イカれちまったぜ! 抽象度を上げて殴るアニメ「ユリ熊嵐」4話
月曜深夜ドラマ「ユリ熊嵐」(TOKYO MXほか)。4話「私はキスがもらえない」が1月26日に放送された。
(1話レビュー/2話レビュー/3話レビュー)
人とクマとが断絶された世界。嵐が丘学園に通う紅羽たちのクラスからは、少しずつクラスメイトが消えていく。クマに食べられてしまった泉乃純花、赤江カチューシャ、鬼山江梨子。実は人の姿をしたクマで、撃ち殺された百合川このみ。そして紅羽によって撃たれて姿を消した百合園蜜子。森島明子キャラデザのカワイイ子たちがどんどんいなくなる悲しみ……。
クラスの中には紅羽を排除しようとする「透明な嵐」が吹き荒れているが、4話はその辺はちょっとおやすみ。百合ヶ咲るるの昔話だ。
昔々、断絶の壁が現れるより前、森の中に熊の王国があった。るるはその国の王女様で、誰もがるるのことを一番に愛していた。るるの幸福な生活は、弟・みるんの誕生によって終わりを迎える。みるんのせいで、るるは一番ではなくなってしまった。
「あいつ、邪魔邪魔ジャマーだわ」
るるはみるんを嫌っていたが、みるんはるるのことが大好きだった。「おねえたま」と慕い、るるに笑顔を向け、絵本の話を尋ねてくる。
「ねえ、おねえたま。本物の『スキ』はお星さまになるって本当?」
「本当よ。本物の『スキ』は天に昇ってお星さまになるのよ……そして、流れ星になって地上に落ちたお星さまは『約束のキス』になるのです」
「じゃあ、僕がおねえたまに『約束のキス』を取ってきてあげる!」
るるはみるんのその好意を利用して、みるんを崖から突き落とす。「これでまた私が一番」……けれど、みるんは死なずに戻ってきて、るるに「約束のキス」を差し出す。それは蜂蜜の入った小瓶だった。
何度崖に突き落としても、みるんは笑顔で帰ってきて、「約束のキス」を持ってくる。るるは何度もそれを放り捨てる。それをいくつ繰り返しただろうか、みるんは死んでしまった。崖から突き落としても、蟻地獄や火口に沈めても死ななかったのに、蜂に刺されてあっけなく死んでしまった。
これでるるは一番に戻り、心はスッキリするはずだった。……しかし、るるの心はちっとも晴れなくて……。
これまで謎の多かった、るると銀子のクマコンビ。彼女たちの背景や出会いが、おとぎばなしのようにして描かれた。
この手法にはなじみがある。たとえば「少女革命ウテナ」では、34話「薔薇の刻印」で、演劇部が「薔薇物語」というお芝居をやっている。この劇は、登場人物の過去を暗示するようなものになっている。「輪るピングドラム」では16話「死なない男」で、殺しても殺しても死なない男が描かれる。
(※ちなみにこうした手法はもちろん幾原監督だけの十八番ではなく、脚本家・榎戸洋司の関わっている作品でもよく出てくるのだが、この辺触れていると文字数が大変なことになるしややこしくなるしすごく悪いオタクって感じがするので省略します)
4話は、本来ならば抽象度が高くて「よくわからない」お話のはずだ。でも視聴者の多くは「わかりやすい」という感覚を抱いた。4話で描かれたのは、「実際に起きたこと」であるのと同時に、「どのように見えていたか」を描いたものでもある。
もしかしたら本当に、みるんは突き落としても突き落としても死ななかったのかもしれない。けれど「突き落として死ねと叫ぶ」行為は、もしかしたらるるの心象風景かもしれない。親の愛を独り占めできなくなって、「こんなやつ、消えてしまえばいい!」と思う。意地悪をされているのに、何度も何度も近づいてくる。そんな憎たらしい相手が、ある日事故で唐突に死んでしまった……そんな物語にも見えるのだ。そうした物語は普遍性がある。だから、すっきりと「わかる」ことができる。
これは「透明な嵐」も同じだ。起こっているのは「排除の儀」で、あんな儀式をしているところを見たことはない。でも、それと似たようなことが毎日どこかで行われていることを、私たちは知っている。
「ユリ熊嵐」は、普遍的すぎるほど普遍的なテーマを、抽象度をガンッと上げて描いているアニメだ。漫画版は最深部にあるものは変えずに、抽象度のレベルを変えて描いている(だからストーリーは全く違った方向に進んでいる)。
森島明子は『ユリ熊嵐 公式スターティングガイド』の対談でこのように語っている。
〈一応ギリギリ、ファンタジーではないんですけどね。私はファンタジーが描けないので。ギリギリ、ファンタジーじゃないところで、どうやって表現していくか? というのが課題です〉
〈自分なりの「クマ」「透明な嵐」は何だろう? と、考えています。アニメ作品のテーマもあると思いますが、自分なりの「透明な嵐」を描いていければと思っています。イメージはあるんですが、それが正解ではないかもしれないのでじっくり考えつつ〉
漫画版もオススメです。
(青柳美帆子)
(1話レビュー/2話レビュー/3話レビュー)
人とクマとが断絶された世界。嵐が丘学園に通う紅羽たちのクラスからは、少しずつクラスメイトが消えていく。クマに食べられてしまった泉乃純花、赤江カチューシャ、鬼山江梨子。実は人の姿をしたクマで、撃ち殺された百合川このみ。そして紅羽によって撃たれて姿を消した百合園蜜子。森島明子キャラデザのカワイイ子たちがどんどんいなくなる悲しみ……。
クラスの中には紅羽を排除しようとする「透明な嵐」が吹き荒れているが、4話はその辺はちょっとおやすみ。百合ヶ咲るるの昔話だ。
「あいつ、邪魔邪魔ジャマーだわ」
るるはみるんを嫌っていたが、みるんはるるのことが大好きだった。「おねえたま」と慕い、るるに笑顔を向け、絵本の話を尋ねてくる。
「ねえ、おねえたま。本物の『スキ』はお星さまになるって本当?」
「本当よ。本物の『スキ』は天に昇ってお星さまになるのよ……そして、流れ星になって地上に落ちたお星さまは『約束のキス』になるのです」
「じゃあ、僕がおねえたまに『約束のキス』を取ってきてあげる!」
るるはみるんのその好意を利用して、みるんを崖から突き落とす。「これでまた私が一番」……けれど、みるんは死なずに戻ってきて、るるに「約束のキス」を差し出す。それは蜂蜜の入った小瓶だった。
何度崖に突き落としても、みるんは笑顔で帰ってきて、「約束のキス」を持ってくる。るるは何度もそれを放り捨てる。それをいくつ繰り返しただろうか、みるんは死んでしまった。崖から突き落としても、蟻地獄や火口に沈めても死ななかったのに、蜂に刺されてあっけなく死んでしまった。
これでるるは一番に戻り、心はスッキリするはずだった。……しかし、るるの心はちっとも晴れなくて……。
これまで謎の多かった、るると銀子のクマコンビ。彼女たちの背景や出会いが、おとぎばなしのようにして描かれた。
この手法にはなじみがある。たとえば「少女革命ウテナ」では、34話「薔薇の刻印」で、演劇部が「薔薇物語」というお芝居をやっている。この劇は、登場人物の過去を暗示するようなものになっている。「輪るピングドラム」では16話「死なない男」で、殺しても殺しても死なない男が描かれる。
(※ちなみにこうした手法はもちろん幾原監督だけの十八番ではなく、脚本家・榎戸洋司の関わっている作品でもよく出てくるのだが、この辺触れていると文字数が大変なことになるしややこしくなるしすごく悪いオタクって感じがするので省略します)
4話は、本来ならば抽象度が高くて「よくわからない」お話のはずだ。でも視聴者の多くは「わかりやすい」という感覚を抱いた。4話で描かれたのは、「実際に起きたこと」であるのと同時に、「どのように見えていたか」を描いたものでもある。
もしかしたら本当に、みるんは突き落としても突き落としても死ななかったのかもしれない。けれど「突き落として死ねと叫ぶ」行為は、もしかしたらるるの心象風景かもしれない。親の愛を独り占めできなくなって、「こんなやつ、消えてしまえばいい!」と思う。意地悪をされているのに、何度も何度も近づいてくる。そんな憎たらしい相手が、ある日事故で唐突に死んでしまった……そんな物語にも見えるのだ。そうした物語は普遍性がある。だから、すっきりと「わかる」ことができる。
これは「透明な嵐」も同じだ。起こっているのは「排除の儀」で、あんな儀式をしているところを見たことはない。でも、それと似たようなことが毎日どこかで行われていることを、私たちは知っている。
「ユリ熊嵐」は、普遍的すぎるほど普遍的なテーマを、抽象度をガンッと上げて描いているアニメだ。漫画版は最深部にあるものは変えずに、抽象度のレベルを変えて描いている(だからストーリーは全く違った方向に進んでいる)。
森島明子は『ユリ熊嵐 公式スターティングガイド』の対談でこのように語っている。
〈一応ギリギリ、ファンタジーではないんですけどね。私はファンタジーが描けないので。ギリギリ、ファンタジーじゃないところで、どうやって表現していくか? というのが課題です〉
〈自分なりの「クマ」「透明な嵐」は何だろう? と、考えています。アニメ作品のテーマもあると思いますが、自分なりの「透明な嵐」を描いていければと思っています。イメージはあるんですが、それが正解ではないかもしれないのでじっくり考えつつ〉
漫画版もオススメです。
(青柳美帆子)