「ごめんね青春!」想像の斜め上行く宮藤官九郎脚本、うしろめたさ→うしろメタファー!6話
日曜劇場「ごめんね青春!」(TBS日曜夜9時〜)の第6回は、男女合併・聖駿高校の駅伝参加を描いた抱腹絶倒回でした。
ゆるキャラ・みしまるくんを使った取り違え展開が、かわいいやらバカバカしいやらで楽しめましたが(みしまるくんのもの言わぬ笑顔がなんとも言えないんですよね)、
なんといってもこの回、秀逸だったのは菩薩(森下愛子)の「うしろメタファー」でしょう。
高校時代、自分の迂闊な行為によって、礼拝堂を燃やしてしまった(それが三女ととんこーの確執の発端になった)ことを誰にも言えずにいる平助(錦戸亮)と、ドンマイ先生(坂井真紀)と禁断の恋に堕ちてしまった一平(えなりかずき)の前に、亡くなった母が菩薩となって現れるのは彼らの「うしろめたさ」の表れでした。
それを「うしろメタファー」とダジャレにしてしまう宮藤官九郎の書くものは、予想の斜め斜め斜め上をいき、もはや角度がよくわからないくらいです。
【メタファー】暗喩。物事を直接的でない方法でたとえること。なわけですが、
「ごめんね青春!」の男子校女子校の合併も、言ってしまえば、男女の恋愛のメタファーですよね。
そして、シスター吉井(斉藤由貴)が「神々しい」と感動した駅伝だって、男と女の共同作業、恋愛や結婚みたいなものの暗喩と考えられるのです。
「いじめも体罰も学級崩壊もなく、ただ漫然と1クールを描き切る」というこのドラマ、いじめも体罰も学級崩壊もありませんが「ラブ」だけはいっぱいです。
駅伝中、選手たちの状況が菩薩によって説明されますが、ほぼ全員、恋愛問題によって、走るモチベーションが上がったり下がったりしていました。
あまりん(森川葵)の度がすぎる恋愛体質に翻弄され続けて疲れてしまった半田くん(鈴木貴之)が、思いあまってゲイの可能性にかけてみようと極端な行動に出るとか、クイズの才能に惚れて遠藤ちゃん(富山えり子)を好きになる昭島(白洲迅)が、神保(川栄李奈)に迫られて「レベル的には三択のひっかけなんだよ」とたとえて断るのも良かった。「恋愛体質筋肉質」とか言葉の選び方がよくて、いちいち気持ちが上がります。
成田くん(船崎良)が「高校生男子の知識と経験ではとても処理できないもの」によって転んでしまうのも微笑ましい。
こうやって、描かれる高校生のラブは、すぐ好きになって、すぐ「無理」になって、くっついたり離れたりするというとっても原始的なもので、要するに身もふたもない、生物的欲望──合併、いや合体したい的な感情です(クイズ王同士の恋だけそうでもない気がしますが)。
実はとってもシンプルなことが描かれているのですが、宮藤によるあふれる巧みな修辞によって、シンプルじゃなく見えているのです。考えるな、感じろ(byブルース・リー)的に見れば、本質だけ浮き上がってくるんじゃないでしょうか。
いや、むしろ、十代は、シンプルなことをシンプルに整理できず、ごちゃごちゃ散らかしてしまうということなのかもしれません。いい大人の宮藤さんが、十代の未分化の感情を未だにビビッドに表現できるのはすごい。
そう思うと、6話で、平助が、田中義剛みたいなファッションになったさとし(永山絢斗)とサツマイモをもって語るシークエンスまで深読みしてしまいました。
生のサツマイモを食べるさとしに「生で!」と驚いている平助の姿に、さとしのこれまでの奔放さを思うと、なんとなくエッチな暗喩を感じてしまったことを、この場を借りて「ごめんね」させてください。
おばかなことを考えてしまったので、少しまじめなことも考えてみました。
仏教高校とキリスト教高校の合併(文化祭の、男女が制服を反対に着ているイラストかわいかったですね)が男女の恋愛のメタファーであると共に、深く考えたら、世界平和の祈りを感じたりもします。世の中の争いは宗教の違いによることも多いですから。
第4話で、平助のお父さん平太(風間杜夫)が、キリスト教と仏教の違いについて、キリスト教は許しを乞うものだが、仏教は、怒りの感情を認めないと説明した上で「許す許さないって考え自体が未熟なんだよ」と語ります。これ、なんか深いですよね。
許す許さないじゃない、となると、男と女をそもそも分けるのが未熟なんだよ、ってことじゃないかとすら思えてきます。というのは、ゲイのコスメこと村井くんだったり、菩薩は男とウィキペディアに書いてあったと不満を漏らすお母さんだったり(菩薩は男と女の概念を超越してる説もあり)がいるからです。
「ごめんね青春!」はあらゆるものを混ぜ合わせながら、どこに向かおうとしているのでしょうか。
「ごめんね青春!」は見たまんま、ありのままなだけでなく、いろんなことを想像できるからほんと面白いです。みしまるくんの表情や菩薩の表情にいろんな思いを託せるのと同じですね。
今晩7話は、駅伝でさらした鎖骨と肩がすばらしく、黒髪ショートカットに黒い太眉も魅力的な中井さん(黒島結菜)が、転校してしまうらしく。それは単純に惜しまれます。ただただ、見なければ!
(木俣冬)
ゆるキャラ・みしまるくんを使った取り違え展開が、かわいいやらバカバカしいやらで楽しめましたが(みしまるくんのもの言わぬ笑顔がなんとも言えないんですよね)、
なんといってもこの回、秀逸だったのは菩薩(森下愛子)の「うしろメタファー」でしょう。
高校時代、自分の迂闊な行為によって、礼拝堂を燃やしてしまった(それが三女ととんこーの確執の発端になった)ことを誰にも言えずにいる平助(錦戸亮)と、ドンマイ先生(坂井真紀)と禁断の恋に堕ちてしまった一平(えなりかずき)の前に、亡くなった母が菩薩となって現れるのは彼らの「うしろめたさ」の表れでした。
それを「うしろメタファー」とダジャレにしてしまう宮藤官九郎の書くものは、予想の斜め斜め斜め上をいき、もはや角度がよくわからないくらいです。
「ごめんね青春!」の男子校女子校の合併も、言ってしまえば、男女の恋愛のメタファーですよね。
そして、シスター吉井(斉藤由貴)が「神々しい」と感動した駅伝だって、男と女の共同作業、恋愛や結婚みたいなものの暗喩と考えられるのです。
「いじめも体罰も学級崩壊もなく、ただ漫然と1クールを描き切る」というこのドラマ、いじめも体罰も学級崩壊もありませんが「ラブ」だけはいっぱいです。
駅伝中、選手たちの状況が菩薩によって説明されますが、ほぼ全員、恋愛問題によって、走るモチベーションが上がったり下がったりしていました。
あまりん(森川葵)の度がすぎる恋愛体質に翻弄され続けて疲れてしまった半田くん(鈴木貴之)が、思いあまってゲイの可能性にかけてみようと極端な行動に出るとか、クイズの才能に惚れて遠藤ちゃん(富山えり子)を好きになる昭島(白洲迅)が、神保(川栄李奈)に迫られて「レベル的には三択のひっかけなんだよ」とたとえて断るのも良かった。「恋愛体質筋肉質」とか言葉の選び方がよくて、いちいち気持ちが上がります。
成田くん(船崎良)が「高校生男子の知識と経験ではとても処理できないもの」によって転んでしまうのも微笑ましい。
こうやって、描かれる高校生のラブは、すぐ好きになって、すぐ「無理」になって、くっついたり離れたりするというとっても原始的なもので、要するに身もふたもない、生物的欲望──合併、いや合体したい的な感情です(クイズ王同士の恋だけそうでもない気がしますが)。
実はとってもシンプルなことが描かれているのですが、宮藤によるあふれる巧みな修辞によって、シンプルじゃなく見えているのです。考えるな、感じろ(byブルース・リー)的に見れば、本質だけ浮き上がってくるんじゃないでしょうか。
いや、むしろ、十代は、シンプルなことをシンプルに整理できず、ごちゃごちゃ散らかしてしまうということなのかもしれません。いい大人の宮藤さんが、十代の未分化の感情を未だにビビッドに表現できるのはすごい。
そう思うと、6話で、平助が、田中義剛みたいなファッションになったさとし(永山絢斗)とサツマイモをもって語るシークエンスまで深読みしてしまいました。
生のサツマイモを食べるさとしに「生で!」と驚いている平助の姿に、さとしのこれまでの奔放さを思うと、なんとなくエッチな暗喩を感じてしまったことを、この場を借りて「ごめんね」させてください。
おばかなことを考えてしまったので、少しまじめなことも考えてみました。
仏教高校とキリスト教高校の合併(文化祭の、男女が制服を反対に着ているイラストかわいかったですね)が男女の恋愛のメタファーであると共に、深く考えたら、世界平和の祈りを感じたりもします。世の中の争いは宗教の違いによることも多いですから。
第4話で、平助のお父さん平太(風間杜夫)が、キリスト教と仏教の違いについて、キリスト教は許しを乞うものだが、仏教は、怒りの感情を認めないと説明した上で「許す許さないって考え自体が未熟なんだよ」と語ります。これ、なんか深いですよね。
許す許さないじゃない、となると、男と女をそもそも分けるのが未熟なんだよ、ってことじゃないかとすら思えてきます。というのは、ゲイのコスメこと村井くんだったり、菩薩は男とウィキペディアに書いてあったと不満を漏らすお母さんだったり(菩薩は男と女の概念を超越してる説もあり)がいるからです。
「ごめんね青春!」はあらゆるものを混ぜ合わせながら、どこに向かおうとしているのでしょうか。
「ごめんね青春!」は見たまんま、ありのままなだけでなく、いろんなことを想像できるからほんと面白いです。みしまるくんの表情や菩薩の表情にいろんな思いを託せるのと同じですね。
今晩7話は、駅伝でさらした鎖骨と肩がすばらしく、黒髪ショートカットに黒い太眉も魅力的な中井さん(黒島結菜)が、転校してしまうらしく。それは単純に惜しまれます。ただただ、見なければ!
(木俣冬)