【福西崇史の転機】悔やみつつ幸いだったと思う「移籍」

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1995年、ジュビロ磐田に入団したときの福西崇史はFWだった。そこからボランチにコンバートされると才能が一気に開花。一気に日本代表にまで上り詰め、2002年日韓、2006年ドイツと2大会連続でワールドカップ出場も果たす。

福西は黄金期の磐田を象徴する選手だった。だが2007年以降、FC東京、東京Vと渡り歩き、2008年でプロ選手生活に終止符を打った。プロ生活最後の3年で福西には何が起きたのか。当時の移籍に今、何を思うのか。

いつも自信満々に見えた福西だったが、心の内は違ったという。日本代表に初招集されたフィリップ・トルシエ監督時代、主力としてワールドカップに臨んだジーコ監督時代の複雑な胸の内も聞かせてもらった。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:浦正弘】


移籍したことで社会が見えてきた



誤解を生む言い方かもしれないんですけど、僕、自分の選手寿命を縮めたのは「移籍」だったと思うんですよ。磐田にずっといたほうが、どんな形であれもっと長く現役生活ができたと思うんです。

でも、引退して10年、今になったら移籍した経験は本当によかったと思います。プロサッカーの世界から別の社会に出て行ったあと、あの経験は本当に役立ってるんですよ。他の社会の勉強できた。

もしずっと磐田っていう、自分がずっとそこで過ごしてた、勝手もよくわかっている世界にだけいて、他の社会のことを知らなかったらすごく苦労したと思うんです。磐田は高校を卒業して入団して以来、ずっと強くなっていく時期を過ごすことができましたし、監督や選手は代わっていったけど、組織そのものは変わってませんでしたから。

ところが移籍することで、同じプロサッカークラブの中にもいろんな組織があって、そういうのが社会だということがわかってきた。あのときにいろんなこと知ることができてよかったと思いますもん。

ただね、移籍するときだって、プロになるときだって、夢が叶うっていう喜びはありましたけど、それ以上に不安が大きかったんです。磐田に入ったとき、日本代表の人たちって相当うまかったわけですよ。名波浩さん、中山雅史さん、服部年宏さんとかがいて。

そんな中に混じって自分がプレーできるかっていう気持ちのほうが大きかったですね。日本代表に入ったときもすごいうれしかったけど、反面、「自分は通用するだろうか?」っていう不安はずっとあったんで。いつも喜びと不安は表裏一体でした。

最初の移籍は2007年で、FC東京に行ったんです。FC東京ではいろんな組織があるということがわかりました。

最初は人との接し方を磐田流で行こうとしてたんですよ。ずっと磐田にいたから、磐田のやり方がすべてだと思ってたんですね。でも途中からFC東京には別の流儀があると気づいて、FC東京のやり方に合わせたらうまく行くようになった。

もし僕がFC東京を経験しないでいたら、きっと現役生活が終わった後にすごく苦労したと思うんですよ。自分もストレスを抱えたと思うんです。だから、FC東京に行ってよかったって。もし移籍してなかったら浮きまくっちゃってただろうなって思います。

次は2008年に東京ヴェルディに移籍したんですけど、こちらは「フリーダム」なところで。ヴェルディでは「自由」ってどう考えるべきか、すごく考えさせられました。

ヴェルディの「自由」は、ジーコ日本代表監督の「自由」と一緒で、何でも好き勝手にやっていいというわけじゃなくて、その組織のルールの中では自由に表現していいということなんです。

好き勝手にやっちゃいけないけど、それぞれが自由な部分を表現することが強さにつながっていくんです。みんなの意識が高いから、それぞれが自由にやっても、目標を一つにすることができればできる。

ただ、そうじゃないとまとまらないし、バラバラになってしまう。方向がずれると、自分たちで崩れてしまう可能性があったんです。もちろん崩れそうになるとフロントが固めようとするんだけど。

クラブの中での選手に対するリスペクトはすごいし、選手同士のつながりもある。あるけれども、でも基本はそれぞれが独立してる。だから選手は選手、フロントはフロントっていう部分もある。

もっとまとまってもいいんじゃないかって思うこともありましたけど、それもまた自分の勉強で。これもなかなかできない経験でしたね。「自由」ってどう扱うと、どういうことになるかということがわかりました。

普通の会社とは違う監督という管理職



日本代表では1999年にフィリップ・トルシエ監督に初招集されてから、ジーコ監督が率いた2006年ドイツワールドカップまでプレーしたんですが、そうやって監督が代わるって選手にとって大きな転機になるんです。

親会社が代わったり社長が代わったりするというのも、普通の社会人だと転機ですよね。僕たちの一番の転機は、自分に直接関係する監督なんですよ。監督が代わるということは、自分の見せ方というか、自分の伝え方も多少は変えないといけないだろうし、監督に好みはあるし。ただ、そうやっていろんな監督に出会ったのは今も役に立ってますよ。

特に代表監督は好みを出していいっていう立場ですからね。普通の会社の管理職が自分の好みを前面に出していいかって、それはないですから。でも日本代表だと、好みを出す人に気に入られないと使われないんです。

特に僕は「うまいからどの監督も選んでくれる」という立場じゃなかったですからね。高校時代まで愛媛にいて、何とか磐田に目を留めてもらって、どうにかプロでやっていかなきゃいけないという中でプレーし続けていたので。だから日本代表のときだけじゃなくて磐田に来た最初から「どうやればメンバーに選んでもらえるか」ということも考えてましたし。

最初に代表に呼ばれたときって、不安しか無かったです。Jリーグで試合に出られるようになった、自信もそこそこついてきたけど、テレビで見てた世界で戦っていた人たちと一緒に自分ができるかどうかって。

僕って強気に見えてたかもしれないですけど、全然そうじゃなかったんです。トルシエ監督との最初の会話も全然覚えてないくらい。最初は追加招集だったんで、自分一人だけホテルに着いて、そこから挨拶に行ったのは覚えてます。「よく来てくれた」みたいな挨拶をしてもらったと思うんですけどね。

でもこっちは「おお! 監督や! 代表なんや!」「あ、通訳のフローラン・ダバディや!」ってすべてが新鮮というか、初めてのことで。田舎から都会に出てきたときと一緒ですよ。井原正巳さんから「よろしく」みたいなこと言われて、「いえいえ、こちらこそ」って姿勢を正して。気の休まることなんて一回もないし。

でもね、ピッチはやっぱりピッチじゃないですか。磐田だろうが日本代表だろうが、高校時代だって、ピッチは同じなんだから、そこは割り切れたというか。「レベルは違うけど、やることは一緒」って思って、気持ちがブレることはなかったですね。

まぁそりゃ萎縮はしましたよ。みんなうまいんだもん。磐田のときは最初、「オレにボール来ないでくれ」って思ってましたけど、その中ででも自分がやれなきゃダメ、自分ができる以上のことはできないし、その中でやれることをやらなきゃって思ってましたし。

その後もトルシエ監督からちょこちょこ呼ばれて、雰囲気にも慣れたし、監督の性格やみんなの様子もわかってきて、ドキドキはなくなって落ち着いていきましたよ。それで2002年日韓ワールドカップが終わり、2006年ドイツワールドカップに向けてジーコ監督が就任したんです。

ジーコ監督が就任するって聞いて、最初の印象は「テレビで見てたジーコだ! うわ! ジーコじゃん」って、みんなと一緒ですよ。だけど代表に残るためには監督の一挙手一投足を見なきゃいけないし、監督の考えを理解しなければいけないと思ってました。

2006年にはドイツワールドカップに行きたいし、出たい。でも行くためには監督が納得できる、好みの選手でなければいけないというのはわかってました。チームに合うプレーをしなきゃいけない。ただ、うまくいくんじゃないかという予感はありましたけどね。僕はブラジル人がたくさんいる磐田の環境で育ったから。

代表でプレーする大変さには、その選手が育ってきた環境も関係してるんですよ。監督にはそれぞれ選手の好みもあるけど、どの国の人かということで好きなタイプの傾向もあるから。ブラジル人がたくさんいた磐田にいたので、ブラジル人の監督が言うことは理解しやすかったんです。

でも監督がヨーロッパの人だと、一砕きしないとわからなかったりしました。だからトルシエ監督のときは大変でした。まぁ大変じゃなかった人は少なかったでしょうね。ダバディが一番大変だったでしょうけど(笑)。でも今から思えばそういうのも勉強になりましたね。

僕はプロ選手だったことでメンタルが鍛えられましたし、人間性も成長できたと思います。でも今もサッカー界にいるけど、もしサッカー界を出て行ったら役に立たない可能性もあるでしょ? サッカーに関係ないところに行ったら「選手だったからって何なの?」ってことになるかもしれない。

ただ、ずっとサッカーを継続してきたし、先輩を見てきて自分が成長したというのもあるんで、そういうのはどんな世界に飛び込んでも役立つと思ってます。

選手はみんな個人事業主で、選手は1人で1つの会社なんです。でも、そうやって独立してる個人の力を合わせてやってきたから強かったかもしれない。組織を強くするためには、みんなが独立したプロという感じになればいいと思ってるんですよ。

みんなが独立した気持ちでやってるからって軋轢はなかったですね。ポジションを争う選手はいても。自分もそうやってポジションを奪うために努力してきて、ポジションを取ってきたわけです。それ以上の人が来たら取られるわけだし、だからこそ自分は頑張るわけですから。

そういう健全なのが普通で「コイツが嫌いだから足を引っ張る」とか、そういうのはなかったです。それはスポーツの、サッカーのいいところだと思いますね。(了)


福西崇史(ふくにし・たかし)

1976年9月1日、愛媛県生まれ。外国人選手相手にも引けを取らない抜群の身体能力を生かし、激しいチェックと高い打点のヘディングで日本代表の中盤を引き締めていたボランチ。現在は東京都社会人リーグ1部の南葛SCで監督を務めている。