八田真理子先生 撮影/山田智絵

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「患者はみんな家族のように思え」産婦人科医だった亡き父親の教えを貫き、31年。1日80人以上の女性を丁寧に診察するカリスマ医師の原点には、忘れられない患者たちの姿があった。性教育、生理や妊娠・出産の悩み、婦人科のがんと向き合い、女性の味方であり続ける八田真理子先生が「子どものいない人生」を選択した理由とは?

【写真】10代のころの八田先生、同級生からは「高嶺の花だった」とも

 千葉県松戸市の閑静な住宅街に、婦人科・産婦人科専門の『ジュノ・ヴェスタクリニック八田』はある。白い外壁の2階建てで、植木や花に囲まれた建物は、ちょっとレトロで、温かい雰囲気が漂う。

 事前に約束していたとおり、そっと入り口から入る。

 休診日なので、待合室は消灯され、人けはない。

「しー」、取材スタッフ同士で目くばせしながら、静かに廊下を進むと、明かりがともった談話室で、白衣姿の女性が打ち合わせをしている。

 こちらに気づくと、「遠いところをありがとうございます」、人なつこい笑顔を向け、「もうじき始まるので、挨拶はあとで! ふう、本番前は緊張しちゃう」、肩をすくめて、パソコンと向き合う。

女子大生の悩みを親身に解決

 この女性が、院長の八田真理子先生(55)。生理で悩む女性の救世主として『深イイ話』(日本テレビ系)に出演するなど、メディアで引っ張りだこのカリスマ産婦人科医だ。

 これから、八田先生の講演会が始まろうとしていた。

 テーマは、「生理のトラブル」について。一般社団法人『婦人科検診促進協会』主催の100人もの女子大生と回線をつないだ、リモート講演会だ。

 画面の中で司会役の女子大生に紹介されると、「なんでも聞いてくださいね!」と前置きして、生理のしくみや生理痛の原因などを、スライドを交えて説明していく。

「生理って、妊娠の準備のためにふかふかにした子宮のベッドの壁が、妊娠しないことで剥がれ落ちることなんです。たとえるなら、月に1度の婚活パーティーで、いい人と出会えなくて、う〜ん玉砕!っていうイメージかな」

 身近な話題をポンポン盛り込むので、専門的な話もわかりやすい。

 途中で女子大生から「生理痛の薬が効きにくいんです」と質問が入れば、的確な回答をしたあと、ライブならではのアドバイスを加える。

「ポイントはね、痛くなる前に飲むこと。すっごく大事!」

 気取らない話しぶりに、質問者が「ええ!? 限界まで我慢して飲んでました。最初から飲むと、痛み止めに慣れちゃうかと思って」と返せば、「そっか、そっか。でも、用法、用量を守れば、痛み止めに慣れちゃうってことはないから大丈夫」と先生。

 ざっくばらんなやりとりで、「おりもの」や「避妊のしかた」「生理前のイライラ」など、ふだんなら聞きにくいことも、遠慮なくディスカッションされていく。

「生理がどんどん重くなるとか、おりものの色やにおいが変だなとか、いつもと違うって感じたら、1人で悩まないで、私たち婦人科を頼ってくださいね」

 終盤で八田先生が提案すると、「生理痛なんかで病院に行っていいんですか」、不安げな女子大生に、「もちろん!」と即答する。

 そして、学生の気持ちを察するように、言葉を足す。

「婦人科って、なんかハードル高いよね。内診とか怖いし。でも内診しなくても、血液検査や、セックスの経験がなければおしりからのエコー検査でも診察できるの。だから怖がらなくて大丈夫。身体を守るためにも、かかりつけ医を見つけておくと安心ですよ」

 女子大生たちが笑顔になったところで、90分にわたる講演会はお開きとなった。

 リモート回線を切ると、八田先生は疲れを見せるどころか、名残惜しそうに言った。

「いつも調子が出てきたころに終わっちゃうんですよね。おりものの話なんか、あと1時間くらいしたかった!」

 この情熱こそ、八田先生が多くの女性たちに慕われる理由なのだろう。

ひとりで1日80人を診察

 クリニックの1日は、朝8時半に鳴りだす電話の音から始まる。

「この時間から当日の予約受け付けが始まります。大抵、9時には午前中の予約が埋まってしまいますね」

 そう話すのは、ベテラン看護師の今井よし子さん(61)。

「以前は、朝になるとクリニックの前に50メートルも行列ができていました。ご近所の迷惑になるので予約制にしましたが、それでも待ち時間はあります。患者さんが文句も言わずに待ってくれるのは、真理子先生の診察が丁寧だと知っているからですね」

 クリニックを訪れる女性は、薬の処方だけの患者も含め、1日80人にも及ぶ。ヘルプの医師が入る木曜日以外、すべてひとりで診察する。

「私の専門がホルモンなので、生理トラブルや更年期外来が中心です」と、八田先生。

 とはいえ、診察は不妊相談、妊婦健診など多岐にわたる。

 生理痛ひとつとっても、不妊症など、ほかの病気と関係している場合が多いからだ。

「生理痛が重い、お薬を正しく飲んでも効かない、生理以外のときでもお腹が痛い。こんな症状が続く状態を、『月経困難症』といい、『子宮内膜症』という病気が疑われます。進行すると不妊の原因にもなります」

 月経困難症が増えているのは、生涯に経験する生理の回数が激増してからだという。

「戦前の女性は、早婚で子どもをたくさん産んでいたので、一生のうちで生理の回数は50回程度でした。ところが、晩婚、少子化の現代の女性は、450から500回も経験しなくてはならない。これ、子宮にとってすごい負担なんです。

 ですから、赤ちゃんをすぐに考えていなければいったん生理を止めて、子宮を休める治療を始めます。服用するのは、低用量ピルが一般的で、血栓症というまれな副作用以外はほとんど心配ありません」

 不妊相談に訪れる患者の中には、長年、生理痛を我慢して、子宮内膜症が進行したケースも少なくない。

「この場合も、年齢的に時間があれば同じ治療をします。低用量ピルや黄体ホルモンで数か月排卵を止めたあとは排卵率が高くなり、妊娠しやすくなることもあるからです」

 治療の末、妊娠に至る女性もいれば、残念ながら、赤ちゃんを授からない女性もいる。

「診察室で、“なんで私だけ”と泣いてしまう患者さんもいます。私は、子どもを産む、産まないは本人の自由だと思っています。でも欲しいのにできないのは本当につらい。だから、これからどうしたいか、患者さんの希望を聞いて、一緒に治療方針を考えます」

 じっくり患者と向き合えば、診察時間は長引く。午前の診察を終えるのが、午後3時になることもザラで、待合室はすでに午後の患者で埋まっているという。

「そんなときは、“ごめんね! お昼ご飯だけ食べてきます!”と患者さんに謝って、裏の自宅でさっとすませてとんぼ返り。これが日常です」

 1日中、休憩もとらずに働く。それでも、仕事を終えて感じるのは、疲れより、充実感だと話す。

 なぜ、そこまで頑張れるのか。そう水を向けると、「父の影響ですね」、ポツリと言って、穏やかな口調で続ける。

「若い患者さんが来たら妹だと思え。年配の方が来たら母親だと思え。同世代の患者さんが来たら、自分ならどうされたいかを考えろ──。それが、産婦人科医だった、亡き父の教えでした」

日夜、お産に向き合う両親の姿

 1965年、東京の新宿区で生まれ、幼少期に横浜、松戸と移り住んだ。

「引っ越しが多かったのは、当時、勤務医だった父の赴任先の関係です。松戸で父が『八田産婦人科』を開業したのが、私が10歳のとき。以来、ここが実家です」

 開業とともに、これまで専業主婦だった母親も、新生児の沐浴や介助など、医院の仕事を手伝うようになった。

「当時はお産の件数も多かったので、両親は24時間体制で働いていました。深夜にお産があった翌朝は、休んでいる両親を起こさないように、長女の私が妹や弟の世話をして、学校に行っていました」

 妊婦が産気づけば、両親はただちに駆けつける。家族団欒とは無縁だったが、さみしさは感じなかった。

「当時、医院の2階が自宅だったので、下に両親がいる安心感はありました。子ども心に、両親を困らせたくなかったこともあるでしょうね」

 懸命に働く両親の背中を見て育った八田先生は、早くも小学校時代に、父と同じ道に進もうと決めていた。

「卒業文集に、『将来は医者になる』と書くほどでした。父に憧れてっていうより、長女なので、後継ぎとしての使命感のほうが強かったかな」

 そんな少女時代の八田先生を、「目鼻立ちがはっきりした美人で、高嶺の花だった」と振り返るのは小学校の同窓生、齋藤博さん(55)。だが、20年ぶりに同窓会で再会して、イメージが一変したという。

「大人になって話してみたら、すごく気さくで、“なんだ、ふつうと変わらねえな”って(笑)。八田さんをひと言で表現するなら、猪突猛進ですね。

 クリニックのエアコンが壊れて、同級生の電器店を紹介したときも迷うことなく、さっさと機種を決める。新しい医療機器を入れるときも、僕らが“合い見積もりをとったら”ってすすめても、“大丈夫!”って即決。あとから後悔もしない。なんというか、男以上に男っぽい女性です」

 こうと決めたら一直線!

 医師への道も、一途に突き進んだ。

 私立の中高一貫校、東邦大学付属東邦中学校・高等学校を卒業後は、聖マリアンナ医科大学に入学。

 卒業後は、順天堂大学産婦人科で2年間、研修医として研鑽を積み、千葉大学産婦人科に入局。松戸市立病院産婦人科で勤務医として臨床経験を重ねていった。

「妊娠からお産、不妊治療や、子宮、卵巣の病気の手術など、産科も婦人科もオールマイティーに深めていきました。専門医の資格も取って、患者さんのどんな相談にも応えられる力をつけてきたつもりです」

 人一倍勉強して、腕を磨いた。だが一方で、経験を積むほどに「産科の怖さを思い知った」と振り返る。

出産を控えた女性たちの死

 お産は「おめでたい」ことだとふんわり思いがちだが、現場を知る八田先生は、「命がけ」だときっぱり言う。

「妊娠中期に血小板が低くなった妊婦さんが転院してきました。内科医も一緒に複数の医師と、処置室で原因を調べている間にどんどん血圧が下がって。“私の赤ちゃん、大丈夫? 私、死にたくない……”と、ひと筋の涙を流しながら、すっと息を引き取ったときの衝撃はいまも忘れることができません。

 はっきりした原因はわかりませんが、妊娠をきっかけに血液が固まらない病態になってしまったのです。もともと何らかの病気があったのかもしれません。しかし、女性にとって妊娠は、命さえも奪ってしまう事態も起こる、大事業なのだと痛感しました」

 もう1人、忘れられない女性がいる。胎盤早期剥離による大量出血で緊急搬送された妊婦だ。

「到着したときはすでに冷たくなって息を引き取っていました。何の処置もできず、ただ死亡診断書を作成することになって……。もう少し早く治療できたら救えたかもしれないと、悔しさと悲しさで、涙が止まりませんでした」

 突然、娘を失った母親は、「先生、あの子にいったい何が起きたんですか? あんなに元気で入院して、夕方には赤ちゃんが生まれるって言ってたじゃないですか!」と、産婦人科医に詰め寄り、娘の名を叫んで泣き崩れた。

「当然だと思います。朝、陣痛が始まって“行ってきます”と病院に出かけた妊婦さんが、まさか夕方に亡くなるとは微塵にも思わないですから。今では、日本は世界一安全なお産ができる国であることに間違いありませんが、私はこの2人の妊婦さんの事例を胸に刻み、日々妊婦さんの診察を行っています」

 まだ母親に甘えたい年ごろの小さな男の子が「ママ、ママ」と泣きじゃくる中、子宮がんの患者を看取ったときは、胸がつぶれる思いだった。悲劇を繰り返したくない。そんな気持ちで、子宮頸がん検診の大切さと、若い世代にはワクチンの重要性も強調する。

 不妊治療の末、超未熟児を出産し、障害が残るかもしれないとわかった女性に、「先生が注射をして、無理やり赤ちゃんをつくったせいよ!こんな結果になるなら産まなきゃよかった!」と暴言を吐かれたときは言葉を失った。

「産婦人科って、ゆりかごから墓場までっていうくらい、幅広く女性の一生に寄り添う診療をする科です。ある当直の日、卵巣がん末期の患者さんを看取った直後に、お産で呼ばれ、涙と汗でぐしょぐしょになった夜がありました。ドラマはいっぱいあります。

 患者さんが亡くなったときは、医師として自分の無力さを感じるし、新しい命の誕生は本当にうれしくて、やりがいを感じました。そして感情的な言葉を浴びれば、やはり私も1人の人間なので深くショックを受けます」

 それでも、気持ちを立て直し、前を向いてこられたのは、自分を頼る患者がいたからだ。

「八田先生が外来の日は、待合室が妊婦さんでいっぱいでした」、そう話すのは、宮内初子さん(59)。現在は、更年期障害でクリニックに通っているが、当時はお産を控えて、市立病院に通っていたという。

「八田先生に初めて診てもらったのは、妊娠後期で帯状疱疹になったときです。赤ちゃんに影響が出ないか心配する私に、丁寧に説明してくれて、すごく心強かったですね。産後も、“宮内さん、どうですか?”って何度も病室をのぞいてくれて。先生の人気の理由がわかりましたね」

 医師として、全力を尽くす。その姿勢は、患者はもちろん、上司にも認められていた。しかし、評価が上がるほど、病院内では孤立していったと話す。

「市立病院の医師や看護師は公務員なので、できるだけ勤務時間内に仕事を終えるよう指示されていました。でも、私は時間を忘れて患者さんを診ていたので、多くのスタッフの方に迷惑をかけましたね。夕方になっても外来が終わらない。具合が悪くて、オペが必要と判断した患者さんがいれば、すぐに手術室を開けてほしいと掛け合った。

 “先生の病院じゃないんだから!こんな時間に、今やらなくちゃいけない?明日じゃダメなの?”と、厳しい言葉を言われたことが何度もありました」

 それでも、患者ファーストの姿勢を貫けたのは、数少ない理解者もいたからだ。当時の手術室の看護師長が、「患者さん思いの先生だから、何とかしてあげる」と、看護師を集めて時間外に手術室を開けてくれたときは、自然と涙が出たという。

体調を崩し父のもとへ

 だが、ちょうど仕事も楽しくなってきたころ、激務がたたり、体調を崩した。

「朝、突然、嘔吐と下痢が止まらなくなり、最後は吐くものもなくなってのどから血が出て、血便になり、意識が遠のいて。それまで大きな病気をしたことがなかった私は、あぁ、こうやって人って死んでいくんだ、とぼんやり思ったものです」

 すぐに市立病院へ救急搬送された。原因はウイルス性胃腸炎。救急病棟に5日間入院し、すっかり元気になったが、一緒に仕事をしていた仲間の先生からは、「そら見たことか」と、冷たい目を向けられた。

「そのころですね、潮時を感じたのは。父からも“戻ってこい”と言われていたし、自分の目指す医療をするためにも、父のもとで働こうと」

 こうして、市立病院での5年間の勤務を終え、実家に戻る決意をした。

 八田先生、31歳のときだ。

父が最後に見せた医師の情熱

「この研ぎ澄ましたナイフのような腕で、バンバン患者さんを診るぞ!」、自信満々で実家に戻ったものの、「すぐに鼻をへし折られた」と笑う。

「もう鬼か!って思うほど、父にダメ出しされました」

 勤務医時代の習慣で、ガーゼや綿球を使ったそばから捨てていると、「おまえ、それいくらすると思ってるんだ!」と叱られ、鉗子(かんし)を使えば、「こうやって持つんだ」と、細かく直された。

「開業医は経営者でもあるので、ものを大切にしなくちゃいけないし、医学書には載ってない、父ならではの指導も勉強になりました」

 とはいえ、八田先生にも開業医としての理想があった。

「最新の医療機器を入れて、内視鏡手術をしたいとか、新しい風を吹かせたかった。でも、片っ端からダメだと言われ、“お父さんは古い!” “おまえは、危なっかしい!”と大ゲンカ。それこそ、世間を騒がせた家具店の父娘バトルみたいでした(笑)」

 そんな父娘が、文句を言い合いながらも、あうんの呼吸で協力できるようになったのは、1〜2年が過ぎたころ。

「父は昔の人なので、口数は多くなかったけど、『人思い』でした。診察時間が過ぎても、患者さんが来れば嫌な顔ひとつせずに診ていたし、治療費が払えなくても、“お金はいつでもいいよ”って。鷹揚(おうよう)な性格で、患者さんにも慕われていました。そんな父を見て、開業医として本当に大切なことに気づけたんですね」

 当時を知る、元患者の野首久美子さん(76)が話す。

「50代だった当時、真理子先生の医院で子宮筋腫の手術を受け、退院後に腸閉塞で市立病院に入院したんです。子ども2人を帝王切開で産んでいたことが原因でした。

 そうしたら、真理子先生が心配して、お見舞いに来てくれたんです。夜、仕事が終わってからわざわざ。で、私の元気な姿を見て、“よかったあ”って安心してくれて。息子が驚いてました。“母さん、ここまでしてくれる先生、見たことないよ”って」

 親身で腕のいい女医がいる、評判は口コミで広がり、患者は日増しに増えていった。

 開業医になって2年後の1998年には、『ジュノ・ヴェスタクリニック八田』と名称を変更。2008年に、お産の入院施設を閉鎖し、女性のヘルスケアを中心とした形へ舵を切った。

「おまえに、すべて教えたよ」やがて父親は娘を一人前と認め、診察のほとんどを八田先生に任せるようになった。

 その矢先だった。父親に深刻な病が見つかったのは。

「膀胱がんでした。気づいたときは、腫瘍が5センチになっていました」

 母親と八田先生は、セカンドオピニオンを求め、いくつもの病院を回った。しかし、回復は難しいと医師たちは口をそろえた。

「父も医者ですから、余命はわかっていたと思います。それでも、取り乱すことなく、身体が動くうちは診療を続け、医療ボランティアや、手術もしていました。

 父は中絶手術が本当に上手で、亡くなる2か月前まで完璧にこなしました。術後、ソファでぐったり休む父の姿に、最後の最後まで医師としてまっとうする、情熱の魂を感じました」

 2017年、3年にわたる闘病の末、父親は80歳で旅立った。立派な後継者を残し、満足したように──。

 父親と娘、2代にわたって、看護師として支えてきた、今井よし子さんが話す。

「真理子先生が戻ってきたときは、正直、心配でした。お嬢様育ちなので(笑)。でも、大先生に鍛えられ、見違えるように成長しました。それを実感したのは、私が胃がんになったときです。

 真理子先生に、退院の翌日から復帰してと言われたんです。早すぎるって思われるかもしれないけど、私は必要とされてうれしかった。早期といえどもがんになり、職場を失う不安がありました。真理子先生は、それに気づいて“早く戻ってきて”と言ってくれたんです。本当に情に厚くて、最近ますます大先生に似てきましたね」

他人事だと思わせない性教育

 地元・松戸の中学、高校で校医を務める八田先生のもとには、性教育の依頼が引きも切らない。

「小学校高学年から、高校までですね。年齢や性別によってテーマは変えますが、今の時代ならではの問題点を織り込むようにしています」

 その1つが、男子に向けて行う、『間違ったマスターベーション』について。

「今はネットで性的な動画を簡単に見られるから、自分で欲求を満たす男の子が増えています。でも、ペニスを床や壁にこすりつけるような、強い刺激に慣れてしまうと、女性のやわらかい腟の中では射精できなくなってしまう。腟内射精障害といって、結婚後、不妊相談に来る男性にこのケースは多いですね」

 男子生徒には、「俺には関係ない」とはじめはそっぽを向かれることもあるが、八田先生はスライドで正しいやり方を説明し、ざっくばらんに話す。

「誰に迷惑をかけるわけでもないので、何度してもOK!私の尊敬する男性医師なんか、ひと晩で7回もしたそうよって。そうすると、横を向いていた子も“スゲー”とか言いながら聞いてくれます」

 また、女の子に向けては、SNSによる性被害の危険性を、実話をもとに伝える。

「その女の子はね、15歳で妊娠したの。親とケンカしてプチ家出中に、SNSで知り合った男の家に行ってしまって。“何かされて、痛くて、血が出た”と。この年代だと生理不順の子も多いから、お腹が大きくなるまで気づかなかったのね。あっという間に21週と6日を過ぎて。結局、法律により中絶手術はできない時期で、出産することになったの」

 衝撃を受ける生徒たちに、八田先生は真剣に訴える。

「どんなに優しくされても、何もしないから、一緒に遊ぼうって誘われても、絶対についていってはダメ!」と。

「厳しい現実を話すのは、雰囲気に流されてセックスしたり、避妊を男性まかせにした結果、傷つく女の子をたくさん診てきたからです」

 中でも、増えているのがSNSで出会い、安易に付き合い始めた相手から暴力・暴言で支配される、『デートDV』。

「暴力的なセックスをされ、緊急避妊ピルを処方してと駆け込んできた女の子もいます。カレに殴られ、身体中にあざがある子。自分以外の人とのLINEや行動を制限して異常に束縛をするカレが、彼女を追いかけて診察室まで乗り込んできたこともありました」

 そんなとき、八田先生は矢面に立って患者を守る。

「身の危険を感じたら警察を呼ぶし、“早く、ここから帰りなさい”と裏口から患者さんを逃がしたこともあります。日常的にDVを受けている女性は、シェルターに保護の要請もします」

 DV男に引っかかってしまう女の子に共通するのは、「自尊心の低さ」だという。

「親にも先生にも褒められたことがなくて、自分に自信がない。だから、優しくしてくれる相手が自分を救ってくれると信じちゃう。LINEに返信しなかったり、異性と話をしただけでキレちゃう。そんな支配的な相手の態度を、『愛情』と勘違いしちゃう、生徒さんにははっきり言います。それは愛じゃなく、DVだよ!って」

 そして、必ず伝えるという。

「あなたは大切な存在なの。自分を大切にして!」と。

 それは、生徒だけでなく、クリニックを訪れた女の子たちにも伝えることだ。

「パパ活をして妊娠してしまったとか、SNSでつながった相手から性感染症をうつされたとか、親が知ったら頭を抱えそうな子も来ます。でも、彼女たち、話してみると決して不まじめだったり、悪い子じゃないんです。

 “ちゃんとここに来て、偉かったよ”ってまず褒めてあげるんです。彼女たちの話すことを肯定しながらじっと聴いてあげると、素直に心を開いてくれるし、悩みを打ち明けてくれる。性教育も大事だけど、親にも先生にも言えないことを話せる存在でいることも、私の大切な役目だと思っています」

夫婦別姓、子なし人生の選択

 今では珍しくない夫婦別姓を、八田先生は25年も前に選択した。

「ずっとこの名字で勉強し、働いてきたので、『八田』の名で仕事を続けたかったんです。夫も賛成してくれました」

 出会いは、八田先生が研修医時代のこと。7年の交際を経て“結婚”したのは、開業医になった31歳のときだ。

 整形外科医の夫、徹さんが振り返る。

「研修医時代の真理子は、男性医師の中、女性ひとりで頑張っていました。まあ、そのひたむきな姿に魅かれたんですね。お互い、決まり事に縛られるのは得意じゃないので、夫婦別姓という形にしましたが、ふつうのご夫婦と変わらないですよ。共働きなので、どっちが家事の負担が多いとか、些細なことでケンカするところなんかも(笑)」

 結婚から25年。「休日は、夫婦別々に好きなことをして過ごす」と、徹さん。

「僕はテニス、彼女はスポーツジムやエアロビクス。それも、『部活か!』ってくらい、打ち込んでます。自分のための時間を使えるのは、子どもがいないこともありますね。子どもがいる人生もいいけど、いない人生も十分にありだと」

 八田先生は、「子どもがいない人生」を積極的に夫婦で選んだと言う。

「研修医時代までは、結婚して子どもは2人くらいいるのが当然だと思っていました。でも、子どものいない人生を決意したのは、人にはそれぞれ役割があると思ったからです。私がすべきことは、自分の子どもをつくることより、医師として患者さんに寄り添い、最善を尽くすこと。

 こんなこと言うと怒られちゃうかもしれませんが、自分の子どもを育てるほうが楽だと今でも思っているんです。でも、あえて医師として患者さんに尽くす試練の道を選びました。ほんと男みたいな性格で、わき目もふらずに仕事をしたかったんです。

 それに、遺伝子的には自分の子どもはいないけど、3000人以上のお子さんの3番目の親だと思って、この仕事をしていますから」

 不妊治療で子どもを授かった患者や、妊婦健診でずっと診てきた患者が、いまも更年期症状や検診などでクリニックを訪れる。

「“お子さん、いくつになった? 元気?”から始まり、近況報告を受けると胸が温かくなります。先日も、子どもの就職が決まった、彼女を家に連れてきたとか聞いて、“あんな小さな卵だったのにねぇ〜”と、気づけばおばあちゃんの顔に……(笑)。

 かつて父は、“取り上げた子は、みんないい子になってる、悪い子は1人もいない!”と断言していました。私も今、同じように思っています」

女性のためのアミューズメントパークへ

 一心、一途に仕事に打ち込み、行列ができるほどのクリニックに育ててきた。

 そんな八田先生が、目指しているのは、クリニックを「女性のための小さなアミューズメントパーク」にすること。着々と準備を進めている。

「空き部屋だったクリニックの2階を、一面鏡張りのスタジオに改装しました。妊婦さんや更年期女性のエアロビクスなど、女性の健康づくりに役立てようと計画中です」

 インストラクターは、ほかでもない八田先生。20代からエアロビクスを続け、医師でありながら、日本マタニティフィットネス協会認定のインストラクター資格を持つ。

 また、医食同源の考えから、クリニックの一角に、小さな台所を作り、『キッチン・ヴェスタ』を開いた。

「地元の農家さんと契約して、有機栽培の野菜で作ったお惣菜の販売を始めました。こだわりの調味料で丁寧に作るうえ、材料費が高いため、いまのところ大赤字ですが患者さんには大変喜ばれてます」

 さらに、構想を練っているのが、女性の腟や外陰部のトータルケアをする「おしもの美容室」だ。

「気軽に美容院へ行く感覚で、パッと来て、さっと腟を洗浄して、ドライヤーでふわっとヘアをブローするような(笑)」

 多くの女性を内診してきた経験から、「あったらいいのに」と実感したそう。

「高齢者施設に入っている、おばあちゃんとか、男性の入浴介助だったりすると、なかなかおしもを細部まで洗えてない方も多いんです。きちんとしたケアができれば、病気の予防にもなります。また、更年期世代の女性も、腟まわりが乾燥してかゆくなったり、においが強くなり加齢臭も出てきます。そういった悩みも解決したいと思っています」

 八田先生は、レーザー治療で腟のアンチエイジングを行い、学会や論文でも発表している、『フェミニンゾーンケア』の第一人者でもある。

 だからこそ、「腟から女性たちを元気にしたい!」と意気込む。

「腟って秘密の場所というイメージだけど、気軽にお手入れできれば、気分も上がるし、女性として自信もつきます。医療だけでなく、こういう日常ケアにも着目し、女性のヘルスケアとして積極的に取り入れていきたいですね」

 行動力はお墨付きの八田先生だ。思いを実現していくに違いない。女性たちの力強い応援団、いや、応援団長として!

〈取材・文/中山み登り 撮影/山田智絵〉

なかやま・みどり ●ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。大学生の娘を育てるシングルマザー。