北方謙三氏が新作について語る(撮影/朝岡吾郎)

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 何だろう、この胸の奥がザワザワとする感覚は。北方謙三氏の14年ぶりのハードボイルド小説『黄昏のために』。主人公は50代も半ばの男性画家〈私〉。毎日をひたすら創作に費やし、むろん飯は食い、友や女にも会うが、特に深入りはしない日々の描写がなぜか深く心に迫り、〈表現はすべて嘘であり、同時にほんとうなのだ〉、〈言葉にできる絵に、どれほどの意味があるのか〉などと自問する姿は、著者の自画像のようでもある。

「あえてそう読めるように、私小説風に書いたんです。読んでくれる人は皆、私がこんなに苦しんで書いてるとは思わないからさ(笑)。ただし表現者というのは押しなべてそういうもので、その点は小説家も音楽家も画家も同じだと思います」

 冒頭の「声」以降、「予め1話15枚と、枚数を決めて書いた」というこの連作集は、まずは『岳飛伝』(2012〜2016年・全17巻)と『チンギス紀』(2018〜2023年・全17巻)の間に6篇が書かれ、残る12篇は『チンギス紀』完結後に断続的に書かれていった。

「長編と長編の間に、余剰を極力削ぎ、書く必然性のある言葉だけを使った、15枚の掌編を書くわけです。文体を締めるために」

 その徹底した姿勢を映す計18篇では、余白や行間にこそ多くのものが描かれ、それらが放つ熱や静謐さに息がつまるよう。まだまだ自身は黄昏とは無縁らしい。

 昨年夏に『チンギス紀』全17巻を完走し、今はまた今秋連載開始予定の大作の準備中だという北方氏。

「本当は長編と長編の間は何をやってもいいんだけどね。今回はコロナもあって海外には行きにくかったのと、おそらく最後の作品になるんです、次の長編が。長いものを書いていると、同じ表現を何度も使ったり、どうしても言葉が甘くなる。でも本来はその場面で選ぶべき言葉は1つしかなく、そうとしか言いようのない小説の言葉を選ぶことが、私は小説を書く行為の根源にある気がするんです。

 そうやって文体を絞りに絞って身に着けると長編を書いても乱れないし、常々私は1500枚の作品なら原稿用紙を1500枚しか使わないくらい加えることも削ることもしないんだけど、今作でも途中から今までになく緊密な15枚を一発勝負で書きたい、破棄してたまるかって、意地になってきちゃってさ(笑)。バカげてるけどな。でもそのバカげた中にバカげていないものが、意外と潜んでいるものなんです」

 例えば冒頭で人形を描き、〈無機〉を描き得なかった私は思う。〈人形は、椅子に置いてある。キャンバスの中の人形と同じ姿だが、こちらは無機である。キャンバスの中に私が描き出した人形は、生きている〉〈命のないものを、なぜ命がないように描けないのか〉と。

 そうした葛藤を知ってか知らずか、20年来の付き合いになる画商の〈吉野〉は定期的に自宅兼アトリエを訪れて絵を持ってゆくが、彼が弄する理屈や口上より数字にしか私の興味はない。

 他にもここには家事代行業の女性が交代制で訪れ、モデル達の出入りもあるが、基本は独り。また、趣味で油絵をやっている友人〈村澤〉や若い女性と再婚した〈玉置〉、その結婚パーティで出会った〈蹠から、血を流しているような女〉や、私が定期的に落葉を集めにゆくペンションの経営者で古い友人の〈脇坂〉など、どの関係も縁があるようでないような淡白さなのだ。

 そんな私は〈色〉に唯一執着し、森で落葉を蒐集し、これはと思う色を貪欲に追求したかと思うと、庭のバラを切り、28通りの角度からデッサン。それらを1枚の静物画に再構成し、〈一本〉と名付けてほくそ笑んだり、肉屋で注文した頭骨を土に埋め、〈野晒しの骨〉の中に死を見出したりする、表現の鬼でもあった。

〈仮託せずには、描けない。死は、生きている人間にとって、観念でしかないのだ〉〈なにかが、見えたような気がした〉〈私の心か躰のどこかにある、穴〉〈一瞬だけ鮮やかに感じたものは、すでに曖昧になっていた〉〈こんなものか〉〈こんなものだ〉

出会っただけで理由になるから

「落葉の色を蒐集する話やデッサンや骨の話も、全部私の創作、アイデアです。画家の場合、技術は磨けても、色だけは持って生まれた感性から逃れられない。だからこそ彼は色に拘り、それはつまり自分は天才かどうか、問いかけてるってことなんだけど、そもそもその色自体が不確かなものなんですよ。小説を言葉で説明できないように、その絵画や色に説明は必要なく、できるはずもないんです」

〈描くことは、生きること〉と帯にある本書の今一つの見所が食の描写だ。画家崩れの主が営む海辺の食堂で唯一美味かった鯒の造りや、時々寄る和食屋や洋食屋やスナックの端正で気取らない味やサービス。さらには私が作品を描き終えた後に焼き、無心に食らう肉の、何と官能的なこと!

「私の場合は料理も表現の1つだと思って取り組んでいますけど、彼は違う。生きるために食ってるんです。全身全霊で絵を描くだろ。すると体はカラカラになり、欲求の赴くまま400gの肉をガツ、ガツ、ガツッて彼は食うわけだけど、体は消化できなくて、ゲーゲー吐きだすわけ。

 つまり絵を描くのも肉を食うのも主人公にとっては生きることで、彼は何だかんだ言いつつ、生きることにまだ貪欲たり得ている。彼の設定を50代にしたのも、私の想像力が今50代くらいだからで、次の長編も15巻くらいにはなるだろうし、70を過ぎると年齢の感覚や暮れるという認識も意外とないものなんです」

 酒場や、映画館や、ふとした街角で出会った人々が、「出会っただけで理由になるから」と登場人物になり、その細やかな交情がこうも滋味深い1篇になるのかと、改めて驚かされる掌編集だ。

「それが小説の言葉ですよ。例えば志賀直哉『城の崎にて』には1か所だけ、『いい色』という表現が出てくる。その綺麗でも美しいでもなく、いいとしかいえない言葉を求めて私はこれを書いたし、フローベールは『ボヴァリー夫人は私です』と裁判で証言したそうだけど、この画家崩れの主の弱さなんてヤベッて思うくらいオレの弱さだもんな。つまり登場人物は全て、私なんです」

 物語を終わらせる痛みや、「言葉を凝視する苦しみ」に耐えたのも、来る長編のため。何より「小説は言葉」だと信じるからだという。

「私が銀座で飲んでばかりいると思ったら大間違い。あの本屋に何十何作も並ぶ本を書いたのは全部オレで、意外と勤勉なんです(笑)」

【プロフィール】
北方謙三(きたかた・けんぞう)/1947年、唐津市生まれ。中央大学法学部卒。1981年『弔鐘はるかなり』で単行本デビュー。1983年『眠りなき夜』で吉川英治文学新人賞、1985年『渇きの街』で日本推理作家協会賞、1991年『破軍の星』で柴田錬三郎賞、2004年『楊家将』で吉川英治文学賞、2005年『水滸伝』で司馬遼太郎賞、2007年『独り群せず』で舟橋聖一文学賞、2011年『楊令伝』で毎日出版文化賞特別賞、2016年「大水滸伝」シリーズで菊池寛賞、2024年『チンギス紀』で毎日芸術賞など受賞多数。169cm、78kg、A型。

構成/橋本紀子

※週刊ポスト2024年6月28日・7月5日号