「男らしさ」が嫌になった男性が一年間女装をした結果

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 1949年、フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールが『第二の性』の中で「On ne naît pas femme : on le devient.(人は女として生まれるのではない、女になるのだ)」と宣言し、ここに現代フェミニズムが出発する。その後、現在に至るまで「女性らしさ」をめぐる議論が重ねられてきた。

 しかしながら、いまだに「らしさ」の檻は強固に私たちの人生を縛っている。それは女性だけではなく男性も同じで、「男らしさ」を常に要求されている。泣き言をいえば「女々しい」と言われ、愚痴を吐くことも許されない。また、常に「競争」に晒されていて、スーツという実に画一的なユニフォームを着込んでいる。

 男に生まれたからには、「男らしさ」の檻の中で生き続けることは避けられないのか? 男だからといって、女性の服装を着てはいけないのか?
 ドイツの作家であり元テレビプロデューサーであるクリスチャン・サンデル氏は、この純粋な問いから、1年間“女装”をする。その様子をまとめたのが『女装して1年間暮らしてみました。』(サンマーク出版/刊)だ。

 “背が高く、きまじめな白髪混じりの中年男性”クリスチャンは、男性である自分の中に存在する「女性」としての自分を肯定し、それを体験しようと試みる。その方法が“女装”である。
 彼が女装に目覚めたのは、ひょんなきっかけだった。
 ある冬の日、川沿いを散歩していた彼は、ズボンの裾から入りこんでくる風の冷たさに震え上がる。対策を練らねばいよいよ今年も風邪をひいてしまう。しかし、モモヒキが嫌いなクリスチャンに、冷たい風を防ぐための手立てはない。急いで男性用下着売り場に向かうも、そこに並んでいるのはダサいウェアばかり。なんで男はこんなに選択肢が少ないんだ?
 そんなクリスチャンを、美しい光に溢れている女性用下着売り場が誘う。「何をしているんだ、引き返せ」、心の奥底から聞こえてくる声。しかし、指図されるのが嫌いな性分だった彼は、その声に反抗した。

 女性下着売り場はクリスチャンにとって楽園のようだった。ナイロンストッキングは豊富な種類と色が揃えられていて、それだけでも心が躍る。ストッキングのパッケージにプリントされている不可解な数字に惑わされたり、レジへそれを持っていこうとするときに緊張が走ったりもするが、それらは彼にとって大いに刺激になった。
 そして、レジに並んだクリスチャンはこんなことを考える。

 僕は、今のままの自分であることに、違和感をもちはじめていた。男であるという事実がささいなことのように思えてきた。世の男たちは“男らしさ”を演出しようと苦心するが、昔から僕はそういったことにあまり関心がない。・・・女性に囲まれてレジの前に立つ僕の頭には、ある考えが浮かんでいた。女になってみようか? やってはいけないことなのだろうか? 想像するほど難しくないんじゃないか? (『女装して1年間暮らしてみました。』P21より引用)

 女装に入り込んでいけばいくほど、彼は「社会における男女の役割」について考えるようになる。男性の役割は人工的で、能力や成績、評価によって縛り付けられている。かつて働いていたテレビ業界で、彼はいやと言うほど男の醜さを目の当たりにしてきたという。そこでは誰もが自分を大きく見せようと必死だった。でも、それはとても窮屈じゃないか?

 ストッキングという第一関門を潜り抜けたクリスチャンは、ブラジャー、化粧、ハイヒールと次々に手を広げていき、「女性」としての自分“クリスチアーネ”を発見していく。その一方で、男性からセクハラを受けたり(男でも男性のアソコを見せられるのは嫌なものだ)、同性愛に対する認識と、それを取り巻く状況の複雑さについても考えさせられる。
 そして、「男らしさ」から抜け出したクリスチャンが、いかにして新たな自分と出会うのか、“クリスチアーネ”になった先に見つけたものは何か、最後までページを開く手は止まらないだろう。

 また、このストーリーで最も重要なポイントの一つは、彼の妻・マリアとの関係の変化だろう。そう、クリスチャンには伴侶がいて、最初は自分の女装の事実を隠しているのだが、途中でそれを打ち明ける。
 この“クリスチアーネ”生活は1年で終わりを告げるのだが、その終着駅で待ち受けている結末は実に爽やかである。

 「らしさ」という檻は、常に生き方を強制しようとする。その檻に合えば違和感なく生きていけるのだが、実際、人間はそう上手くできていない。自分の中にいる別の自分、いつもは抑制している自分。その自分を解き放ったときに、周囲の人間の関係はどのように変わるのか? おふざけではなく、本当の自己を知るために挑んだノンフィクションだ。
(新刊JP編集部)