ミャンマー国民統一政府・駐日代表は来日30年の「難民」男性 厳しい現状訴える「避難民、温かく見守って」
ミャンマーで2021年2月、ミン・アウン・フライン将軍率いる国軍が突然、軍事クーデターを起こしました。これに対抗し同年4月、国軍の拘束を逃れたNLD(国民民主連盟)のメンバーと少数民族の代表によってNUG(国民統一政府)が樹立され、軍事独裁政権打倒を掲げています。
2022年2月、日本に定住しながらミャンマーの民主化運動を支援し、少数民族の権利と平等を求める運動を支えてきたソー・バ・ラ・ティンさんが、NUG駐日代表に任命されました。
ソーさんは、「ミャンマーを忘れないでください。今も市民への弾圧は続いています」と訴えています。(ライター・遠藤眞彌)
●軍事独裁政権が長く続いたミャンマー
ソーさんが来日したのは1992年でした。そこに至るミャンマーの歴史を振り返ります。
第2次世界大戦後の1948年にイギリスから独立したミャンマーはその後、政治的にも経済的にも不安定な状況が続きます。1962年にはネー・ウィン率いる軍部がクーデターを起こし、独裁政権となりますが、民族対立や経済政策の失敗などによって、ミャンマーは最貧国の状態に落ち込みました。
1988年、この状況を変革しようと、若者が中心になって、民主化を求めて立ち上がりました。独立運動の英雄アウン・サン将軍(1947年独立直前に暗殺される)の娘で、国民にも影響力があったスー・チー氏もまた街頭演説で民主化を訴えました。この運動にソーさんも加わったそうです。
各地で大規模なデモや労働者のゼネストなどの抗議運動が起き、ついにネー・ウィン独裁政権は崩壊。この混乱状態に出動した軍は、1990年に総選挙を実施するとの約束を交わし、事態はいったん収束しました。しかし総選挙ではスー・チー氏率いるNLDが勝ったのですが、国軍はこれを認めずスーチー氏は自宅軟禁されてしまったのです。
●「日本は本当に安全で綺麗な国だと思いました」
国軍はその後も、民主化を求め抵抗する若者たちを執拗に弾圧し摘発しました。
身の安全を求め多くの若者が国外に逃れていき、その数は20万人ともいわれています。民主化運動に参加していたソーさんの仲間も、相次いで拘束され拷問を受けました。そしてソーさん自身も身の危険を感じ1990年、タイ国境に脱出し、1992年に日本に逃れたのです。
日本にいる知り合いを頼って来日したソーさんは「日本は本当に安全で綺麗な国だと思いました」と振り返ります。
「私は生きていくために、いろいろな仕事をしました。工事現場で働いたり、焼肉屋さんや中華屋さんで洗い物をしたり、茨城県へ3時間かけて通って工場で働いたりしたこともありました。そして軍事政権が続く限り、国には戻れないと覚悟し、難民認定の申請をしました」
ソーさんは2004年には高校時代から交際していた女性を日本に呼び寄せ結婚しました。現在は食肉加工製品の工場で働き、3人の子供たちと一緒に暮らしています。
2006年に難民認定を受けたソーさんは在日カレン民族連盟(KNL)の幹部、NPO法人PEACE(ミャンマー少数民族支援団体)の副理事長などに就任し、日本や世界にミャンマーの実態を訴えています。
●民主化したものの…再びクーデターが発生。今に至る
2015年、国軍がバックアップするUSDP(連邦団結発展党)、スー・チー氏率いるNLD、そして少数民族の政党などが参加した民主主義的な総選挙が実施され、NLDが圧勝しました。ソーさんは「これでミャンマーも民主主義国家の仲間入りができる」と喜びました。
「私はカレン族出身ですが、今まで少数民族はビルマ語やビルマ文化を強制的に教えられるなど、軍事政権から差別されてきました。ミャンマーは7管区7州で統治されています。7管区はビルマ族が多く住んでいる地域で、国軍が管轄しているわけです。そして7州はカレン族やシャン族、カチン族などの少数有民族が住んでいる地域です。
その7管区と7州との間には経済格差、教育格差が続いています。スーチーさんなら差別のない平等な社会を作ってくれると、みな思ったのです」
しかしその後の5年間、スー・チー氏率いるNLD政権は、国民が期待するほどの成果を上げられませんでした。逆にロヒンギャ虐殺などの問題を抱え、国際社会からも批判を受けました。
こうした背景から、2020年11月実施予定の総選挙ではNLDは票を減らすと見られていましたが、結果は予想に反してまたもNLDが圧勝。NLDは改選議席の476議席のうち396議席を獲得し、2015年の総選挙よりも多い、8割以上の議席数を占めたのです。
「この選挙結果を見て、国軍は、今後5年間NLDに政権を任せておくと、憲法を改正されて、自分たちの影響力を奪われると恐れたのです」
そこで2021年2月、国軍は選挙に1000万件を超える不正があったとし、クーデターを起こし、スー・チー氏を自宅軟禁するなど民主勢力を拘束しました。
このままではまた軍事独裁政権に戻ってしまうと、国民は立ち上がりました。クーデターを知った医療従事者や教員、そして公務員などが中心となって、「不服従運動」として働くことを拒否しました。市街では大勢の市民がデモに参加し、抵抗運動を展開していました。
国軍はデモ隊に対して放水やゴム弾などで威嚇しましたが、その後、実弾を発砲し、多くの市民に犠牲者が出ました。現地の仲間からソーさんに送られてきた写真には、警察・軍隊による市民への暴行シーンが写っていました。
「私が民主化運動に参加していた頃と違うのは、家族までもが巻き込まれることです。当時は若者がデモに参加して捕えられても、家族にまで危害が及びませんでした。しかし今は違います。家族の命まで危険にさらされています。
また、以前は少数民族に対して残虐行為を働いていたのに、今は民主化を求めるビルマ族に対しても残虐行為が繰り返されています」
●「祖国を応援してほしい」
ソーさんは2022年5月、NUG(国民統一政府)駐日代表に任命されました。ソーさんは、世界に向けて日本からミャンマーの現実を伝え、民主化への力強い支援を訴えています。
「国民の90%以上がNUGを支持しています。多くの国民は、この10年近く、完全ではありませんが民主主義的な世界を経験しました。ですから自由のない、強権的な国軍による独裁政権には戻したくないのです。私たちの求めているのは、少数民族にも自治権がある連邦制民主主義国家なのです」
「今また、ミャンマーから若い人たちが救いを求めて日本に避難してきています。皆さん、ぜひ私たちの同胞を温かく見守ってください。そしてミャンマーは国軍の弾圧がひどくなっています。私の祖国の国民を応援してください」
2021年の日本の難民認定者数は74人でした。世界に比べたら相変わらず少ない認定数ですが、そのうち32人がミャンマー人です。また人道的な配慮から在留を認められた580人のうち、ミャンマー人は498人を占めていました。
それまでの3年間はミャンマー人の難民認定者はゼロでしたから、いかに軍事クーデターの影響があったことか理解できます。
日本に救いを求めて来た人々をどう日本の社会は受け入れていくのか。欧米に比べて極端に少ない難民の受け入れ。入管の非人道的な扱いを受けて死亡したスリランカ人女性の事件、あるいは入管施設内での自殺。こういった現実の中で、私たちは今、その対応を迫られているのです。