成功を呼ぶ強い原動力になる。そのことを、私は電気通信事業へ参入したときに体験しました。

いまではいくつかの企業が競合するのが常態となっていますが、1980年代半ばまでは、国営事業である電電公社が通信分野のビジネスを独占していました。そこへ「健全な競争原理」を持ち込んで、諸外国に比べてひどく割高な通信料金を引き下げるべく自由化が決定されました。

それに伴って電電公社はNTTへと民営化され、同時に電気通信事業への新規参入も可能になったのですが、それまで一手に事業を独占していた巨人に戦いをいどむわけですから、恐れをなしたのか、新規参入しようという企業がいっこうに現れません。このままでは官が民に変わったのも名ばかりで、健全な競争は起こらず、料金の値下げによって国民が恩恵を受けることはできなくなります。

それならばオレがやってやろうかという思いが、私の中に頭をもたげてきました。ベンチャー企業から身を起こしてきた京セラこそ、そのようなチャレンジにふさわしいのではないかと考えたのです。

相手がNTTでは巨象にアリの不利な戦いであり、しかも業種が違う私たちにとってはまったく未知の分野である。けれども、そのまま傍観していたのでは競争原理が働かず、料金値下げという国民にとってのメリットは絵に描いた餅に終わってしまう。ここはドン・キホーテを承知で私が手をあげるしかない。


稲盛和夫さんは電気通信業への新規参入にあたって、私心が混じっていないか自問自答を繰り返しました(撮影:今井康一)

しかし、私はすぐに名乗りを上げることはしなかった。というのも、そのとき私は、参入の動機に私心が混じっていないかを、自分に厳しく問うていたからです。

参入を意図してからというもの、就寝前のひとときに毎晩欠かさず、「おまえが電気通信事業に乗り出そうとするのは、ほんとうに国民のためを思ってのことか。会社や自分の利益を図ろうとする私心がそこに混じっていないか。あるいは、世間からよく見られたいというスタンドプレーではないか。その動機は一点の曇りもない純粋なものか……」

という自問自答を私はくり返しました。すなわち「動機善なりや、私心なかりしか」――ということを、何度も何度も自分の胸に問うては、その動機の真偽を自分に問いつづけたのです。

そして半年後、ようやく自分の心の中には少しも邪(よこしま)なものはないことを確信し、DDI(現・KDDI)の設立に踏み切ったのです。

フタを開けてみると、他にも2社が名乗りを上げましたが、そのなかでは、京セラを母体にしたDDIがもっとも不利だという前評判でした。無理もありません。私たちには通信事業の経験や技術がなく、通信ケーブルやアンテナなどのインフラも一から構築しなければならず、さらには販売代理店網もゼロという大きなハンデを抱えていたからです。

世のため人のためなら、すすんで損をしてみる

しかし、そのないないづくしの逆境をものともせず、DDIは営業開始直後から新規参入組のなかで、つねにトップの業績を上げて先頭を走りつづけることができました。その理由を当時もいまも、人から尋ねられることが少なくありません。それに対して私の答えは1つ。国民のために役に立ちたいという私心なき動機がもたらした、ということしかありません。

DDIの創業当時から私は、「国民のために長距離電話料金を安くしよう」「たった一回しかない人生を意義あるものにしよう」「いまわれわれは百年に一度あるかないかという大きなチャンスを与えられている。その機会に恵まれたことに感謝し、このチャンスを活かそう」とことあるごとに従業員に訴えつづけてきました。

そのためDDIでは、従業員全員が自分たちの利益ではなく、国民のために役立つ仕事をするという純粋な志を共有するようになり、心からこの事業の成功を願い、懸命に仕事に打ち込んでくれた。それによって代理店の方々の応援も得られ、ひいては広範なお客さまの支持を獲得することもできたのです。

DDIの創業後しばらくして、私は一般の従業員にも額面で株式を購入できる機会を与えました。DDIが成長発展を重ね、いずれ上場を果たしたときに、キャピタルゲインをもって従業員の懸命の努力に報い、また私からの感謝の思いを表したいと考えたからです。

その一方、創業者である私自身は、もっとも多くの株式を持つことも可能であったわけですが、実際には一株も持つことはありませんでした。それはDDIの創業にあたり、いっさいの私心もはさんではならないと考えていたからです。

もし私がそのとき一株でも持っていたら、やっぱり金儲けのためかといわれても反論できなかったでしょう。また、DDIのその後の足どりも、また違ったものになったにちがいありません。

携帯電話事業(現在のau)を始めたときも、似たような経験をしました。DDIの事業を始めたときから、私は携帯電話市場の将来性を確信しており、その普及が国民の生活の利便におおいに寄与するであろうと考えてきました。そこで同事業への参入も図ったのですが、ここにも大きな問題が出てきました。

DDIに続いてもう1社が参入に名乗りを上げたのです。周波数の関係から、同じ地域ではNTT以外には1社しか営業できないという制約があったため、新参の2社で事業区域を2つに分けなくてはならなくなってしまいました。

損して得とれ、負けて勝つ

事業の収益性を考えれば、どっちも人口の集中する首都圏区域が欲しいから、なかなか合意が成立しません。私は公平に抽選で決めればいいと提案しましたが、これほどの事業をクジ引きで決めるとは不謹慎だと、当時の郵政省からたしなめられてしまいました。

しかし、このままいつまでも先の見えない綱引きをしていては、らちが明かない。ここで一方が譲らなければ、移動体通信事業そのものが日本に根づかなくなってしまうかもしれない――そう考えた私は、首都圏と中部圏という、もっとも大きな市場を相手に譲って、自分たちはその残りの地域を取ることにしました。


不利な条件を自ら申し出たかたちになり、DDIの役員会では、まんじゅうのアンコは相手にやって、こっちは皮だけ食うつもりかとあきれられましたが、私は損して得とれ、負けて勝つという言葉もある。みんなでがんばってまんじゅうの皮を黄金の皮にしようと説得して、何とか事業をスタートさせたのです。

けれども、いざ事業を開始してみれば、予想に反してわれわれの業績はどんどん伸びていきました。現在ではauとなってNTTドコモとしのぎを削っているのは、ご存じのとおりです。

DDIとauの成功は、世のため人のために役立ちたいという考え方が天祐(てんゆう)を招いたものであり、動機善であれば、かならずや事はなるということの証明にほかならない。私はそう考えています。

(稲盛 和夫)