エナジックスポーツ野球部を率いる神谷嘉宗監督。創部3年目でチームを沖縄県春季大会の頂点に導いた【写真:長嶺真輝】

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地元出身の企業人が設立 理念は「世界へ翔く、トップアスリートの育成」

 海を越え、甲子園から沖縄に大優勝旗を持ち帰った高校は2校しかいない。私立の沖縄尚学と興南だ。沖縄の高校野球界は近年もこの両雄が軸だが、この春、そこに割って入る異色のチームが現れた。同じく私立の「エナジックスポーツ高等学院」(以下、エナジック)である。まだ創部3年目ながら、機動力を重視した「ノーサイン野球」を武器に春の県大会で沖縄尚学や興南を打ち破り、頂点をかっさらった。やけにカタカナが目に付く長い校名、新興チームがあうんの呼吸で見せる縦横無尽の攻撃――。謎めいた高校の正体を紐解く。

 4月10日、沖縄県春季大会の決勝。エナジック対興南。日中は気温が25度近くまで上がり、夏の気配を感じる一日だった。熱気漂うスタジアムで、エナジックの三塁ベンチ側に終始穏やかな表情で選手たちを見守るコーチがいた。

 片手には青色のメガホン。でも、プレーの指示を送るジェスチャーは一切ない。ノーサイン野球を主導する神谷嘉宗監督(69)、その人である。

 エナジックの校名は聞いたことがなくとも、高校野球ファンであれば「神谷嘉宗」の名を知っている人はいくらか多いだろう。2008年に浦添商を率いて夏の甲子園に出場し、自身初の聖地での指揮ながらベスト4に進出。2014年には美里工を初のセンバツ出場に導いた。40年以上に渡り公立で監督を務めた後、2021年7月にエナジックの監督に就任。副学院長も兼任する。

「エナジックスポーツ高等学院」とはどのような経緯で誕生した学校なのか、なぜ沖縄が誇る名将の一人を招聘するに至ったのか、どのようにしてノーサイン野球を構築しているのか。夏の県大会に向けて準備を重ねていた5月中旬、神谷氏がインタビューに応じた。

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 エナジックは2021年4月、「文武ともに力強く、世界で求められる豊かな国際性と高いコミュニケーション能力を持ったグローバル人材の育成」を教育理念に掲げ、名護市瀬嵩(せだけ)にある旧久志(くし)小学校跡地に開校した。沖縄本島北部に広がる亜熱帯林、東海岸に臨む美しい海に囲まれた自然豊かな立地だ。

 当初は通信制のみだったが、2024年4月からは通信制と全日制の並置校となった。「世界へ翔(はばた)く、トップアスリートの育成」を目標とした全寮制の学校で、野球部は全員全日制の普通科に所属する。強化指定競技として野球部とゴルフ部があり、来年度からは駅伝部、卓球部、ボーリング部も設置予定だ。

 専門機材を揃えたウエイトトレーニング施設や野球部が使う全面人工芝の室内練習場、2、3年生には一人部屋が充てられる学生寮などを完備。競技に集中できる環境が整う。

 授業は午前中の4時間が普通科目、午後は体育科目として各種スポーツと部活動に取り組む。その他、毎朝ホームルームの前に20分間の英語学習があったり、資格取得のための勉強をサポートする教諭がいたりと、カリキュラムは個性豊か。

 文武両道を謳うことに加え、40年以上に渡り教壇に立ってきた神谷氏の「高校教育は生きる力を身に付けることが目的。競技で勝つだけではなく、スポーツも勉強もしっかり取り組むことが生徒たちの将来につながる」という教育者としての信念も反映されている。自主性を重んじているためチャイムがなく、髪型の決まりはない。制服も行事以外で着るかどうかは生徒の自由だ。

 運営するのは学校法人大城学園。世界20か国以上に拠点を構える医療・健康機器の開発メーカー「エナジックグループ」の会長・創業者で、沖縄出身の大城博成氏が理事長を務める。学校が立地する瀬嵩は大城氏の生まれ故郷であり、神谷氏は「廃校になった学校を活用することで地域活性化につなげたい思いもあったようです」と説明する。

 エナジックという企業名は、沖縄のスポーツ界では以前から馴染みが深い。

 2008年に硬式の社会人野球チーム「エナジック」を設立し、昨年まではオリックスで打点王やベストナインに輝いた沖縄出身の石嶺和彦氏が監督を務めていた。2012年には多くのプロゴルファーを輩出しているエナジックゴルフアカデミーを開設し、ボウリングや卓球でもアカデミーを運営する。

「企業で得た利益を地域に還元したい、社会貢献に役立てたいという思いから誕生したのが本校です」と神谷氏。スポーツと教育を結び付けるのは自然な流れだったようだ。

「自分の色を出しやすい」神谷監督が新鋭校を選んだ理由

 神谷氏が初代監督に就任する前、美里工を最後に定年退職を目前にしていた自身のもとには県内外から多くのオファーが寄せられたという。その一つがエナジック。熟考の末、選んだ理由は「チームをゼロから作り上げることに魅力を感じたし、以前のような転勤もなくて自分の色を出しやすいから」。開拓精神をくすぐられた。

 1期生として入部したのは1年生15人。選手たちと共に、胸に「Enagic」と書かれた真新しい青色基調のユニホームに袖を通し、決意した。「3年以内に甲子園に出場する」。壮大な目標を実現するために創部当初から注力したのが「ノーサイン野球」だ。

 神谷氏は、公立高校時代から「全くサインを出さない」という本格的なノーサイン野球に取り組んでいたわけではない。なぜ新鋭校で取り入れようと考えたのか。この選択の根源を探るには、名将と称されるまでの長年に及ぶキャリアを辿る必要がある。

 子どもの頃から野球少年だった。まだ沖縄が米国統治下にあった1968年、興南が当時の県勢最高成績となる夏の甲子園ベスト4に入り、沖縄が「興南旋風」に沸いた時は中学1年生。興南の現監督である我喜屋優氏(当時主将)を中心に、地元球児が聖地で躍動する姿は輝いて見えた。「体育の先生になって高校野球の監督になり、甲子園に行きたい」。将来の夢が決まった。

 琉球大学教育学部を卒業後、1979年に当時沖縄出身の選手を多く入学させていた宮崎県・都城東の野球部長に就任し、指導歴をスタート。1981年に帰省して以降は監督として各校の指揮を執り、1990年に着任した中部商では春季、秋季大会で頂点に立つなど強豪の一角としての地位を固めた。

 しかし、時は沖縄水産と沖縄尚学の2強時代。両校には全県から有望な選手が集中していた。沖縄高校野球の指導者の第一人者である栽弘義監督率いる沖縄水産は1990年、91年に2年連続で夏の甲子園準優勝を飾り、沖縄尚学は1999年にセンバツを制して県勢初の日本一に。1997年に夏の甲子園で4強入りした浦添商も高い壁だった。

 それでも中部商は2001年の夏の県大会で初めて決勝に駒を進めた。が、同年のセンバツに21世紀枠で出場して4強入りの快進撃を見せた宜野座の勢いに呑まれ、0対3で完敗。翌春に浦添商へ転勤し、その年の夏に元日本ハムの糸数敬作投手擁する中部商は初めて甲子園の土を踏んだ。

 浦添商でも陰の歩みは続く。夏の決勝に進む度、沖縄尚学や興南にことごとく跳ね返された。「ずっと、あと一歩が届かなかった」。誰が呼んだか、いつしか沖縄でこう呼ばれるようになった。

 悲運の闘将――。

 それでも10代の頃から抱き続けた夢は変わらない。だから諦めない。自身の野球哲学を磨く作業はやめなかった。

悲運の闘将が辿り着いた「弱者の兵法」と「意味あるサイン無視OK」の考え方

「私が大きく変わったのは、あの頃です」と振り返るのは、中部商時代だ。きっかけは九州遠征で熊本県の伝統高である済々黌と行った練習試合である。

 中部商は好投手を擁していたが、個々の能力が高いわけではない相手に徹底してバント攻撃を仕掛けられた。エースは足を削られ、ピッチングが崩壊。さらに最も衝撃を受けたのは、2死満塁の場面でのこと。ボールカウント3-2からのまさかのスクイズで不意を突かれ、1点を献上した。「こういう攻め方もあるのか」。衝撃と同時に、発見でもあった。

「沖縄水産に勝つにはこれしかない」

 2000年代に入ったばかりだった当時、沖縄水産には右の本格派投手が2枚いた。甲子園に最も近い存在と見られていたが、公式戦で当たる度にバント攻撃を徹底。機動力でかき回して金星を連発した。「いわゆる弱者の兵法ですよね。あれ以来、栽先生には一度も負けませんでした」

 機動力野球の追究は浦添商でも続いた。次に試みたのは、サインに対する考え方の改革だ。

 送りバントのサインを出しても、内野手が突っ込んできたらヒッティングに切り替える。エンドランのサインを出しても、スタートが切れなければ打つのをやめる。サインを出してなくても、行けると思えば盗塁を狙っていい。野球場の扇の中では、常に一瞬の駆け引きがある。だから、選手にはこう伝えた。

「根拠のあるサイン無視はオッケー」

 自己判断に委ねる範囲を広げた結果、選手たちの観察眼が養われ、攻撃で相手の隙を突く場面が増えた。

 迎えた2008年、夏。

 エース伊波翔吾と山城一樹捕手のバッテリーを中心とした浦添商は、その年のセンバツで全国制覇を成した東浜巨投手(現ソフトバンク)擁する沖縄尚学を県大会決勝で5対2で破り、遂に甲子園行きの切符を掴み取った。神谷氏が高校野球の指導を始めてから30年の節目の年。選手たちは監督の晴れ舞台に花を添えるように聖地で躍動し、ベスト4という目覚ましい結果を残した。

「あの時はバッテリーが良かったことが甲子園に行けた一番の要因でしたが、チームとしてスクイズのサインを出したけどヒッティングをしたり、自己判断で盗塁したりするということが多かった。選手たちが瞬間の判断でサインを無視し、機動力を駆使したことがいい結果につながりました」と回想する。

 この成功体験が、エナジックで取り組むノーサイン野球の素地になっていることは言うまでもない。

ノーサイン野球の伝道師に教え請う 「相手の隙を探る習慣」が身に付く

 神谷氏にとって公立最後の赴任校となり、10年間率いた美里工時代はノーサイン野球の研究期間と言える。

 教えを請うたのは、明治神宮大会で東亜大を3度の日本一に導いた中野泰造氏だ。ノーサイン野球の伝道師で知られる。当時、中野氏が監督を務めていた山口県の高川学園や、中野イズムが継承される東亜大を訪ね、ノウハウを学んだ。

 ただ、難しい。選手同士の意思の疎通ができていないと連係にズレが起きる。「沖縄に持ち帰ってやるけど、簡単にはできない」。美里工で取り組んだのは「基本的にはノーサインでやるけど、監督から見て少し不安がある時はサインを出すという二刀流のやり方でした」。

 選手が常に自分たちでプレーを判断する野球を実現するためには、どれだけの時間を積む必要があり、どんな練習をやるべきなのか。日々球児たちと向き合い、考え続ける中で、少しずつ形が見えてきた。

 そして、決断の時が来た。指導者として43年目、66歳でエナジックの監督に就任。「ここでノーサイン野球をやろう」。ゼロからチームを作るため、色を出しやすいことも背中を押した。美里工時代の教え子で、東亜大でプレーした神田大輝さんを野球部長に招聘し、脇を固めた。

 エナジックは廃校となった学校を再利用しているため、グラウンドが広いとは言えない。それでも週に3日ほどはタピックスタジアム名護や金武町ベースボールスタジアムなど近隣の野球場を借りて練習を行い、その日は時間が許す限り紅白戦を繰り返す。コーチ陣のサインなしで選手同士が活発に話し合い、一瞬の判断をすり合わせていく。

 すると少しずつではあるが、お互いの特性に対する理解が深まり、アイコンタクトで連係がハマる場面が増えてきた。

 春季大会中、エースで打線の中軸も担う1期生の古波蔵虹太も「初めは戸惑いながらやっていて、2年生の秋くらいまでは全然連係ができませんでした。でも、この冬の期間でだいぶ理想に近付けたと思います」と自信を見せていた。実際、昨年の秋季大会は初戦敗退と結果が出ず。しかし、今年1月に中野氏を臨時コーチとして20日間招くなどしてノーサイン野球を磨き、春に頂点まで駆け上がった。

 就任3年目にして、神谷氏も手応えを感じているよう。

「勝手に使っている言葉ですが、瞬時の判断をするための『野球脳』が向上したということだと思います。バント、エンドラン、盗塁。何をするにしても、駆け引きの中で常に相手の隙を探る習慣が必要になる。それが、毎日の実戦練習で身に付いてきました」

 エナジックは、次から次へと多彩な攻撃を仕掛ける。それはベンチにいる一人の脳ではなく、複数人の脳でプレーを選択しているから。打席を外してベンチからのサインを確認する動作がないため、テンポも速い。指揮官は「相手とっては普段とリズムが違ってくるんじゃないですかね」と語り、強みになっていると見る。

 もちろん盗塁やバントの失敗、連係のミスが起きることもあり「不安もいっぱいある」。ただベンチから見ていて選手たちが想像を超えるプレーをすることも多く、それと同じくらい「ワクワク、ドキドキする」。高校教育を通じて生徒の自主性を育てる副学院長としての目から見ても、常に自分で考え、選択する習慣が必要なノーサイン野球は「自立につながると思う」と考える。

 6月22日、北海道と並んで日本一早く開幕した夏の甲子園出場を懸けた沖縄大会。第1シードのエナジックは2回戦から登場する。春の勢いそのままに「3年以内の甲子園出場」を実現することができるか。神谷氏が40年以上に渡って積み上げた野球哲学がぎゅっと詰め込まれた新鋭校のチャレンジが、まもなく始まる。

(長嶺 真輝 / Maki Nagamine)