「ひとを疎外するイノヴェイションに抗うために:科学、ものづくり、アフリカ、そしてアイデンティティ【エディターズレター号外】」の写真・リンク付きの記事はこちら

科学の特集からはじまった2017年の『WIRED』日本版のプリント版は、以後、ものづくり、アフリカ、アイデンティティをテーマとした特集へと続くことになる。

ひとによっては、ひどくランダムな切り口のように見えるらしいけれど、やっている側からすると脈絡がないわけではない。むしろ、今年1年に限っていえば、編集部の問題意識や思考の軌跡が、きれいに連なったラインナップとなっている。それが意図したものであったかといえば、必ずしもそうではないのだが。

雑誌編集と学びのプロセス

雑誌づくりというのは変な仕事で、『WIRED』のような「一般誌」(そう、専門誌じゃないんですよ)の編集者は、得意だったり詳しい分野が個々にあるにせよ、基本何かの「専門家」というわけではない。もちろん情報技術やそれにまつわるガジェットを扱ったりはすることは多いけれど、映画も扱えば、建築、スポーツ、音楽、医療、科学、戦争、政治、料理などなど、およそどんなネタの記事でも扱うはめになる。なので、まったく勘所のない領域にも、ずかずかと踏み込んでいく厚顔さが、まずは必要となる。

たとえば「ブロックチェーン」の特集をやろう!となったとして、そう思うからには、なんらかの理由はあるのだが、この段階で綿密な下調べをしているわけではない。人づてに、それにまつわる面白い話を誰かから聞いたとか、面白そうな取材対象がどこかのメディアに載っていた、とかそんなことがポツポツと重なってなんとなく特集が組めそうだ、となったところからスタートする。数年前に誰かが言ってたちょっとした一言を思い出して、特集のイメージが固まるなんてこともある。

なので、最初はかなりおぼろなのだ。で、いざ作業開始となったあたりから猛勉強をはじめることになる。昨年の10月に発売されたブロックチェーン特集のときは、さすがに本を読んだだけではどうにもならず、専門家の方をお呼びして編集部全員にレクチャーをしてもらったほどだ。なんとも贅沢な話だが、おそらく講義に来られた方は、編集部のあまりのど素人ぶりに呆れられたのではないかと思う。でも、それでいいのだ。

出来上がった雑誌というのは、ぼくら編集者が「知っていること」を練りに練ってアウトプットしたものの結果のように見えるかもしれないけれど、実際は、そうではない。むしろ、あるテーマについて1、2カ月かけて学んでいくプロセスがかたちになっているというようなものなのだ。インタヴューした原稿をまとめ、タイトルや見出しをつけ、筆者とゲラをやりとりし、校閲さんからの指摘を解決し、といった作業をしていくなかで、対象についての理解が深まり、ぼんやりしていたイメージが像を結んでいく。

だから雑誌が出来上がったときに必ず残るのは、「ああ、いまから同じテーマでつくれたらもっといいものができたのに」という思いだったりする。お金を払って読む側からすれば、「なんだ、そんなもんなのかよ」と思われるかもしれないけれど、そこにこそ雑誌というものの面白さはある。

編集者は読者になんらかの教えを垂れるような存在ではなく、学びのプロセスを一足先に体験して、それを雑誌という形式を通して共有し、追体験してもらっているにすぎない。読者が、ある特集を通じて何かを考え思考を得ていくプロセスは、なんのことはない、ぼくらが通ったプロセスそのもので、編集者は最初の読者である、という言葉は、まさにこうした事情を物語っている。にしても、学ぶことでお金がもらえるなんて、なんてありがたい仕事だろう。

プリント版VOL.29の発売を記念して、特別ポスター展「African Freestyle」が、9月26日(火)から9月30日(土)までWIRED Lab.で開催中。詳細はこちらから。PHOTOGRAPH BY KOUTAROU WASHIZAKI

科学への疑念、ものづくりの哲学、アフリカへの旅

話を戻そう。

2017年は科学特集からはじまったが、それがどういう問題意識からスタートしたかといえば、「なんで科学(者)って、こんなに威張ってるんだっけ? なんで微妙に感じ悪いんだ? って、そう思ってんの、オレだけ?」という積年の疑問に端を発している。

そこから科学論や科学哲学の本などを買いあさり読みあさる日々が続き、取材を重ねるうちにいろいろと知見がたまってくるのだが、本が出来上がるころになってようやくわかったのは、「科学」というものが社会問題になるのは、ほぼほぼそれが技術と産業と絡むことに起因するということだった。感じ悪い原因は、科学そのものではなく、むしろ技術との関係の方にあったのだ。とんだ濡れ衣、申し訳ありません。

というわけで、次の号では、その技術を問題にしたくなる。哲学者の木田元が『技術の正体』という小さな名著のなかで明かしているように、技術というものは、科学よりも先んじてヒトの歴史と深く関わってきた。たとえばヒトは、化学式なんかが生まれるはるか昔の時代から鉄をつくるやり方を知っていた。技術というものは、不思議なやり方でヒトというものに取り憑いた、正体不明な何かなのだ。

そんな観点を下敷きに特集を組み上げていったのだが、現代の「技術」の問題点をあげつらって槍玉にあげて喜ぶようなやり方は、さすがに大人げないし鬱陶しいし、なによりつくっていて楽しくない。目の敵にするのではく、もうちょっと目線を引いたところから、「もの」とそれをつくる「ヒト」の関係を見つめ直せないかというスタンスでつくることとなった。

時代の相としても、ファブだ、IoTだ、ハードウェアスタートアップだ、という機運があると同時に、「ものを生産し、ものを買う」ことに異様なオブセッションを燃やし続けた20世紀型の産業社会が最後の曲がり角に来ているようにも見えるし、デジタルへの反動か、アナログ的なものに興味が強まっているという追い風もある。

デジタルとの対比のなかで、いま一度、フィジカルな「もの」の意味や価値を問い直していくと、やがて、それが単なるビジネスや産業の話ではなく、もっと人間の根源的な何かに触れるものとして立ち上がって来ることとなる。

そして実際ひとりの編集スタッフは、取材に訪れたパリから、「ものづくりっていうのは哲学なのだ」といった至言をもち帰ってきた。あるいは特集の最後に登場いただいた坂本龍一さんは、「ピアノを楽器から『もの』に還してあげたい」という言い方で、ヒトと音との間に介在する、楽器と呼ばれる「もの」の不思議について語ってくださり、ハンナ・アーレントのお弟子さんであったリチャード・セネット博士は、「ものをつくる」とは何かという問いに、実に真摯に答えてくれたのだった。

言うまでもなく、ヒトと技術の問題は、アーレントや、その師であり恋人でもあったハイデガーを悩ませたテーマだった。特集をつくりながら得た学びは、ものづくりは、昔もいまも、フランスの起業家が言った通り、哲学や人文学の範疇にあるということだった。

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ちなみに、技術やテクノロジーにまつわる問題を、哲学者は一体どう考え、どう理解しようとして来たのかを知ることが、いまほど有益で、かつ面白い時代もない。

AI・ロボットとヒトの関係、バイオテクノロジーと生命倫理、ITとグローバリズムといった問題は、単に経済の問題として片付けるわけには行かない重大な哲学的テーマを孕んでいる。『WIRED』日本版が、この春から夏にかけて開催した「哲学講座」は、このことを掘り下げて考えるべく立案されたものだが、まさに、科学特集やものづくり特集をつくるのと同時進行で、企画・実施されたものだった。編集部内ではあらゆるプロジェクトが、常にこんなふうに混線しながらつながっている。

その次のアフリカ特集は、そうした問題からは一旦離れたところからスタートしている。根を詰めた特集が2つほど続いたので、もうちょっと気楽に、あまり深いことは考えず写真がいっぱいあってそれだけで楽しい特集を、いわば閑話休題的に挟みたい意図がまずはあった。

その間、編集部では、「WIRED Real World」というツアープログラムを実施してきた。5月にエストニアのタリン、7月にベルリン、9月にイスラエルのテルアヴィヴとエルサレムを、精鋭揃いの素晴らしい参加者の方々とともに旅し、数多くの知見や思考を得ることができた。

タリンでは、カンファレンスへの参加や参加者との議論などを通して、「デジタル・アイデンティティ」とブロックチェーンテクノロジーの関係という、新しいお題を持ち帰ることができたし、「アーティストが作品をつくるように、起業家が会社をつくる」と言われるベルリンでは、かつてアーティストのヨーゼフ・ボイスが語った「社会というのはあらゆる市民が参加してつくりあげる彫刻なのである」とする「社会彫刻」の気風を、ほんのわずかではあるが体感することができたように思う。つかの間の滞在ではあったものの、それは、たしかに空気や風のようなものとしてベルリンを覆っていた。

風は行ってみないことには、感じることができない。情報化できない情報というのはやっぱりあるのだ。高度に情報技術が発達した時代だからこそ、情報化できる情報とできない情報の差異はより際立つ。改めて、旅は面白い。だからこそ、続くアフリカ特集は「旅」感をそのまま封じ込めるようなものとしたかった。メディア的な観点からいえば、「旅」感の演出において、おそらくウェブよりも、プリントの方がはるかに「気分」をうまく伝えることができる。

PHOTOGRAPH BY KOUTAROU WASHIZAKI

豊饒な多様さと、それを扱う困難

そもそもアフリカの特集をやろうと思ったいきさつや、そこに「WIRED Real World」のプログラムがどう関わっているかは、別の原稿に記したので、ここでは触れないでおこう。ただ、アフリカ特集には、実はもうひとつ伏線がある。

今年の3月に、富士通との共催で行なった「IMAGINE『多様性』2020 多様性を考えてICTができること」というイヴェントがそれだ。これは、これからの企業が「ダイヴァーシティ」という課題にどういうふうに取り組むのかというお題のもと、いわゆる「LGBT」や「障害」といった問題について専門家や当事者を招いてディスカッションするというものだった。そこで、明らかになったのは、まず何を押しても、自分たちが、いかに、それを考え、議論するためのフレームをもっていないか、ということだった。

『WIRED』日本版では、折に触れて、アメリカなら「ブラック・ライヴス・マター」に関するニュースや、それに寄せてソランジュや女優でアクティヴィストのアマンドラ・ステンバーグの記事(12月発売の「アイデンティティ」特集では、彼女とジャネル・モネイの対談を掲載!)や、ドイツサッカーにおける多様性をテーマにしたもの、さらにはサイバスロンを現地で取材した記事なども(結構大きく)掲載してきた。けれども、先のイヴェントを受けて、自分たちの議論や思考の浅はかさを思い知っただけでなく、それをそもそもメディアとして扱うことの難しさも痛感したのだった。

その一方で、2020年を控えてかつてないほどパラリンピックに注目が集まるなか、「ダイヴァーシティ」の言葉が、すでにしてただ唱えていればいいだけのお題目に成り果てている気配もあり、さらに「義手や義足をかっこよくして、健常者がカッコいいと思うようになれば、差別もなくなるでしょ」といったマーケティング的発想からの雑な言説を折に触れて聞くにつけ(実際、この論法はいたるところで聞く)、なにやらげんなりすると同時に「2020年、こりゃ、相当イヤなことになるかもなあ」と警戒感を強めもした。

こうした経緯から、クライアントの富士通さんと、今一度こうしたイヴェントの意義と価値を確認しあった結果、9月末から連続講義を行うだけでなく、毎年秋に恒例として主催している「WIRED Conference」でもダイヴァーシティをテーマとして扱うことに決めたのだ。

ただ、上述したような警戒と反発から、すでに消費されてしまった感のある「ダイヴァーシティ」という語を使うことで、いかにも「オリパラ」の文脈に乗ってますと見られることを回避すべく、あえて「アイデンティティ」の語をカンファレンスの、そして、12月発売号の特集タイトルとすることにした。

この「アイデンティティ」というテーマが、いま改めて語るに足ると確信したのは、実はエストニアのタリンにおいてだった。

タリンで出席したカンファレンスにおいて「デジタル・ガヴァメント」をテーマにしたセッションで盛んに議論されていたのが、「デジタル・アイデンティティ」という語だった。そこでは、これまでフィジカルな物理世界とデジタルなヴァーチャル世界とで切り離されていた「アイデンティティ」をいかに合致させ、しかも、そうするにあたってより一層問題となりうるプライヴァシーの問題をどう扱うか、が語られていたのだった。そして、もちろん、この議論とブロックチェーンテクノロジーは深く関わっている。

これはまったくの余談だが、弊誌が昨年製作したブロックチェーン特集の巻頭に、「分散と自立」という文章を書いた際に、医師であり、小児マヒ患者でもある熊谷晋一郎さんの言葉を引用させていただいた。

その熊谷さんに、今度はアイデンティティをテーマとした弊誌のカンファレンスに登壇いただくことができるのは、なんとも光栄なことだ。熊谷さんには、哲学者の國分功一郎さんと「『中動態』と〈わたし〉の哲学」というテーマで対談していただくことになる。ブロックチェーンとアイデンティティは、(個人的には)こんなところで意外にもつながっている。

PHOTOGRAPH BY KOUTAROU WASHIZAKI

2009年以降のネットと「アイデンティティ」

このカンファレンス「WRD. IDNTTY.」でのセッションは、もっぱら字義通りの「アイデンティティ」、つまりは「わたしと他者」(と、その分断)を扱ったものが多い。ネットいじめをなくすためにアプリを開発したティーンエイジャー、まさに自分の民族的アイデンティティをテーマに創作を行なうイラン人フォトグラファー、南アのポストアパルトヘイト世代を代表するポップアーティスト、ヒップホップの最前線に常に伴走してきたBeats by Dr. Dreのプレジデント、セクシャル・ウェルネスをキーワードにセックスと医療の架橋に取り組む「TENGAヘルスケア」の臨床心理カウンセラー、ミレニアルズのアイデンティティと共感をモチーフに人気メディアとなった「Refinery29」のディレクター、その名もずばり「アイデンティティ経済学」の専門家など、多種多様なゲストが登壇する。

アイデンティティという語が、なんだか時代がかった青臭くも古臭い言葉であるのは百も承知だ。もちろん、ヘイトやいじめや民族差別や人種の対立は、何もいまにはじまったこと、というわけでもない。

けれども、いま、それが新たな問題として表面化し、なおかつあらゆる地域で先鋭化しているのは、もちろんさまざまな政治的・経済的・社会的な問題が複雑に関わっているとはいえ、それがデジタルネットワーク、デジタルコミュニケーションの普及と決して無縁ではないということは重要だ。

そもそもインターネットは、あらゆる情報が無限複製可能という構成のなかで、占有や独占という状況がなく、「アイデンティティ」という点に限っても、匿名性と、広い意味での「分人性」をその特性、もしくは価値とした。「インターネットがよかった時代」というときの、「よかった点」は、おもにこうした特性がもたらしたものだった。しかし、2009年にフェイスブックが実名によるアカウントの取得を言明し、「プライヴァシーはもはや社会規範ではない」と言い放ったあたりから雲行きが変わっていくことになる。

実名アカウントがもたらした、ネット空間とリアル空間における「自分=アイデンティティ」の一致によって、インターネット空間は、マーケティング空間へと、その姿を変えていくことになり、以後企業や国家によって食い荒らされていくこととなる。そして、それを後押しするかのように「アイデンティティ」を認証するための技術、GPSや指紋認証、虹彩認証、顔認証、などが相次いで実装されていく。インターネットが拡張したはずの「自分」をいま一度、物理空間上の自分と強固に紐付けようというこうした流れは、以後、主にプライヴァシーや個人情報保護といった観点を軸に、さまざまな問題を投げかけていくこととなる。

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2017年のSXSW(サウス・バイ・サウスウェスト)では、少なからぬトークセッションで、こうした問題に焦点が当てられていた。「AIとファシズム」「トランプとSNS」といった議題が、実際目白押しだった。

参加したセッションのなかで、いまなお強く印象に残っているのは、「ISISとネオナチなど過激派といかにオンラインで対抗するか」と題されたもので、H・A・ヘルヤーというアラブの政治・宗教を専門とする研究者と、ドイツのフェイスブックのヘイト担当者によるものだった。そこで、ヘルヤーは、実に冷静な口調でこんなことを語っていた。

「こういう人物がイスラム原理主義に勧誘されやすいのでこういう手を打とうといった、一元化されたソリューションはなんの解決にもならず、かえって事態を悪くします。かつてヒアリングしたある兄弟は、兄はイスラム原理主義に取り込まれ、弟はネオナチになりました。ほぼ似たような環境で育ったのに、です。イスラム過激派や極右勢力へと傾斜していく人びとは、まったく異なる個別の事情からそこへと落ち込んでいく。そこをちゃんと見なくてはいけません」

オンライン広告や予測アルゴリズムなどが、「情報のカスタマイズ」の美名のもと、的確に人の欲求を読み解き、まんまと意図したものを購買させる技術は、そのままテロ組織にも援用されるというわけだ。ユーザーごとにピンポイントでカスタマイズされた情報をどう防ぎ、どう対抗するのかという課題は、現在フェイスブックのみならずグーグルが直面している、厳しくどデカイ問題だ。

いずれにせよ、ヘルヤーが語った困難は、どこかでダイヴァーシティをめぐる困難と通底している。前述の富士通とのイヴェントには、電動義手「handiii」開発者の近藤玄太が登壇し、こんな議論が展開された。

義手を開発してきた近藤は「バリアフリーには『余白』が必要」と主張する。たとえば、一口に「腕がない」といえど、その場所や程度により、必要な義手は異なる。また、腕に求める機能というのは、その人の生い立ちや生活環境に左右される。だから、既製品では「多様性」をカヴァーすることはできない。

「多様性をカヴァーする」ということが、終局的に「その人の生い立ちや生活環境に左右される」のであれば、それはとりも直さず、個別個別の人の「アイデンティティ」と向き合うということにほかならない。

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「わたしとあなた」の間にある壁を壊すこと

アフリカ特集でぼくらが頭を抱えることとなった問題も、やはりこれとどこかつながっている。たとえば、ぼくらはなんの気なしに「アフリカ人」と言う。けれども、どんなアフリカ人も口を揃えて語るのは「アフリカ人」という人種はいないということだ。本誌特集で紹介したファッションブランド「POP CAVEN」を営む、ナイジェリア出身のケイヴン姉妹は、自身がつくったTシャツに「Africa is Not a Country」と大書する。「アフリカ」という言葉は「アフリカ」がもつ多様性や複雑さを、一元的で陳腐なイメージへと還元してしまう。

そのことは、まさに、特集をつくるにあたって相談に乗っていただいたナカタマキさんにも注意されたことだった。ぼくらが「アフリカ」と銘打って語る内容は、「アフリカ」のほんの小さな一部でしかない。そのことを決して忘れてはいけない。

南ア出身のデザイナーと共にテキスタイルブランド「Maki & Mpho」を立ち上げ、アフリカのさまざまな地域を頻繁に訪れているナカタさんと初めて会ったのは、実は弊誌で主催したイベントだった。

ものづくり特集の発売を受けて、特集の制作の経緯などを編集長自らが明かす、そのトークイヴェントの終了後、彼女は「次の号ってアフリカ特集なんですよね。何やるんですか?」と話しかけてくれたのだった(次号予告までちゃんと目を通してくれる読者は、つくっている身からすると、本当にありがたい読者だ)。

その時点で特集内容はまだうすぼんやりしていたのだが、お話しているうちに、お互いに近しい問題意識と視点をもっていることが次第にわかり、後日改めてお話する機会をいただいた。そこで彼女が聞かせてくれた話は、これ以上もなく示唆に富むものだった(彼女が寄稿してくれたタンザニアで行われた「TED Global」のレポート記事は、この機会にぜひ読んでいただきたい)。

いまナイロビなどで起きているクリエイティヴをめぐるムーヴメントは、「ものづくりを通して、自分たちのアイデンティティを模索する行為なのだ」と彼女は教えてくれたのだ。さすがに、これは、膝を打たずにはいられなかった。いや、ガッツポーズをしたといった方が正しいかもしれない。

関連記事:アフリカとの対話はいかに可能か──プリント版最新号VOL.29・特集「ワイアード、アフリカにいく」に寄せて

ものづくりに潜む哲学性に気づかされ、頭ではなく手を通して自分と世界との関係や距離を測るその行為それ自体を、いっそ「人文学」と呼ぶべきなのではないかと悟るにいたった「ものづくり特集」をつくり終えたあと、たいしたあてもなくプロットしていたアフリカ特集は、このナカタさんからのこのインプットをもって、その次のアイデンティティ特集へといたるブリッジとして、がぜん大きな持ち場を得ることとなったのだ。

アフリカ特集では、必ずしも厳密な意味での「ものづくり」を扱ったわけではないが、アートからファッションから音楽からフードトラックからデジタルサーヴィスまでを、「何かをつくる」という意味において「ものづくり」であると広義にとらえ、それらをあえてごっちゃに扱うことにした。そして実際取材した多くの相手は、その人が携わる業種に関わらず、ナカタさんの語った通り、「何かをつくること」を「アイデンティティ」と重ねあわせて語るのだった。

ナイロビ、キガリ、アクラ、ラゴス、ケープタウン、ヨハネスブルグの6都市を、現地カメラマンとともにわけもわからぬままさまよった3人の編集スタッフが採集してきた、膨大な数の写真と言葉を編集する作業中、どこかにまだ、その直前に訪ねたベルリンの余韻が漂っていたのかもしれない。「社会というのはあらゆる市民が参加してつくりあげる彫刻なのである」というアイデアは、まさに「アイデンティティ」と「ものづくり」の関係を語っていたに違いないと独り合点したりした。わたしと他者との間にあって、ものをつくるという行為は、なんとも不思議な役割を果たす。

アパルトヘイトがもたらした分断を、あるいは未曾有の部族虐殺を乗り越え、新たなアイデンティティを獲得するために、サーヴィスやハードウェアやアートや服や音楽やゲームやコミックや詩をつくったりする人たちが、ぼくらがアフリカで出会った人たちだった。

そういえば、ベルリン・ツアーの参加者のひとりがこんなことを言っていたっけ。

「イノヴェイションってのは、つまるところ壁を壊すってことなんじゃないんですかね」

「わたしとあなた」の間にある壁を壊すこと。今年『WIRED』日本版が雑誌やウェブや、そのほかのさまざまプロジェクトで表現したかったことは、まさにそういうことだったのかもしれない。「イノヴェイション」は科学や技術の話でもなく、どこまでいっても人と社会、つまりはアイデンティティをめぐる問いなのである。