京都・廬山寺にある源氏の庭(写真:calcium01 / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は夫を亡くし、娘が病になった紫式部のエピソードを紹介します。

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夫が亡くなった後に、娘は病に

長保3年(1001年)、夫・藤原宣孝を亡くした紫式部。未亡人となって間もない紫式部を口説こうとした男性もいましたが、紫式部はそれを断固拒否。宣孝との間に生まれた娘・賢子の教育に力を注いだものと思われます。

その頃の紫式部が詠んだと思われる歌には「若竹の生ひゆく末を祈るかなこの世を憂しと厭ふものから」というものがあります。

そしてこの歌の詞書には「世を常なしなど思ふ人の、幼き人の悩みけるに、から竹といふもの瓶に插したる、女ばらの祈りけるを見て」とあります。

「世を常なしなど思ふ人」(世の無常を感じている人)というのは、紫式部自身のことです。突然夫を病で亡くして、人生や人間の儚さというものをしみじみと感じ入る紫式部。

しかし、その側では、幼い我が子・賢子が病気で苦しんでいました。病気平癒のまじないでしょうか、竹を瓶に插したものを前に、紫式部の家の女房たちが祈祷をしている。そういった情景が、この詞書から浮かんできます。

紫式部はその情景を見て、先に述べた「若竹の生ひゆく末を…」の歌を詠んでいますが、その内容は「娘の病が治るよう、無事に成長するように私も祈っている。しかし、その一方で、私の心には、世の中はいつどうなるかわからない、世を厭う想いがある」というものです。

子どもの成長を願いながらも、世を厭うという、世間から離れたい気持ちを紫式部は抱いていたのでした。

夫の急死や、疫病により京中の人々がバタバタと死んでいったことも、その心情の背景にあると思われます。

そのほかに、この頃の歌だと思われるものには「数ならぬ心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり」「心だにいかなる身にかかなふらむ思ひ知れども思ひ知られず」というものもありました。

この歌の詞書は「身を思はずなりと嘆くことの、やうやうなのめに、ひたぶるのさまなるを思ひける」。

つまり「自分の人生が思い通りにならなかったと嘆く気持ちが、だんだんと静まってきたかと思うと、また急に募ってくる」と言っているのです。


紫式部にもゆかりがある、京都・雲林院(写真: ポポ /PIXTA)

そして「私はつまらない者だから、どうせ自分の思うようにはなれないとわかってはいるが、しかし、いざそうした悲しい境遇になってみると、自分の心はそれに引かれて、悲しみに沈んでいく」「どのような身の上になったならば、心がそれに満足するのだろうか。満足した境遇になれそうにないことはわかっているが、自らの心の満足を求める想いもあり、諦めがつかない」と詠むのです。

「自分の人生思い通りにならなかった」

紫式部が語る「自分の人生が思い通りにならなかった」というのは何を指すのでしょう。

幸せな結婚生活を送ることができなかったことなのか、思いもかけず夫が急死してしまったことを指すのか。それとも、紫式部には結婚生活を通して、ほかに何か実現したいことがあったのか。はっきりしたことはわかりません。

ですが、これらの歌を見ると、紫式部の心中には、悲しみの色だけではなく、生への執着というものを感じることができます。

「自らの心の満足を求める想いもあり、諦めがつかない」との言葉は、その最たるものだと思うのです。自分の人生を少しでも希望あるものにしたいとの感情を感じ取ることができます。

悲しみと希望と、さまざまな想いを巡らせる紫式部の心が、次第に生への希望の方向に寄っていっているように思われるのです。

悲しんでばかりはいられないと、無理にでも悲しみの心を抑えつけてきたのかもしれません。

誰しも人生思い通りにいかないものです。楽しいことだけではなく、悲しいことも沢山あるでしょう。そのようなときはまずは思いきり悲しめばいい。

でも、その悲しみもある程度の時間が経てば落ち着いてくる。時に、悲しみの感情がまた押し寄せてくることもあるけれども、その感情に支配されず、ゆっくりでもいいから、前を向いて歩いていこう。紫式部のこの頃の歌はそうしたことを、私たちにも教えてくれるように思うのです。

紫式部は、感情に任せて振る舞うのではなく、歌を通して、冷静に自分自身を見つめている。「身」と「心」を分けて、見つめているのです。夫の死、娘の病とさまざまな不幸にも負けず、紫式部が強く生きていけたのも、冷静に客観的に自分の心と身体を見つめていたからではないでしょうか。それにより、紫式部は悲しみから抜け出せたものと思われます。

紫式部の心の拠り所となったもの

紫式部は大作『源氏物語』をいつ書いたのか。その執筆開始時期は、今に至るまでもはっきりしていません。夫・宣孝との結婚以前か、結婚生活中という説もあれば、夫の死後、宮仕えするまでという説、宮仕えしてからという説までさまざまあります。

紫式部は寛弘2年(1005年)頃に、内裏(宮廷)に出仕(宮仕え)したと思われますが、それまでに、つまり未亡人となってから『源氏物語』を書き始めたのではとも言われています。

『紫式部日記』には、未亡人時代を回想するような記述もあり、そこには「ここ幾年か、寂しさの中、涙に暮れて夜をあかし、日を暮らし、花の色も鳥の声も、春秋をめぐる空の景色、月の光、霜雪を見ては、そんな季節になったのだとはわかるものの、心に思うのは、いったいこれから自分はどうなってしまうのだろうと、そのことばかり。将来の心細さは、どうしようもなかった」とあります。

しかし、そうしたなかにおいても、紫式部には心の拠り所がありました。

「物語については、同じように感じあえる人とは腹を割った手紙を交わし、少し疎遠な方には、つてを求めて声をかけた。私はこの物語というものを材料にして、さまざまな試行錯誤を繰り返し、慰み事に寂しさを紛らわせていた」とあるのです。友人らと物語を作っては、それらを見せ合い、時にそれを批評して過ごした。そのことが紫式部の寂しさを紛らわせていたのです。

悲しみから心を逸らすための方法

もしかしたら『源氏物語』の基になるようなものが、この頃に書かれていたと想像することもできます。悲しみから自分の心を逸らすには、何か趣味を持って、それに没頭するのもいいでしょう。紫式部も物語を紡ぎ、それを友人らに見せることで、寂しさを紛らわせることができたのですから。悲しみからどのように抜け出すか。紫式部の生き方には、そのヒントが隠れていたのでした。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)