井原高忠『元祖テレビ屋ゲバゲバ哲学』(恩田泰子取材・構成、愛育社)
2009年に80歳となった井原が、あらためて半生と仕事を振り返った一冊。取材・構成を担当した恩田は読売新聞記者で、井原のほかにも伊東四朗・藤村俊二・井上ひさし・堀威夫・萩本欽一など彼とゆかりの深い人々の証言も収録している。巻末にはまた、1962年、雑誌「ヒッチコック・マガジン」に井原が寄稿した「ショウほど素敵な商売はない」を再録、ショービジネスに対する彼の一貫した考えがうかがえる。

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去る9月14日に亡くなった日本テレビの元プロデューサー・井原高忠(たかただ)は、お笑いコンビ・とんねるずの名付け親としても知られる。

とんねるずの石橋貴明と木梨憲武は帝京高校の同級生で、「貴明&憲武」のコンビ名で活動を始めた。高卒後、2人とも就職したものの、1980年に放送の始まった日本テレビのオーディション番組「お笑いスター誕生!!」への出場を機にやめてしまう。ちょうど東京・赤坂のレストランシアター「コルドンブルー」に面倒を見てやるからと誘われていたこともあり、踏ん切りをつけたのだという。井原からとんねるずと命名されたのも、コルドンブルーでの修業中のことだった。

《木梨 (中略)「たかあき&のりたけ」じゃ覚えづらいから、明日までに考えてあげるからって。次の日に「できたできた」なんつーて、もらった名前がこれなんです。
石橋 貴明のTと憲武のNで「とんねるず」。普通、なんかあるじゃない、意味が。これはなんにもないの! 最初「とんまとのろま」はどうだって言われて、それだけはカンベンしてくださいって言ったんだけど。(笑)だから、これが最初キライでねえ》(「広告批評」1986年3月号)

井原高忠は、日本テレビ在職中の1971年から退職する80年前後まで10年間、コルドンブルーでフロアショーの演出をしていた。とんねるずと出会ったのは、おそらく日テレをやめるかやめないかという頃だろう。もっとも、客が大人ばかりのコルドンブルーで、とんねるずはちっともウケなかったらしい。木梨いわく、出演し始めて《四カ月めに「あんた来月からいいザンス」って言われて》クビになり(前掲書)、その後1年ほどは新宿のパブなどで修業を続けることになる。

「来月からいいザンス」とは、まちがいなく井原の発言だろう。テレビ業界の用語には独特のものがあるが、そのなかでも井原の口にする言葉はかなり変わったものだったらしい。コント台本の作家として井原の番組にかかわった作家の小林信彦も、《井原高忠の話し言葉は〈ふつう〉ではない》と書いている。

《ぼくの推測では、学習院言葉(戦前戦時の)とバンドマン用語が渾然一体となったものではないかと思う。彼がのべつ口にする「ご機嫌よう」は明らかに往年の学習院言葉である。/「お達者で」とか「ご随意に」とか「よしなに」といった言葉は、たちまち井原組にひろまり、ぼくも、ふざけているうちに、井原語に染まってしまった》(小林信彦『テレビの黄金時代』)

小林が書くとおり、井原は学習院出身で、戦後は慶應義塾大学に通いながらバンド活動にのめりこんでいた。戦前の学習院といえば、皇族をはじめ上流階級の子弟の通う学校だったが、1929(昭和4年)生まれの井原もまた、父親が大財閥・三井家の次男という裕福な家庭に生まれ育った。少年時代からアメリカ映画やクラッシック映画に親しむなかで得た素養、そしてバンド時代に磨いた音楽のセンスやプロデュース・マネジメント能力は、後年のテレビのバラエティ番組づくりでおおいに役立つことになる。

日本テレビでは開局の2カ月前、1953年6月にバイトを始め、翌年大学を卒業すると正式に社員となった。生放送の音楽バラエティ「光子の窓」(1958〜60年)で頭角を現した井原は、1959年の渡米で、テレビ局やブロードウェイ・ミュージカルなどを見てまわり、ショービジネスには時間とカネと才能をかけなければならないと思い知らされる。

いい番組をつくるため、井原がカネを惜しみなく注ぎこんでいたことは、次のようなコメディアン・俳優の伊東四朗の証言からもあきらかだ。伊東は「てんぷくトリオ」の一員として、井原の手がけたバラエティ番組「九ちゃん!」(1965〜68年)にレギュラー出演している。

それは俳優の宍戸錠が出演したときのこと。時代劇のコントで、戸を蹴破って入ってくるという場面があったという。ただしリハーサルのときから蹴破ってしまったら、本番で使う戸がなくなってしまう。そこでスタッフが「ここは蹴破ったことにしてください」と言ってリハを続行しようとすると、井原から「何で蹴破らないんだ!」との怒声が飛んできた。「いや、代わりがありませんから」と弁解するスタッフに、井原は「何枚でも戸をつくれ。あたしゃ日テレより金持ちなんだ」と言い放ったという。伊東はこのときを振り返り、次のように述べている。

《今、そんなこと言ったら、ディレクター降ろされますよ。そんな金のかかることをする人はね。もっとも、その時代でもちょっと特別な存在だったんじゃないでしょうか。(中略)大体、毎回、生バンドだし、セットもその都度変わるし。もう、ああいう番組はできないんじゃないかな》(井原高忠、恩田泰子取材・構成『元祖テレビ屋ゲバゲバ哲学』)

生バンドを入れること自体が、1960年代当時の日本のテレビ界では珍しいことだった。というのも、生バンドを入れるほどテレビ局のスタジオは広くなかったからだ。歌手があらかじめ録音した音声に合わせて口をパクパク動かす、いわゆる「口パク」も、元はといえばバンドがスタジオに入らないがゆえの苦肉の策だった。しかしそれを良しとしない井原は、スタジオから飛び出して広い会場で、観客を入れての公開番組をつくろうと思い立つ。これなら生バンドの演奏が可能だし、生の音声はワイヤレス・マイクで拾えばいい。

こうした発想のもと、ホスト役に歌手の坂本九を据えて始まったのが、前出の「九ちゃん!」だった。“本邦初”はこれだけにとどまらない。いまでは公開番組では当たり前の「前説」も、このとき井原ともう一人のディレクターと交替で行なったのが最初だった。さらに、台本を複数の作家に共同で書いてもらうというのも初の試みだった。最初に声をかけられたのは、日活映画の脚本家だった山崎忠昭と、前出の小林信彦だった。小林は評論家として「シャボン玉ホリデー」や「てなもんや三度笠」といったバラエティ番組をいち早く評価したとはいえ、放送作家の経験はなかった。こうした人選からは、井原が才能があると見こめば、積極的に起用したことがうかがえる。その後、作家陣には、NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」をヒットさせていた井上ひさしや、「シャボン玉ホリデー」でコントを書きまくっていた河野洋などが加わった。

千鳥ヶ淵のフェヤーモント・ホテルに集められた作家たちには毎回、豪華な昼食が出されたという。これについて小林信彦は《井原高忠はビンボーくさいのが嫌いなのである。そこで、うまいものを食べさせ、その代り、知恵とアイデアを出してもらおう、と思っているにちがいない》と書き(『テレビの黄金時代』)、井上ひさしは《どう書くかって考えながら食べるので、私などには「処刑前の御馳走」のようなもので、あまり味がしませんでした》と振り返っている(『元祖テレビ屋ゲバゲバ哲学』)。いずれにせよ、いいものをつくるにはカネを惜しまない井原の姿勢はここにも表れていた。作家に対しても厳しかったが、そのぶん台本の原稿料は、ほかのバラエティ番組とくらべるとかなりの額だったようだ。

「九ちゃん!」で採用された集団作家方式は、その後の「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」(1969〜71年)でも踏襲された。アメリカのショー番組からインスパイアされることの多かった井原だが、「九ちゃん!」では「ダニー・ケイ・ショー」をモデルにしたのに対し、「ゲバゲバ」では「ラフ・イン」という短いコントが何本も連発される番組を手本とした。このとき、大橋巨泉と前田武彦という犬猿の仲と噂されていたタレント2人をメインに据え、当時人気絶頂にあったコント55号の萩本欽一と坂上二郎のコンビをバラしてコントに出したことも話題を呼んだ。ちなみに番組初期のコントには、「もし、テレビがなくなったら」と題して、冒頭いきなり、ミニチュアでつくった在京各局の建物(もちろん日本テレビも含まれる)を派手に爆破するというものもあったという。奇しくも同じ1969年10月にイギリスBBCで始まった「空飛ぶモンティ・パイソン」にも引けをとらない過激さである。

これと前後して、井原はやはり本邦初のナイトショー「11PM」(1965〜90年)を企画、報道局の後藤達彦と共同プロデューサーを務めている。1973年には局次長となり、バラエティ番組・音楽番組を統轄するようになる。さらに1978年、第一制作局長となった年には、「24時間テレビ 愛は地球を救う」が始まり、彼いわくこれが局長として最後の仕事となった。

1980年に50歳にして退職後、しばらく舞台やほかの放送局でも番組の演出を手がけるなどしたものの、85年にはアメリカに移住、ハワイ・ホノルルに居を構えた。2006年には娘の住むジョージア州に移り、ここが終焉の地となる。アメリカに渡ったのは、敗戦後の日本にすっかり絶望したからだという。井原は、戦後の日本からあらゆるジャンルからプロがいなくなり、幼児化が進んだことを嘆いていた。少年時代に、ハイレベルな文化を享受した人間からしてみれば、それらが一切合財失われた戦後は呪詛の対象であったのだろう。より下の世代からしてみれば、「そう言われても……」という反発も覚えないではないが。

井原が日本を離れたことについて、かつて仕事をともにした人のなかにも惜しむ声があった。萩本欽一は、かつてコント55号から個人での活動に移る際、アメリカに行こうと思い立ったのを、井原から「アメリカは世界中から優れ者が集まる国だから、呼ばれないで行くと苦労する。行くなら呼ばれてからにしなさい」と止められた経験を持つ。そのおかげで彼は日本のバラエティで大成功を収めることができたのだから、いわば井原は恩人といえる。だが萩本はその恩人の引退を「ひなたぼっこ」と表現しながら、次のように惜しんでいる。

《井原さん、あなたは、ひなたぼっこをしてはいけない人だった。もっといろんなこと出来た人なのに。もったいない。あんなに優れた人がテレビからいなくなって。(中略)その人が一人いるだけでテレビ界全体がバランスがいい。今は、みんな優しいです。でも、雲みたいなもので、つかんだんだか、つかんでないんだか、わからない。(中略)井原さんのは、何かしっかり物体があって、つかんでる、つかみそこなってる、つかもうとしたらとれなかったって答えが出る。あの、神経がぴりぴりしてね、緊張感がガチガチになってしまう、そこでもがきながらやっているテレビもあったほうがいい。そのほうがバランスがいい》(『元祖テレビ屋ゲバゲバ哲学』)

井原の番組の収録現場は、スタッフにも出演者にも厳しく、緊張感の漂うものであった。しかしだからこそテレビ界にあって明確な指標となっていた、ということだろう。日本のテレビのためには、井原がもう少し踏ん張ってくれることが理想的だったのかもしれない。だが本人はそれに拘泥することなく、あっさりと日本を離れた。そのいさぎよさもまた、彼の育ちの良さゆえといってしまえば、それまでかもしれないが。
(近藤正高)