野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』(小学館文庫)
本文で紹介した映画『東京オリンピック』や東京オリンピックのデザイン以外にも、選手村での食事の提供、警備会社の設立などをテーマに、1964年のオリンピック開催を支えた人々を追ったノンフィクション。Kindleほか電子書籍版も発売されている。

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東京・元赤坂の迎賓館の前庭が来月、11月8日から10日の3日間、一般に公開される予定だ。事前の申込みは不要で、当日指定の時間に行けば誰でも入場できる。迎賓館では年に1回、だいたい夏に館内の一般公開が行なわれているものの、こちらは数カ月前に応募が必要で、しかも定員があるので参観者は抽選で決められている。今回は館内は見られないとはいえ、建物を間近で見られる格好の機会だ(詳細は内閣府のサイトを参照)。

迎賓館は、外国の王族や大統領など国賓およびそれに準ずる賓客の宿泊や接遇に用いられる施設で、いまからちょうど40年前の1974年に、明治建築である赤坂離宮に大規模な改修工事を行ない落成した。初めて迎えた国賓は、この年11月に現職のアメリカ大統領として初めて来日した、ジェラルド・R・フォードである。

迎賓館赤坂離宮は、もともと明治時代末の1909年に、当時の皇太子(のちの大正天皇)の住む東宮御所として建てられたもので、多くの宮廷建築を手がけた片山東熊が設計した。だが、完成した宮殿に皇太子が住むことはなかった。一説には、明治天皇が「贅沢だ」と言ったからだともいわれる(片山はこれにショックを受けて死期を早めたとも伝えられる)。その後、明治天皇の崩御ののち大正天皇が宮城(皇居)に入るにともない、赤坂離宮と呼ばれるようになった。大正から昭和にかけては、新婚まもない昭和天皇がここを住まいとしたほか、さらに時代を下って、終戦直後のごく一時期には、疎開先から帰京した少年時代の皇太子(今上天皇)と、弟の義宮(現・常陸宮)が住んでいる。

だが、居住性は正直いってよくなかったらしい。日本初の空調システムによって建物全体が暖められるようになっていたものの、これに備わっていた温度自動調整装置がまるでポンコツだった。昼日中に突然、熱風を噴き出したかと思えば、寒い夜中に急に止まったりで、部屋の温度は意味もなく上がったり下がったりするのだ(藤森照信・増田彰久『建築探偵 東奔西走』)。元の主人である昭和天皇も、西日も当たるし、けっして快適ではなかったとのちに明かしている。

1948年、赤坂離宮の建物と敷地は皇室財産から政府へと移管された。だが、宮殿建築という特殊な建築のためか、その用途はなかなか一つに定まらなかった。国立国会図書館が、現在の所在地である永田町に移るまで10年あまり置かれたのと並行して、内閣法制局や裁判官弾劾裁判所などさまざまな機関が設置された。迎賓館となるまでにはじつに四半世紀以上かかったことになる。

この間、建物も庭も手入れが行き届かず、荒れ放題といった風情となっていたという。不便なのもあいかわらずで、設計時に参考にされたというフランスのベルサイユ宮殿と同じくトイレが少なく、建物の端にあるトイレまでたどり着くには時間がかかった。我慢できずに、窓を開けて庭に用を足す者さえいたという。――これは、野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』で紹介されているエピソードである。一体、オリンピックと赤坂離宮にどんな関係があるのか。じつは、1964年の東京オリンピック開催にあたり、赤坂離宮には、オリンピック東京大会組織委員会が設置されていたのである(設置期間は1961年9月〜65年1月)。

■宮殿で生まれたオリンピック記録映画
大会組織委員会事務局の入居当初は空き部屋が多かったものの、開催が近づくにつれ、必要とされる組織が多数集まるようになり、建物はたちまち手狭になった。記録映画として名高い市川崑監督の『東京オリンピック』も、赤坂離宮の事務局内にあった映画協会の制作部で撮影日程や予算などが組まれたほか、オリンピック会期中には毎日、競技会場から戻ってきた撮影隊の報告や現像所から上がってきたラッシュの試写が行なわれた(JOC「市川崑総監督が語る、名作『東京オリンピック』」)。

もっとも総監督の市川崑は、肝心のオリンピック期間中は毎日、この事務局で麻雀をやっていたという。偏食で酒も飲まない市川にとって、これが唯一のスタッフたちと打ち解ける手段だったらしい。当人も次のように証言している。

《僕の仕事はみんなの分担を決めて、やる気を引き出すこと。競技が始まってしまえば大してやることはないのです。また、みんなの意見を取り入れて、機材を確保しました。オリンピックの競技会場にも何回かは行きました。でも、ほとんどは事務所にいた。助監督とキャメラマンに絵コンテを渡して、よろしく頼むと言っただけです》(野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』)

厖大な数にふくれあがったスタッフをまとめるには、監督がいちいちロケに赴くよりは、一つの場所にどっしり構えていたほうが何かと都合がよかったのだろう。

なお、東京オリンピックの記録映画はもともと黒澤明が監督する予定だったという話はよく知られている。実際に黒澤は、東京の前の1960年のローマオリンピックに視察にも赴いた。だが、黒澤のプランは、アテネから世界の主要都市に聖火を送り、東京の国立競技場に聖火がつくと同時に世界中で一斉に点火させるなどという具合に、開会式のセレモニーの演出にまでおよぶ壮大なもので、予算的にとうてい不可能なものだった。結局、黒澤は監督を降板、替わりに市川崑が抜擢されたのである。市川を推薦したのは、東京オリンピックのポスターを手がけたグラフィックデザイナーの亀倉雄策だといわれる。

■日本のデザインの“卒業式”
話は赤坂離宮と東京オリンピックに戻る。大会組織委員会の事務局内に設置されたものでは、「デザイン室」がユニークな存在として特筆される。これは組織委員会内の各部局から要請される膨大なデザイン――パンフレット、プログラム、荷札、ステッカー、室内標識や掲示、街頭の装飾、表彰台など――に対処するため、オリンピック開幕目前の1964年早春になって急遽設けられたものだった。

デザイン室は、赤坂離宮の正面玄関を入ってすぐ左の部屋(もともとは電話交換室として使われていたという)に置かれた。具体的な作業は10人も入ればいっぱいになったというこの縦長の小部屋と、地下の会議室を使用して進められ、最盛期にはのべ30名以上ものデザイナーが出入りしていたという。その顔ぶれをみると、のちの日本のデザインをリードする人々がきら星のごとくそろっていたことに驚かされる。

粟津潔、杉浦康平、田中一光の三人を筆頭に、勝井三雄、福田繁雄、灘本唯人、永井一正、横尾忠則、宇野亜喜良、細谷巖、木村恒久、仲條正義、道吉剛などといった新進、若手のグラフィックデザイナーたちのほか、標識などのデザインのため工業デザインからGKインダストリアルデザイン研究所の榮久庵憲司らが、都市計画的観点から当時東大の丹下健三研究室にいた磯崎新らが呼び出された。さらに服飾デザイナーの石津謙介や森英恵、あるいは画家の岡本太郎などといった人たちも参加し、まさに多士済々であった。このうち岡本太郎は、選手全員に贈られる参加メダルのデザインの表と裏を、田中一光とそれぞれ分担した。また、石津謙介はVANジャケットの創業者で、ちょうどこのころ流行していたアイビールックの日本での仕掛け人だが、オリンピックでは日本選手団が開会式などで着る真っ赤なブレザーを手がけている(一方で、この年の5月頃、銀座のみゆき通りにアイビールックに身を包んだ若者たち、いわゆる「みゆき族」が出現したが、オリンピックを前に一斉補導されてあっというまに消えてしまった)。

これら大勢のメンバーの陣頭に立ち、アートディレクターとして指揮をとったのがデザイン評論家の勝見勝である。勝見は、オリンピックではあらゆる表示をフランス語、英語、開催国語の順にするという慣例を覆し、実用性を優先して日本語、英語、フランス語の順にしたうえ、外国客のコミュニケーションを助けるため競技や施設を示す絵文字、いわゆるピクトグラムを採用した。アイソタイプとも呼ばれるこのシステムは1920年代より、オーストリアの哲学者・社会学者のオットー・ノイラートを中心に研究が進められていたものだが、オリンピックで用いられたのは東京大会が最初だった。

ピクトグラムのうち、競技を示すシンボルはかなり前から山下芳郎が単独でデザインしていたが、施設を示すシンボルはデザイン室に集まった若手デザイナーたち(版下の墨入れの際には、東京教育大、日大、武蔵野美大の学生たちも手伝ったという)が分担して手がけることとなる。40を数えたシンボルのうち、サウナ、洋式バス、シャワーなどはまだ日本人にはなじみが薄く、描き手の誰も使ったことがなかったという。

デザイン室への注文は、開催直前になるとますます増えた。組織委員会のほうで、ギリギリになっても国立競技場で使う表彰台が用意できていないことがわかると、緊急の連絡が入った。担当したのは道吉剛という若いデザイナーである。表彰台をつくったことなどなかったが、どうにか設計図を作成すると、赤坂離宮からもっとも近くにあった工務店に駆け込んだ。とにかく急いでいると伝えて設計図を渡すと、職人はそれをチラッと見て「オリンピックか」とだけつぶやくと、すぐさま作業に取りかかった。作業は黙々と進められ、ごく短時間で表彰台は完成する。それは構造計算も何もしていないのに、人が乗っても揺れたりきしんだりしない丈夫なもので、道吉は職人の持っている技術にすっかり感心したという(野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』)。オリンピックに向けては、あらゆる関連施設、新幹線も高速道路など交通機関も含めすべてが突貫工事でつくられた。それはデザインに関しても同じだったのである。

1964年の東京オリンピックを前に赤坂離宮に若きデザイナーたちが結集し、厖大な注文に応じて一つのプロジェクトを完成させていった日々は、まさに日本のデザインの青春そのものといえるかもしれない。しかし、そんな青春の日々はほんのつかのまのことだった。

《六四年を振り返りデザイナーたちが必ず語る風景がある。あの迎賓館だ。門から松の並木を抜けて見える建物はボロボロだったが、それを越えると裏に見事なフランス庭園が開けた。「あのころは何とも思わなかったけど、もう絶対気軽に行くことのできない場所なんだよ」》(日経デザイン編『てんとう虫は舞いおりた 昭和のデザイン〈エポック編〉』)

建築史家の村松貞次郎は、《赤坂離宮は、いってみれば、日本の建築界が明治一代をかけて学習した西欧の建築の、様式と技術の総決算、あるいはその卒業制作として日本の近代建築史に重要な位置を占めるものである》と書いた(『日本近代建築の歴史』)。東京オリンピックも同様に、日本が明治から昭和にかけて欧米よりデザインの様式と技術を採り入れ、やがて独自のものを生み出していく過程で迎えた一つの到達点、あるいは卒業式ともいうべきものではなかったか。その舞台となったのが日本近代建築の“卒業制作”たる赤坂離宮であったことに、偶然以上の何かを感じずにはいられない。
(近藤正高)