『問いのない答え』長嶋有/文藝春秋

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あーまた月曜か! 早く帰って遊びたい!
これって小学生からオトナまで、月曜日のお昼どきにはしばしば思うことだと思う。
人はなぜ遊ぶのだろう?
アスリートやパチプロやTV制作会社、芸術家など、「遊び」的なことが仕事になっている人もいるけれど、多くの人にとって遊びは「仕事」や「日常」から一時退避する場所だ。つまり、不要なものだ。
ところが、その不要なものがないと、ボクら人間はやっていけないらしい。不要なものが必要だなんて、それこそ禅問答じゃないか。

英文学者・別宮貞徳(べっく さだのり)は、高度成長末期のレジャーブームを批判して『「あそび」の哲学』(講談社学術文庫)を書き、西洋史学者・池上俊一は『遊びの中世史』(ちくま学芸文庫)のなかで、近代が失った遊びの意義を中世ヨーロッパの生活のなかに見出した。
いっぽうフランスの哲学者カイヨワは『遊びと人間』(講談社学術文庫)において、遊びの4要素を取り出した。
・競争(スポーツ、ボードゲーム)
・偶然(ギャンブル、じゃんけん)
・ごっこ(ものまね、フィギュア、劇)
・めまい(ぶらんこ、メリーゴーランド、絶叫マシン、登山、スキー)
だという。
つまりドラマを観たり漫画を読んだりといった、フィクションを楽しむ行為も、ごっこ遊びの一種だということ。
「ごっこ」のなかに「偶然」と、ときには「競争」を組みこんだ複合的なゲームがRPGということか。

だから、というわけでもないが、ゲームを題材とした小説を10タイトル、きょうは紹介したい。ベスト10というわけではなく、この文を書いているいま(土曜出勤の仕事合間)に思いついたもの10タイトルね。

いとうせいこう『ノーライフキング』(河出文庫)
家庭用ゲーム機「ディス・コン」用RPGとして大ヒットした「ライフキング」には複数のヴァージョンがあった。そのなかに、クリアしないと呪われる「ノーライフキング」が含まれているという都市伝説が、全国の小学生のあいだで流れていた。ある日、主人公まことが通う小学校の校長が、終業式のさいちゅうに「ライフキング」に出てくる台詞を叫んでいきなり死んでしまう。これは呪いなのか?
988年の作品。家庭用ゲーム機や「ニューメディア」(パソコン通信的なもの)、都市伝説といったホットな話題を有機的に結びつけた作品として受け入れた読者も多かっただろう。
でも、ネットゲームやスマートフォンの時代に読んでも、バブル色をまったく感じない。「はやりもの」を料理する気など、作者にはハナからなかったのだ。市川準による映画化(『ケロロ軍曹』の鈴木さえ子が音楽を担当し、主人公の母を演じた)も好き。

プーシキン『スペードの女王』(『スペードの女王 ベールキン物語』神西清訳、岩波文庫)
工兵士官ゲルマンはあるとき噂で聞いたカード賭博必勝法に興味を持ち、その秘密の入手のために、ひとりの女を騙し、またひとりの女を死に至らしめる。死んだ女の亡霊から秘密を入手したゲルマンは、その方法を使って、えーと、これ以上は書けません。

芥川龍之介『魔術』(『芥川龍之介全集3』、ちくま文庫/青空文庫)
『スペードの女王』は民話的なギャンブルホラーだったけど、これにたいするトリビュート作品が『魔術』。舞台を現代(大正時代)の東京に移していて、オチの構造も違う。
この作品はややこしいことに、谷崎潤一郎の『ハッサン・カンの妖術』のスピンオフでもある。つまり音楽でいうところのマッシュアップ(ある曲のバックトラックにべつの曲のラップを載せる)みたいなものだ。プーシキンのバックトラックに谷崎のラップを載せてみた、的な。

ドストエフスキー『賭博者』(原卓也訳、新潮文庫)
ドイツの都市の国際的コミュニティを舞台にした、いまで言うギャンブル依存症の物語。都市の名前が「ルーレテンブルク」(ルーレット都市)というから怖い。
『カイジ』や『LIAR GAME』、『ジョジョの奇妙な冒険』Part 4のジャンケン小僧など、偶然が絡む勝負には独特のスリルがある。『賭けと人生』(文庫版ちくま文学の森)というギャンブル文学アンソロジーの名前も挙げておきたい。

ロバート・クーヴァー『ユニヴァーサル野球協会』(越川良明訳、白水Uブックス)
阿佐田哲也『ひとり博打』(『外伝・麻雀放浪記』双葉文庫/色川武大『小さな部屋 明日泣く』講談社文芸文庫)
クーヴァーのは主人公が架空の野球リーグをサイコロで運営していくというもの。フォアボールや盗塁、怪我やミスまでをカヴァーする一覧表を作り、トレードに悩んだりする。
阿佐田(色川)のは主人公がヴァーチャル相撲の取組を考えるところから始まり、野球だの競輪だのショウビズだの、そしてそれを支える選手や芸人たちの生活の細部までをマネジメントして、自分だけのヴァーチャル世界の運営のために果てしなく多忙になっていくというもの。
「ダビスタ」や「モバプロ!」そしてmixiの「サンシャイン牧場」を思い出す。あるいは「シムシティ」などの経営シミュレーションを、サイコロと紙と鉛筆でどんどん拡大していく話と考えてもいいだろう。

リチャード・バックマン(スティーヴン・キング)『バトルランナー』(酒井昭伸訳、扶桑社ミステリー)
近未来の米国で、主人公は人間狩りを殺人ゲームとした人気TV番組「ランニングマン」にエントリーする。無事逃げおおせれば億万長者、捕まれば公開処刑!
のちの『バトル・ロワイアル』や『リアル鬼ごっこ』のルーツだろう。
シュワルツェネッガー主演の映画は原作の設定を大きく変え、かなり悪趣味方面にシフトしたゲスで皮肉な作品だった。こういう映画が大好きなボクは、あとから原作を読んで、思ったよりシリアスで文学的な作品だったので意外だった。

谷崎潤一郎『小さな王国』(『少年の王国』中公文庫/『美食倶楽部』ちくま文庫/『金色の死』講談社文芸文庫)
小学校のクラスにやってきた転校生が、彼のグループだけで通用する通貨を発行する。その遊びをよく思っていない担任の先生は、貧乏が原因で、彼えらのオリジナル通貨システムに参入せざるを得なくなる。
なんと、経済小説だった! なにこの柄谷行人のNAMというか小渕内閣下の地域振興券みたいな発想は? それともこないだ話題になったビットコイン?

長嶋有『ねたあとに』(朝日文庫)
長嶋有『問いのない答え』(文藝春秋)
長嶋有は小説家で漫画家で俳人でコラムニスト「ブルボン小林」でもあるが、オープンソースのオリジナルゲームをどんどんリリースするクリエイターでもある。
彼がじっさいにプレイした数々のゲームを、夏の山荘でいいオトナたちがやっている。それが『ねたあとに』だ。基本的に道具を使わない、あるいは紙と筆記用具を使う、というものが多い。「軍人将棋」「顔」「ケイバ」などのゲーム名も味わい深い。
このなかに出てきたゲームのひとつ「それはなんでしょう」(略称それなん)は、とりわけ印象深い。
たとえば質問者が、
〈なぜですか、という、前半分が隠れた質問に、皆は無理矢理答えてください〉
と言ったとする。
そこで回答者は、つぎのように答えるかもしれない。
〈そんなヤボなことを聞くなよ。その方がいいに決まってる! もう三年も前からだもの。僕にとっては欠かせないことといってもいいね〉
そのあとで、質問の全体像が質問者によって明かされる。
〈人で混雑した渋谷のスクランブル交差点を、あなた一人だけ素っ裸で歩いてきたのはなぜですか〉
「それはなんでしょう」は、現実に作者とその周囲の人たちによって、Twitterを利用してプレイされているので、成り行きを観ることもできる。
そのTwitter版それなんを題材にした『問いのない答え』は、いますぐ読んだほうがいい傑作。小説技法の点から言っても、またゴリッと骨太なモティーフから言っても(じつはこれ、現代を舞台にした歴史小説のような側面がある)、かなり新しくて目覚ましい作品なのだ。

オランダの文化史家ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)で、遊びの起源は古代の宗教儀礼にあるんじゃないかと言った。遊びはアートやスポーツと部分的に重なる文化現象であり、また巨大な経済領域でもある。
ゲームを考えることで、そのルールでは動かない(でもべつのルールはあるかもしれない)いわゆる「現実」を、逆に知ることがある。そしてゲームを題材とする小説を読むということは、いわば遊びのなかで遊んでいるようなもの。
ボクは土曜出勤の合間に空き時間にこの記事を書きました。
仕事するフリして職場でこっそりこの記事を読んでくれたあなた。きょうはボクと遊んでくれてありがとうございます。
(千野帽子)