入学式に集った生徒たち。手前左が筆者。同中央は主宰の堀江貴文氏、同右はゲスト参加したSHOWROOM代表の前田裕二氏(写真:ゼロ高等学院)

10月1日、実業家の堀江貴文氏が主宰の通信制高校「ゼロ高等学院(ゼロ高)」が開校した。堀江氏の試みが教育の世界に一石を投じるか、注目されている。堀江氏と共に同校の設立に向けて奮闘した学院長の内藤賢司氏が、ゼロ高が目指す教育の姿を解説する。

頭が良い子どもは進学校へ――。この流れは今後も変わらないかもしれない。だが、頭が良くても進学校の教育内容に疑問を持った子どもはどうすればいいのか。そもそも、頭の良しあしにかかわらず、学校独自の価値観やルールに納得できない子どもはどうすればいいのか。

こうした疑問に現在の教育システムは答えられていないのではないか。既存のルールやシステムに適合できない子どもを受け入れられないとしたら、教育とはいったい、何のために存在しているのだろうか。要するに、現在の学校教育は選択肢が少なすぎる。というか、ほとんどない。だから子どもは悩む。

しかし、その悩みに今の大人たちが答えを用意してあげられているだろうか。筆者はそうは思わない。悩み、苦しんでいる子どもに答えを教えられなかったとしても、子どもと一緒になって答えを探すことが、私たち大人に課された役目だと、筆者は考えている。

既存の教育制度はよく考えられた素晴らしいシステムであることは誰の目にも明らかだ。片や、この教育システムが今の時代に適応できない一面があることもまた然りだろう。既存の価値観やルール、システムに疑問を持った生徒が取りうる選択肢があまりに少ない。ここに問題がある。

可能な限り、子どもたちに多様な選択肢を用意する――。これが、筆者が校長を務めるゼロ高等学院(以下、ゼロ高)が目指す教育の姿だ。

日本の教育には「逃げ道」がない

ゼロ高では、ネットの利便性を活用した通信制をとる。実際はそんなことはないのだが、世間には「通信制はかっこ悪い」「全日制に通わないことが恥ずかしい」「普通なら通信制にはいかない」という価値観がはびこっているように思える。

でも、考えてみてほしい。冒頭で指摘したとおり、既存のルールやシステムに納得できない場合、その子どもはどうすればいいのだろうか。教育を受ける機会を平等に保障することは、憲法にも明記されている。ところが、既存の教育システムに適合できない子どもをフォローできていない現状があるのだとしたら、その約束は守られていないことになる。

たとえば、学校でいじめられたまま耐え忍ぶことを子どもに強いていいのだろうか。当然いいはずがない。が、実際はどうだろう。学校の教師はこの問題にきちんと向き合えているか。この問題を解決できていないからこそ、子どもの自殺が後を絶たないのではないか。残念ながら、日本は先進国の中で最も10代の自殺が多い国だ。

通信制であれば、子どもが窮屈に感じたり、つらいと思ったりする場所に、無理に身を置く必要はなくなる。与えられた環境によって、勉強をあきらめることも、その場所に居続ける必要もない。逃げたくなれば逃げればいい、生きづらく感じたなら別の場所へ移ればいい。自分が望む環境を通信制で学びながら模索して、ゆっくり将来を考えたっていい。

さらに通信制であれば、学習時間を自由に組める。効率化して可処分時間を増やすことも可能だろう。自分のスケジュールに合わせて、大学入学へ向けた勉強に励んでもいい。社会活動に参加したり、起業したりしてもいい。生徒自身が興味・関心を持って学べば、自ずと未来に向けた具体的な夢や目標を描きやすくなるだろう。

持て余したエネルギーをどう使うか


入学式に参加して笑顔を見せる生徒たち(写真:ゼロ高等学院)

インターネットの登場により、場所や環境の制限を受けずに、情報にアクセスできるようになった。その結果、情報やモノ、あらゆるものの「所有」の価値が下がった。有名な大学に入学する、大手企業に就職する、収入が高い……。「所有」の価値が高い時代には、こうした価値観がある程度意味を持った。

だが、今となってはどうだろう。一般的に言われることだが、1980年代以降に生まれたミレニアル世代には物欲があまりない。世の大人たちは、今の若者が大人しすぎるだとか、積極性が足りないだとか言う。しかし、その認識は誤っている。

「いい大学」へ行って、「いい会社」に入って、「いい人生」を送るという考えはとうに廃れたのだろう。子どもたちは、今の大人たちが言う「いい人生」に憧れを抱いてはいない。

今、高校に入ろうとする若者は2000年代以降に生まれていて、さらに物欲がなくなってきている。実際、生徒たちと面談して話を聞くと、偏差値が高いといわれる大学に進学することにはそれほど関心がないようである。それよりも、どうすれば自分が社会や誰かの役に立てるのか、自分には何ができるのか。そこに関心が注がれているように感じる。

ここ最近、若くして起業したり新しい技術を考案したりする人たちが増えている。筆者はここにヒントを見出した。ふつふつと湧き起こるエネルギーを社会にインパクトを残すために使えれば、子どもも社会もサスティナブルに変われるかもしれない。筆者はそんな仮説を持っている。

かつて学校になじめない子どもたちは非行に走っていた。窓ガラスを壊したり、ケンカをしたり、バイクで暴走したりして、有り余るエネルギーを発散していたのだろう。でも、今はそういう時代ではないと思う。

それでも、エネルギーを持て余している子どもたちは依然として存在する。彼らはそのエネルギーをどう放出すればいいのか。それがわからないのだとしたら、そのエネルギーの使い方を教えてあげればいいのではないか。

他方、学校の外に目を向ければ、エネルギーをアウトプットする方法はたくさんある。技術革新に伴うテクノロジーの進化や、ソーシャルメディアの発達・普及などによって、誰もがクリエイターになったり、起業したりできるようになった。

1つのことをコツコツとやる時代が終わったといわれる中、ゼロ高を主宰する堀江貴文氏は、これからの時代にはあらゆる業界の壁を軽やかに飛び越える「多動力」が必要だと指摘している。そして、あらゆる選択が可能となった現代において大人や教師ができることは、子どもが抱く夢や目標を実現するため、共に悩み、考えることくらいなのではないか。

つまり、子どもが自分の道を探すため、できる限り選択肢を用意しておくことが、これからの教育にとっては重要なのだ。

かといって、その選択肢の中から、自分の人生を選ばなければならないということではない。生徒たちには、多様で多彩な人たちとコミュニケーションをとりながら、独自の道を歩む勇気を学んでほしい。そして、何かを成し遂げることが決して容易ではなく、その道は険しくもあり、面白いことを覚えてほしい。

未来を恐れず、過去にとらわれず、今を生きろ


入学式当日、生徒にメッセージを送る筆者(写真:ゼロ高等学院)

10月6日、静岡の山奥にある「ゼロの郷」で入学式が開かれた。長崎から1000キロ以上かけて車で父親と来た男子をはじめ、全国津々浦々から12人が参加してくれた。中にはフィリピンのスラム街でインターンをしているという女子もいた。

入学者には「転校生」が多い。しかも進学校から「転校」してきた生徒も何人かいた。彼らはまさに既存の教育システムに満足できなかった子どもたちだ。

生徒の中には、子どもに立派な姿を見せたいと話す中卒の社会人もいる。飛び級でヨーロッパの一流大学に進学したものの、高校を卒業してないから通いたいという理由で入学した男子もいた。大学で音楽を専攻する彼は「ゼロ校に来ている学生と何か一緒にやりたい」と話している。

未来をあきらめず、年齢にかかわらず、自分の道を見つけられる――。教育の役割とは、本来こうあるべきだろう。仮に受験に失敗したり、学校をドロップアウトしたりしても、思い立ったときに挑戦できる環境があれば、きっと社会はよくなると信じている。

ゼロ高は挑戦と失敗を尊重する。仮に失敗したとしても、誰も失敗を笑わない環境をつくっていきたいと思う。さまざまなことに挑戦できる環境が整えられれば、そこに多様な人たちが集うだろう。結果、社会を通じて何者かになりたいという目標を持った生徒が集まると考えている。それがまた多様性を育む。

入学式で堀江貴文主宰は、ゼロ高生へ「収入の心配もなく、体力はあり、時間もある。君たちは無敵だ」と言葉を贈った。未来を恐れず、過去にとらわれず、今を生きろ――。これをスローガンとし、日本の教育にインパクトを与えられるよう、教育に邁進したいと考えている。