村上春樹が小説作品中で唯一、取り上げた日本人ミュージシャンとは
新刊を出せば必ずベストセラーになり、ノーベル文学賞候補になれば受賞するかどうかが街の話題になる。いまの日本で「知っている作家は?」と聞けば、真っ先に村上春樹の名を挙げる人も多いであろう。
本書は、村上春樹の小説作品に出てくる音楽を取り上げ、その役割や意味を論じるものだ。5つのジャンルで、計100曲が紹介されている。
春樹と音楽の関係
「春樹と音楽の関係で、もっとも有名なのは『ノルウェイの森』ですね。冒頭の飛行機の場面で、ビートルズの『ノルウェーの森』が流れます。ほかにも何度か出てきますが、カバーバージョンばかりで1度もオリジナルは流れないんですよ」
と、編者の栗原裕一郎さんは言う。
栗原さんは高校生で『羊をめぐる冒険』を読み、その後は春樹の新刊が出るたびに読んできたという。春樹と龍の2人の“村上”に影響を受けた世代だ。
「春樹の小説に音楽がよく出てくることは知られていましたが、ただの雰囲気づくりというか一種の記号だとみなされて、きちんと研究されてきませんでした。
そこで、2010年に『村上春樹を音楽で読み解く』という本を、本書と同じメンバーでつくったんです。それが文芸評論の色が強くなったことへの反省から、本書は、一般の読者にも読んでもらえるように、ディスクガイドの面を前に出しています」
本書全体は「ロック」「ポップス」「ジャズ」「クラシック」「80年代以降の音楽」という5つのジャンルに分けられている。
「ジャンルごとに、音楽と文学を同時に語れる人に執筆を担当してもらいました。ジャズ担当は、音楽批評家でミュージシャンの大谷能生さんですが、彼はそれまでほとんど春樹を読んでこなかった。春樹は小説以外にエッセイやインタビュー記事などでも音楽について語っていますが、それらも含めて全部、読破してもらいました(笑)」
『ダンス・ダンス・ダンス』が区切り
「80年代以降」の章を立てたのは、春樹の小説でいえば『ダンス・ダンス・ダンス』が区切りになっているからだという。
「それまでの春樹の主人公は、'60年代的な価値観で'70年代を生きてきたんですが、'80年代にはその価値観は通用しなくなってしまう。春樹は'80年代にMTVで流れていた『ゴミのような大量消費音楽』を徹底的にディスっています。
ただ、その時代にヒットした音楽が全部ダメというわけでなく、ブルース・スプリングスティーンはホメています。日本で誤解されているようにスプリングスティーンの音楽がアメリカ讃歌ではないことを、春樹は見抜いていたんです」
ほかにも、ボブ・ディラン、エルヴィス・プレスリー、マイルス・デイヴィスなどさまざまなミュージシャンが登場する。日本人で唯一、取り上げられるのがスガシカオというのもおもしろい。
春樹にとってのビーチ・ボーイズ
ビーチ・ボーイズも春樹にとって重要なミュージシャンだ。デビュー作『風の歌を聴け』以来、何度となく言及している。
「当時のビーチ・ボーイズは、世間では陽気なサーフィン音楽というイメージでしたが、春樹の作品では常に不吉な予感を伴っています。このバンドに屈折した背景があったことは、'90年代にリーダーのブライアン・ウィルソンが復活を果たすまでは知られていなかった。
春樹にとっては、ビーチ・ボーイズがそれだけ重要な存在だったんです。彼にとっては、文学と音楽は等価値なんです。日本では極めて稀なタイプの作家だと思います」
ほかのジャンルの音楽も、春樹作品で重要な役割を果たす。クラシックでは、『1Q84』の冒頭で、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』によって、異界への扉が開かれる。
「このときは、作中に出てくるクラシックの曲を集めたコンピレーションCDが発売されたりしましたね。また、ジャズについては、'70年代にジャズ喫茶のマスターだったこともあり、いちばん思い入れが強いのかもしれません」
音楽との接し方
ただ、近年になると作品における音楽の扱いが、次第にぞんざいになっていくと栗原さんは指摘する。
「ファンの間でも“次は何が出てくるか”と予想し合うようになりました。そんな風潮に簡単に乗りたくなかったのかもしれません」
人々の音楽との接し方もずいぶん変わった。
「以前は、春樹作品で取り上げられた曲をレコード店で探したりしましたが、いまはネットで検索できて、音源まで聴けてしまいます。音楽にアクセスしやすい時代になったんです。
実際、本書で紹介した曲は『Spotify』(インターネットを使った音楽配信サービス)に『村上春樹の100曲』としてまとめてあるので、誰でも聴くことができますよ」
今年の8月5日には、春樹が初めてラジオDJに挑戦する番組『村上RADIO』がTOKYO FMで放送され、ファンの間で話題を呼んだ。本書をきっかけに、さまざまなジャンルの音楽を聴きながら、村上春樹の作品の森に分け入ってみてはいかがだろう。
著者の素顔
栗原裕一郎さんは労作『〈盗作〉の文学史』をはじめ、資料を丹念に集めて読み解き、「常識」とされてきたものを見直す仕事をしてきた。
「音楽でも文学でも評論には、もうちょっと役に立つものを書いてほしいという気持ちがあります、エビデンス(証拠)を押さえるとそこには批評性が生まれます」。
調べる労力に対して、お金や評価で報われることは少なく、「もう疲れた」とボヤきつつ、今後もジャンルにこだわらず、掘り下げていきたいと語った。
くりはら・ゆういちろう 1965年生まれ、神奈川県出身。評論家。文芸、音楽、社会問題など多岐にわたって執筆。著書『〈盗作〉の文学史』で第62回日本推理作家協会賞受賞。共著に『バンド臨終図巻』『石原慎太郎を読んでみた』『本当の経済の話をしよう』など
(文/南陀楼綾繁)