『生ける屍の結末――「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』創出版/渡邊博史

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『生ける屍の結末「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』(創出版)は、2012年10月から1年以上にわたって続いた『黒子のバスケ』連続脅迫事件の元派遣社員・渡邊博史被告の、いわば自伝──あるいはその第1弾?──である。
『黒子のバスケ』(集英社)は当時《週刊少年ジャンプ》に連載中だった藤巻忠俊の人気漫画で、2012年から2期4クールにわたってTVアニメにもなり、来年には第3期の放映が決定している。

渡邊被告は作者の母校(上智大、都立戸山高)、『黒子のバスケ』関連イヴェントの会場、関連番組の放送局、同人誌即売会会場、関連商品の製造元や販売小売チェーンなどに毒物を送付したり、「喪服の死神」「黒報隊」「怪人801面相」などの複数名義で関係各所500箇所以上に声明文や脅迫状を送ったりしていた。
中止に追い込まれたイヴェントも多く、コミケ史上初の特定作品関連サークルの参加制限という事態にも発展した。
昨2013年10月にはそのすべての声明文・脅迫状のコピーを、他の証拠物件(コンビニに置いたという薬物入り菓子のサンプル)とともに脅迫先ではない月刊《創》編集長宛に送り、〈もし他のメディアが公表しないようならお前らで公表して〉ほしいと依頼していた。

渡邊被告は2か月後の同年12月に逮捕され、威力業務妨害罪に問われた。長文の冒頭陳述を用意して今年3月の初公判に臨んだが、全文の読み上げを阻止された。
陳述の全文は《創》の篠田博之編集長の手でYahoo!ニュースに掲載されて大きな反響を呼び、翌月には同誌5・6月合併号で特集記事が組まれた。
エキレビ!ではこの時点でHK(吉岡命)さんが冒頭陳述および記事についてレヴューした。

冒頭陳述で被告は、犯行動機をいったんはつぎのように説明している。
〈自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。〔…〕自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。〔…〕自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。
〔…〕その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました〉

ここを読むと、たんなる「不遇感の強い人物の、成功者への妬み」である。
しかし、別の箇所に注目した人もいた。被告になにか本を差し入れたいが、なにがいいだろうか、と篠田編集長から相談された、精神科医の香山リカさんだ。
冒頭陳述のなかで両親との関係について触れていたわずか2箇所のごく短い記述から、香山さんは被告が幼少期の虐待被害者ではないかと推理した。そして「被虐鬱」の臨床経験を豊富に持つ高橋和巳医師の『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』(筑摩書房)ほか1冊を挙げる。
高橋医師の本はたまたま僕も何冊か読んだことがあった。『消えたい』で高橋医師は、幼児期の虐待を経て成長した人を〈異邦人〉と呼び、彼らが抱える生きづらさの根源に、彼らが抱える独特の世界観──幼少期に形成されてそのまま変更されず、当事者たちをとらえつづけている世界観──を見る。

7月の公判でも渡邊被告は、用意した最終陳述の全文は読むことを許されず、最終陳述はやはりYahoo!ニュースで全文公開となった。
被虐鬱の概念を知った被告は、ここで冒頭陳述を撤回し、みずからの幼少年期体験──家庭での虐待と、学校でのいじめ──を開示しはじめる。
渡邊被告はこういったことを「隠して」冒頭陳述を書いたのではない。「被虐鬱」によって歪んでしまった認知(世界観)をつうじて書いたから、冒頭陳述が渡邊被告自身の内実をうまく表現できなかったのだ。
被告が自分の言葉で書いたはずの冒頭陳述は、自分が自分をどう思うかを書こうとしているにもかかわらず、世間(自分をいじめた人たちを含む)が自分をどう思うだろうかという想像を書いてしまっているようなところがあった。たとえば以下のように。

〈自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります〉

ここで被告は、「ネット方言」の一類型を通して自己を開示している。こういう自虐的あるいは他罰的な思考にまみれた発言は、匿名掲示板やSNSでよく見る。
いっぽう最終陳述での被告は、独自の臨床経験を持つ高橋和巳医師の洞察に見られた〈社会的存在〉や〈異邦人〉といった概念を独自に発展させて、
「社会的存在vs.生ける屍」
「努力教信者vs.埒外の民」
「キズナマンvs.無敵の人(浮遊霊、生霊)」
という3組の2項対立を駆使し、
・なぜ自分が犯行におよんだか
を説明すると同時に、
・なぜ自分が冒頭陳述でうまく自己を開示できなかったか
をも説明している。

冒頭陳述での自己開示の失敗は犯行それ自体と同根であり、脅迫事件開始以後の被告の2年あまりの人生をふたつに分けるとしたら、逮捕以前と以後ではなく、「被虐鬱」の実態を知る以前と以後、ということになるのだ。
幼少期の虐待といじめから、渡邊被告はこの世界にまったく受容されていないという自罰的な世界観を構築していた。しかも、それが自分の世界観(認知)ではなく〈客観的〉な事実だと思いこんでいた。

もちろん犯行の責任主体は渡邊被告という個人だ。渡邊被告の半生を知って、「甘えるな、そんなのはおまえの努力が足りなかっただけだ」と軽蔑をあらわにしてしまう人もいるだろう。けれど、そういう他罰的発言を支えている感情こそ、
「俺だって頑張ってヤケも起こさず生きているのに……」
という原初的な口惜しさなのではないか? 被告は最終陳述に、

〈これから自分が申し上げることが少しでも分かってしまった人は、自分と同じような生きづらさを抱えている可能性が高い〉

と書いているけれど、本書を読んで「被告は努力が足りなかっただけ」と反応する人は、〈少しでも分かってしま〉うまいと必死に抵抗しているだけなのではないだろうか? 本書や高橋医師の『消えたい』を読んだいまは、ついそんなことを思ってしまうのだ。

被告は東京地裁で懲役4年6か月の判決を受け、9月1日(『黒子のバスケ』最終回を掲載したジャンプの発売日)にいったん控訴したのち、29日(本書の初版発行日)に控訴を取り下げた。
本書の前半150頁を占める第1章は、犯行を思い立つ直前から逮捕を経て判決がくだるまでの自らの思考・行動を、微細な失敗にいたるまで驚異的な精細さで記述している。
漫画の作者・藤巻さんをはじめ、被害にあった個人・団体各位にはほんとうに申しわけないけれど、被告のむしろ高い知性ゆえに、サスペンスフルなクライムノヴェルのような娯楽性すら漂っている。歪んだ冷静さとでも形容したくなるその書きぶりのおかげで、村上龍や阿部和重の小説を髣髴とさせる緊迫感もある。第1章だけで、一級の読みものとなっている。
細部に驚くべき点が多いが、とくに逮捕後に証人の調書を読んで被告自身が驚倒した一件を紹介したい──

上智大男子バスケット部の練習場所に、藤巻さんを中傷する文書を添えて硫化水素を発生させる容器を置いたとき、その第一発見者となった同部マネージャーが偶然にも『黒子のバスケ』主演声優の妹だった、というのだ。
彼女は調書で、〈兄が事件の少し前にあったイベントで「妹が大学でバスケ部のマネージャーをしている」としゃべってしまい、それが兄のファンたちの間で話題になっていた〉ため、〈「私に対する嫌がらせだ」と思い恐怖心が湧いた〉という主旨のことを述べている。事実は小説より不思議なことをする。

後半のほとんどを占める第2章は、冒頭陳述全文(16頁)、被告人質問の準備のために裁判所に提出したインタヴュー資料「生い立ち」(64頁)、最終陳述全文(74頁)から成っており、とくに後2者での世界観の展開は圧巻だ(このあと香山医師、篠田編集長の短文と精神科医・斎藤環さんの談話からなる解説20頁が続く)。
犯行記録の第1章と、逮捕後のクリアになった視点からまったく違う物語を語り、事件や冒頭陳述にたいする世間の解釈・反応を批判さえしてしまう第2章、の2部構成。これ、どこかで見たことがある。
冒頭の一文〈きょう、ママンが死んだ〉で知られるカミュのロングセラー小説『異邦人』(窪田啓作訳、新潮文庫)だ。
被虐鬱を抱えた渡邊被告は、まさに高橋医師が言う〈異邦人〉に属する。
(千野帽子)