『新しい世界史へ』(羽田正/岩波新書) 帯の文“「世界はひとつ」という視点が、歴史の描き方を変える”。

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“1+1はどこの国でも2と教えるが、歴史は国によって教える内容が相当異なっている”
羽田正『新しい世界史へ』(岩波新書)の第二章で、フランスと中国の高校で用いられる歴史教科書が紹介される。
たとえば、フランスの歴史教科書。日本では日本史と世界史をわけて教えるが、フランスではわけない。
世界の歴史を扱う一本立て。ってことになっているのだが、“三巻を通じて、記されているのは、ほぼすべてフランスとその周辺地域の歴史に限られている”のだ。
フランスの歴史教科書で、日本はどう扱われているだろうか?
ほとんど出てこない。日露戦争ではじめて登場する。つまり明治維新以前は、まったく出てこない。
これは、フランスに限った話ではない。イギリス、オランダでも、ほぼ同様。
ヨーロッパ諸国では、非ヨーロッパの過去は、自国と関連しない限りほとんど登場しないのだ。

中国の世界史教科書は、中国史と世界史の二本立て。
特徴的なのは、世界史に中国の歴史がほとんど出てこないということ。
黄河文明も、中華人民共和国建国も出てこない。“あたかも、中国は世界史に何の影響も与えず、世界史は中国なしでも成立しているかのごとくである”。
中国に関する事象は「中国史」で扱う、という区分けになっているようだ。
中国の世界史で、日本はどのように扱われているだろう。
“日本で教えられるそれとはかなり異なっている(例 日本は「列強」の一員とみなされている。また、戦前の日本はファシスト国家と定義されている)”。

フランスも、中国も、日本も、「世界史」の内容が大きく違う。
“世界の人々に共通の世界史がないということは大きな問題である。いまや真剣に世界史のことを議論せねばならない時代になったのだ”。

『新しい世界史へ』は、こういった世界史の記述形式そのものが時代に合わなくなっているので、新しい世界史を構想しようと提案する。
いまの日本での世界史最大の欠点は「ヨーロッパ中心史観」だと指摘する。
それだけでなく、自と他の区別や違いを強調しすぎることも問題だと指摘する。
たとえば、イスラーム世界という概念が、いかに無神経でいい加減な枠組みでしかないかという解説とともに、著者はこう主張する。
“はじめからイスラーム世界やムスリムを自分たちとは異なる他者と見て、それとどう付き合うかを論じているかぎり、いつまで経っても根本的な問題は解決しないと思う。いま私たちに必要なことは、イラクやアフガニスタン、パレスチナなどの問題を、「彼らの」ではなく「自分たちの」問題として捉え、一緒になって解決に取り組もうとする姿勢である。そこに自と他の区別はあるはずだが、その上にさらに大きな「自分」を思い描くことが肝要なのである。”

第3章「新しい世界史への道」に紹介される「海域世界史」という概念も興味深い。
いままでの歴史は、陸地中心に歴史を構想している。すると、国境を枠組みとして捉えがちになる。海はほどんど視野に入らない。
ところが海域世界を中心にすると、海と周辺の陸地を一体のものと捉えて、国の境界を越えたダイナミックな相関とした把握方法となりえる。

著者は、ヨーロッパ中心史観がダメだというレベルじゃなくて、中心と周縁という形式そのものを疑う。国民国家史を寄せ集めた世界史ではない方法を試行する。

“私がこの本で及ばずながら試みたのは、私たちの世界を見る眼を縛っている重要な要素の一つである世界史の見方を刷新することである。私たちが現代世界を理解する際に歴史は大きな役割を果たしている。私たちが無意識のうちに受け入れている世界認識の基本を変えなければ、袋小路に入り込んでいる現代世界の諸問題の解決は難しいだろう”
『新しい世界史へ』は、王道となっている教科書の記述形式を大転換させようとする壮大な試みが語られる一冊だ。

ぼくなんて世界史はまったくの門外漢なのに、閉塞した考え方を突き破るようなパワーを感じてワクワクした。(米光一成)