10月24日は「大和」と並び世界最大といわれた戦艦「武蔵」が沈没した日です。日米が激突しレイテ沖海戦が勃発。そのうちのシブヤン海海戦で、「武蔵」は航空機による猛攻を受けました。船体は2015年に発見されています。

大和型戦艦の2番艦「武蔵」

 1944(昭和19)年の10月24日。「大和」と並んで世界最大(総トン数)といわれる旧日本海軍の戦艦「武蔵」が沈没しました。「武蔵」は10月下旬にフィリピン周辺海域で勃発したレイテ沖海戦で、第一遊撃部隊として参加していました。


戦艦「武蔵」(写真右)。トラック基地にて1943年。左奥は同型艦「大和」(画像:アメリカ海軍)。

 フィリピンを攻略しようとレイテ島に上陸してきたアメリカ軍に対し、「武蔵」「大和」を含む戦艦部隊がレイテ湾に殴り込みをかけるという作戦でした。このために、特に空母機動部隊が“囮”となってアメリカ軍を湾の守備から遠ざけ、手薄となったところへ「武蔵」などが突入しようとしました。

 10月22日、「武蔵」はブルネイを出港。北上しレイテ湾を目指しますが、アメリカ軍の圧倒的な戦力を前に苦戦し、途中で重巡洋艦を2隻失います。それでも24日、レイテ島の北西に位置するシブヤン海に到達します。

 午前10時過ぎ、アメリカ軍の航空機が襲来します。爆撃機や雷撃機のほか、ロケット弾を装備した戦闘機なども加わっており、攻撃は特に「武蔵」へ集中したとされます。世界最大にして“不沈艦”ともいわれた「武蔵」は幾度となく攻撃を受けてもなお洋上におり、戦闘開始から2時間が経過した正午過ぎ、すでに計10発以上の命中魚雷や爆弾を受けながらも航行を続けていました。

沈没から70年後、再び人々の目に触れた

 しかし15時前に受けた攻撃で、さらに命中魚雷10本以上、多数の爆弾を受けてしまいます。航行は可能であっても速力は落ち、浸水により艦の傾斜も増していました。各所で火災が発生し、戦死者も増大しました。


「武蔵」が1942年8月に竣工した際に撮影された前部砲塔。砲塔は1基で2510tもあった。

 戦闘開始から約9時間、復元不能になるまで傾斜した「武蔵」は爆発。シブヤン海の海底に沈没しました。一連の戦闘で受けた魚雷や爆弾の数は、計30発以上ともいわれます。1942(昭和17)年8月に就役した「武蔵」の生涯は821日間。戦艦同士の撃ち合いを想定して建造されましたが、いざ戦争が始まると、海戦の在り方は空からの航空攻撃を主体としたものに移行していたため、「武蔵」は想定されていた戦果を挙げることなく、その生涯を閉じました。

「武蔵」沈没から約70年が経過した2015(平成27)年3月、その巨体が見つかります。発見者はアメリカのマイクロソフト社を創業したポール・アレン氏。彼は8年の歳月をかけて探し当て、3月13日には海底探査機の映像をインターネットで中継しています。

 アレン氏は実業家であっただけでなく、父が第2次世界大戦に従軍したこともあり、晩年は同大戦で戦没した各種艦船の調査に取り組んでいました。2008(平成20)年には全長126.0m、排水量9932tの大型ヨットを購入し、それに2種類の海底探査機を搭載していました。

「武蔵」が見つかったのは、シブヤン海の水深1000mの地点。沈没時の爆発によって各種部品は直径1kmの広範囲で落下・散乱していることから、行方不明の構成品も多く、例えば1番主砲や3番主砲、マストや後部艦橋の上部などは、いまだ発見されていません。