NHK紅白歌合戦誕生秘話。今夜放送「紅白が生まれた日」
1925年3月22日、東京放送局(現・NHK)が、東京・芝浦の東京府立東京高等工芸学校(現・千葉大学)の図書館書庫に設けた仮放送所より日本最初のラジオ放送を行なった。それから明日で90年を迎えるのとあわせ、NHK総合ではきょう21日の午後9時より放送90年ドラマ「紅白が生まれた日」が放映される。
このドラマでは、終戦から4カ月半後の1945年の大晦日に放送された「紅白音楽試合」をめぐる悲喜こもごもの人間模様が描かれるという。この「紅白音楽試合」こそ、1951年に第1回が放送され現在まで続く「紅白歌合戦」の前身である。松山ケンイチ演じるその主人公は放送協会の放送員(ディレクター)・新藤達也。これにはもちろんモデルがいる。NHKでラジオ時代から数々の音楽番組の企画・制作を担当してきた近藤積(つもる)という人物だ。
本記事では、ドラマを見るうえのガイドというか、ネタバレになりそうなので、むしろ見たあとでおさらいできるよう、近藤積が「紅白音楽試合」をいかに実現させ、番組はどのようなものになったのか、ちょっと紹介してみたい。
■「紅白」のアイデアは剣道から
今回のドラマの公式サイトを見ると、山田孝介(高橋克実)という人物の紹介に「戦前は剣道場を開いていたが空襲により焼失」との文がある。現実の近藤は学生時代に剣道の選手だったというので、おそらく劇中の新藤と山田も剣道を介して交流が生まれたという設定になっているのではないか。
紅白で争うというアイデアも、近藤が剣道の団体戦の紅白試合から思いついたものだという。彼はそこに3つのS――スポーツ・セックス・スピード(あるいはスリル)の要素を盛り込む。つまり、スポーツの対抗戦形式をとり、男女の性別を強調し、スピード感とスリル(どちらが勝つか視聴者をハラハラさせ続ける)を重視した演出をしようというのだ。
「紅白」の企画はそもそも、NHK局内で新しい時代にふさわしい音楽番組が検討されるなかで生まれた。敗戦後の日本を占領し民主化を推し進めようとしていたGHQ(連合国軍総司令部)は、改革の一つに婦人の解放を掲げていた。ここから近藤は、体格や体力差が影響するスポーツでは男女対抗という形式は無理だが、歌なら可能であり、より純粋な男女平等を実現できると考えたという(太田省一『紅白歌合戦と日本人』)。
■却下された「紅白歌合戦」のタイトル
こうして企画は練り上げられ、そのタイトルも「紅白歌合戦」と名づけられた。しかしこのタイトルは、このころ放送・映画・演劇の制作に関する一切を指導・監督していたGHQのCIE(民間情報教育局)に却下されてしまう。というのも、近藤が提出した企画書にあった「合戦」という記述を、NHKの翻訳担当がbattle=戦闘と訳して誤解を招いたためだ。あわてた近藤は「バトルではなく、マッチ(試合)です。あなた方の大好きなベースボールやフットボールと同じものです」とアメリカ人の担当者を相手に必死に説明したという。そこで「紅白音楽試合」とタイトルを変更することで、ようやく企画が承認された(NHKウィークリーステラ臨時増刊『紅白50回 栄光と感動の全記録』)。
ちなみにCIEは、NHKと同じく東京・内幸町の放送会館内に設置されていた。戦前からの喜劇スター・古川ロッパ(ドラマで演じるのは六角精児)も同時期、舞台上演用の脚本の承認をもらうためCIEに赴いている。ロッパはこのときトイレに行こうとして、CIEの入る1階のトイレはGHQ専用だと知って憤慨、そのことを日記(1945年12月14日付)に記した。彼が「紅白音楽試合」の白組司会をNHKから依頼されたのは、その翌日のことだった。日記には次のように書かれている。
《[引用者注――放送会館の]五階の音楽部で、大晦日の夜の大さわぎの企画をきく、僕の司会で、音楽人総動員の紅白試合とかいふ案、夜十時から十二時迄だそうだから、自動車で送って呉れるんでなくちゃ出ないと言ってやる》(『古川ロッパ昭和日記・戦後篇』)
白組のロッパに対し、紅組の司会には女優の水の江瀧子が、総合司会には田辺正晴アナウンサー(ドラマで演じるのは小松和重)が起用された。なお水の江は戦前に「西の宝塚、東の松竹」と呼ばれ人気を二分した松竹少女歌劇団の出身だが、今回のドラマで彼女に扮する大空祐飛は宝塚歌劇団出身である。
■ラジオで反響を呼んだ「リンゴの唄」
企画は無事に通ったとはいえ、放送までにはさまざまな難題も降りかかった。まず、出演者側から歌の優劣を競うということにクレームがついた。これに近藤は「いや、チームの勝敗は争うが、個人の優劣は審査しない」と説明、納得してもらうまで長い時間を費やしたという。審査員についても、プロの音楽家を起用するとコンクールになってしまうとの理由から、音楽に関しては素人の人たちに依頼した(「朝日新聞」1982年7月28日付夕刊)。
今回のドラマの登場人物を見ると、並木路子(miwa)、ディック・ミネ(遠藤要)、市丸(原史奈)、霧島昇(竹森千人)、松原操(恒吉梨絵)など実在の歌手も多数出てくるようだ。このうちディック・ミネは「紅白音楽試合」には出演していない。なぜ出演しなかったのか、その理由も劇中でおそらくあきらかにされることだろう。
ドラマではまた、「リンゴの唄」の並木路子が、戦争の傷跡から歌えないと一旦は出演を断り、それを新藤らが説得すると公式サイト「あらすじ」にはある。こうした話は、並木の自伝『「リンゴの唄」の昭和史』には出てこないので興味深い。なお「リンゴの唄」は1945年10月封切の戦後第一号の日本映画「そよかぜ」の劇中で並木が歌ったものだが、レコードが発売されたのは翌春である。そこにはレコードも放送や映画などと同じくGHQの監督下にあり、なかなか吹き込みの許可が下りなかったことに加え、空襲を免れたコロムビア・レコードの川崎工場もGHQに接収されていたという事情があった。
しかしレコードが出るまでのあいだ、NHKラジオの音楽番組「歌の明星」で並木がこの歌を披露したところ大きな反響を呼び、それからというもの彼女は毎週のようにNHKに出かけては生放送で歌うことになる。「紅白音楽試合」放送の3週間前の12月10日には、新橋の飛行館ビルでNHKの公開録音が行なわれ、並木は詰めかけた大勢の人たちに、食糧難のこの時代には貴重品だったリンゴを籠から配りながら「リンゴの唄」を歌ったという。
■「紅白音楽試合」から「紅白歌合戦」へ
さまざまな問題をクリアしながら「紅白音楽試合」は大晦日の本番を迎える。このときの出場者や選曲、歌唱順についてはっきりした資料が残っておらず、不明な点もあるが、紅白両チームから司会も含め各14組が出場したとされる。その演目は「音楽試合」というタイトルにふさわしく、近藤泉のバイオリン演奏による「ユーモレスク」に、桜井潔楽団の「長崎物語」が対抗したほか、川崎弘子の琴、福田蘭童の尺八などバラエティに富んだものとなったようだ。
このような番組の構成について司会の古川ロッパは「てんで成ってゐない」と日記で酷評している。ロッパにしてみると、両軍から15人ぐらいずつ出てきてただ歌い、司会者はそのあいまにちょっとずつしゃべるだけというのがバカバカしく思えたらしい。2時間近く司会をして、すっかりくたびれてしまったという。ロッパ自身も最後に紅組司会の水の江に対抗して、翌年正月公開の映画「東京五人男」で歌った「お風呂の歌」を披露したが、うまく歌えず忸怩たるものがあったようだ。
しかしそれはあくまでロッパの個人的な感想にすぎない。演出の近藤の証言などに従えば、番組は十分に成功を収めたといえる。番組が始まるやいなや出場歌手への声援や野次の応酬となり、スタジオ内はおおいに盛り上がったという。観客は入れなかったが、ラジオで聴くうち熱狂したファンから応援の電話があいついだほか、NHKの玄関には粉雪が舞うなかスターが出てくるのを待つ人たちで黒山の人だかりができたらしい。ただし、帰りの車など確保できない時代だったので、出場者の大半はそのままスタジオに待機して元日の始発電車で帰ってもらったとか。「このとき飲んだにごり酒のうまさといったらなかった」と近藤は後年語っている(「朝日新聞」前掲記事)。そういえば、出演依頼時にあらかじめ「自動車で送って呉れるんでなくちゃ出ない」と条件をつけていたロッパは、スタジオには残らずやはり車で帰ったのだろうか。
「紅白音楽試合」は成功を収めたとはいえ、あくまで一回だけの特別番組という扱いであり、同じ企画で毎年やろうという考えにはならなかったようだ。それが5年後の1951年の正月には当初の案どおりの「紅白歌合戦」というタイトルで復活する。正月に放送されたのは53年までで、同じ年には大晦日にも放送され、以来「紅白」は年末恒例の番組として正式に定着、このときより始まったテレビ中継(NHK総合テレビは同年2月に開局していた)もあいまって国民的行事へと発展していく。
日本の戦後復興を象徴する東京オリンピックの開催を翌年に控えた1963年の「紅白」は、番組史上最高の視聴率81.4パーセントを記録する。そのエンディングではすでに恒例となっていた「蛍の光」に代わり、三波春夫を中心に出場歌手全員で東京オリンピックのテーマソング「東京五輪音頭」が歌われたという(太田、前掲書)。この音頭の作曲は昭和の大作曲家・古賀政男が手がけたのに対し、作詞のほうは一般公募がなされ、宮田隆の詞が選ばれた。この「東京五輪音頭」の歌詞の一般公募を発案したのもまた、「紅白」を企画した近藤積であった。
(近藤正高)
このドラマでは、終戦から4カ月半後の1945年の大晦日に放送された「紅白音楽試合」をめぐる悲喜こもごもの人間模様が描かれるという。この「紅白音楽試合」こそ、1951年に第1回が放送され現在まで続く「紅白歌合戦」の前身である。松山ケンイチ演じるその主人公は放送協会の放送員(ディレクター)・新藤達也。これにはもちろんモデルがいる。NHKでラジオ時代から数々の音楽番組の企画・制作を担当してきた近藤積(つもる)という人物だ。
■「紅白」のアイデアは剣道から
今回のドラマの公式サイトを見ると、山田孝介(高橋克実)という人物の紹介に「戦前は剣道場を開いていたが空襲により焼失」との文がある。現実の近藤は学生時代に剣道の選手だったというので、おそらく劇中の新藤と山田も剣道を介して交流が生まれたという設定になっているのではないか。
紅白で争うというアイデアも、近藤が剣道の団体戦の紅白試合から思いついたものだという。彼はそこに3つのS――スポーツ・セックス・スピード(あるいはスリル)の要素を盛り込む。つまり、スポーツの対抗戦形式をとり、男女の性別を強調し、スピード感とスリル(どちらが勝つか視聴者をハラハラさせ続ける)を重視した演出をしようというのだ。
「紅白」の企画はそもそも、NHK局内で新しい時代にふさわしい音楽番組が検討されるなかで生まれた。敗戦後の日本を占領し民主化を推し進めようとしていたGHQ(連合国軍総司令部)は、改革の一つに婦人の解放を掲げていた。ここから近藤は、体格や体力差が影響するスポーツでは男女対抗という形式は無理だが、歌なら可能であり、より純粋な男女平等を実現できると考えたという(太田省一『紅白歌合戦と日本人』)。
■却下された「紅白歌合戦」のタイトル
こうして企画は練り上げられ、そのタイトルも「紅白歌合戦」と名づけられた。しかしこのタイトルは、このころ放送・映画・演劇の制作に関する一切を指導・監督していたGHQのCIE(民間情報教育局)に却下されてしまう。というのも、近藤が提出した企画書にあった「合戦」という記述を、NHKの翻訳担当がbattle=戦闘と訳して誤解を招いたためだ。あわてた近藤は「バトルではなく、マッチ(試合)です。あなた方の大好きなベースボールやフットボールと同じものです」とアメリカ人の担当者を相手に必死に説明したという。そこで「紅白音楽試合」とタイトルを変更することで、ようやく企画が承認された(NHKウィークリーステラ臨時増刊『紅白50回 栄光と感動の全記録』)。
ちなみにCIEは、NHKと同じく東京・内幸町の放送会館内に設置されていた。戦前からの喜劇スター・古川ロッパ(ドラマで演じるのは六角精児)も同時期、舞台上演用の脚本の承認をもらうためCIEに赴いている。ロッパはこのときトイレに行こうとして、CIEの入る1階のトイレはGHQ専用だと知って憤慨、そのことを日記(1945年12月14日付)に記した。彼が「紅白音楽試合」の白組司会をNHKから依頼されたのは、その翌日のことだった。日記には次のように書かれている。
《[引用者注――放送会館の]五階の音楽部で、大晦日の夜の大さわぎの企画をきく、僕の司会で、音楽人総動員の紅白試合とかいふ案、夜十時から十二時迄だそうだから、自動車で送って呉れるんでなくちゃ出ないと言ってやる》(『古川ロッパ昭和日記・戦後篇』)
白組のロッパに対し、紅組の司会には女優の水の江瀧子が、総合司会には田辺正晴アナウンサー(ドラマで演じるのは小松和重)が起用された。なお水の江は戦前に「西の宝塚、東の松竹」と呼ばれ人気を二分した松竹少女歌劇団の出身だが、今回のドラマで彼女に扮する大空祐飛は宝塚歌劇団出身である。
■ラジオで反響を呼んだ「リンゴの唄」
企画は無事に通ったとはいえ、放送までにはさまざまな難題も降りかかった。まず、出演者側から歌の優劣を競うということにクレームがついた。これに近藤は「いや、チームの勝敗は争うが、個人の優劣は審査しない」と説明、納得してもらうまで長い時間を費やしたという。審査員についても、プロの音楽家を起用するとコンクールになってしまうとの理由から、音楽に関しては素人の人たちに依頼した(「朝日新聞」1982年7月28日付夕刊)。
今回のドラマの登場人物を見ると、並木路子(miwa)、ディック・ミネ(遠藤要)、市丸(原史奈)、霧島昇(竹森千人)、松原操(恒吉梨絵)など実在の歌手も多数出てくるようだ。このうちディック・ミネは「紅白音楽試合」には出演していない。なぜ出演しなかったのか、その理由も劇中でおそらくあきらかにされることだろう。
ドラマではまた、「リンゴの唄」の並木路子が、戦争の傷跡から歌えないと一旦は出演を断り、それを新藤らが説得すると公式サイト「あらすじ」にはある。こうした話は、並木の自伝『「リンゴの唄」の昭和史』には出てこないので興味深い。なお「リンゴの唄」は1945年10月封切の戦後第一号の日本映画「そよかぜ」の劇中で並木が歌ったものだが、レコードが発売されたのは翌春である。そこにはレコードも放送や映画などと同じくGHQの監督下にあり、なかなか吹き込みの許可が下りなかったことに加え、空襲を免れたコロムビア・レコードの川崎工場もGHQに接収されていたという事情があった。
しかしレコードが出るまでのあいだ、NHKラジオの音楽番組「歌の明星」で並木がこの歌を披露したところ大きな反響を呼び、それからというもの彼女は毎週のようにNHKに出かけては生放送で歌うことになる。「紅白音楽試合」放送の3週間前の12月10日には、新橋の飛行館ビルでNHKの公開録音が行なわれ、並木は詰めかけた大勢の人たちに、食糧難のこの時代には貴重品だったリンゴを籠から配りながら「リンゴの唄」を歌ったという。
■「紅白音楽試合」から「紅白歌合戦」へ
さまざまな問題をクリアしながら「紅白音楽試合」は大晦日の本番を迎える。このときの出場者や選曲、歌唱順についてはっきりした資料が残っておらず、不明な点もあるが、紅白両チームから司会も含め各14組が出場したとされる。その演目は「音楽試合」というタイトルにふさわしく、近藤泉のバイオリン演奏による「ユーモレスク」に、桜井潔楽団の「長崎物語」が対抗したほか、川崎弘子の琴、福田蘭童の尺八などバラエティに富んだものとなったようだ。
このような番組の構成について司会の古川ロッパは「てんで成ってゐない」と日記で酷評している。ロッパにしてみると、両軍から15人ぐらいずつ出てきてただ歌い、司会者はそのあいまにちょっとずつしゃべるだけというのがバカバカしく思えたらしい。2時間近く司会をして、すっかりくたびれてしまったという。ロッパ自身も最後に紅組司会の水の江に対抗して、翌年正月公開の映画「東京五人男」で歌った「お風呂の歌」を披露したが、うまく歌えず忸怩たるものがあったようだ。
しかしそれはあくまでロッパの個人的な感想にすぎない。演出の近藤の証言などに従えば、番組は十分に成功を収めたといえる。番組が始まるやいなや出場歌手への声援や野次の応酬となり、スタジオ内はおおいに盛り上がったという。観客は入れなかったが、ラジオで聴くうち熱狂したファンから応援の電話があいついだほか、NHKの玄関には粉雪が舞うなかスターが出てくるのを待つ人たちで黒山の人だかりができたらしい。ただし、帰りの車など確保できない時代だったので、出場者の大半はそのままスタジオに待機して元日の始発電車で帰ってもらったとか。「このとき飲んだにごり酒のうまさといったらなかった」と近藤は後年語っている(「朝日新聞」前掲記事)。そういえば、出演依頼時にあらかじめ「自動車で送って呉れるんでなくちゃ出ない」と条件をつけていたロッパは、スタジオには残らずやはり車で帰ったのだろうか。
「紅白音楽試合」は成功を収めたとはいえ、あくまで一回だけの特別番組という扱いであり、同じ企画で毎年やろうという考えにはならなかったようだ。それが5年後の1951年の正月には当初の案どおりの「紅白歌合戦」というタイトルで復活する。正月に放送されたのは53年までで、同じ年には大晦日にも放送され、以来「紅白」は年末恒例の番組として正式に定着、このときより始まったテレビ中継(NHK総合テレビは同年2月に開局していた)もあいまって国民的行事へと発展していく。
日本の戦後復興を象徴する東京オリンピックの開催を翌年に控えた1963年の「紅白」は、番組史上最高の視聴率81.4パーセントを記録する。そのエンディングではすでに恒例となっていた「蛍の光」に代わり、三波春夫を中心に出場歌手全員で東京オリンピックのテーマソング「東京五輪音頭」が歌われたという(太田、前掲書)。この音頭の作曲は昭和の大作曲家・古賀政男が手がけたのに対し、作詞のほうは一般公募がなされ、宮田隆の詞が選ばれた。この「東京五輪音頭」の歌詞の一般公募を発案したのもまた、「紅白」を企画した近藤積であった。
(近藤正高)