「働くことの解像度」を上げる「プロレス的思考法」
ライバルも含む「相手があってこその生」を築いていくための思考法とは(写真:MediaFOTO/PIXTA)
奈良県東吉野村への移住実践者で、人文系私設図書館「ルチャ・リブロ」主催者の青木真兵氏が、このほど新刊『武器としての土着思考:僕たちが「資本の原理」から逃れて「移住との格闘」に希望を見出した理由』を上梓した。誰かとの比較でしか自分の価値が測れなくなっている現代の問題点と、そこから脱する思考法を青木氏が考察する。
たかが働く、されど働く
僕たちは資本の原理に支配され、商品に囲まれ、自らも労働力を商品として提供する社会に生きています。
そんな生活を送っているあまり、誰かとの比較でしか自分の価値が測れなくなっていることを、新刊『武器としての土着思考』では問題視しています。だから雇用契約が更新されなかったり、病気で仕事を辞めざるを得なかったり、就職活動に失敗したりすると、生きている意味がなくなったと思ってしまう。こんな社会が生きやすいわけはありません。
本書において「働くこと」は、労働力を市場に提供するだけの話であり、自分の生きる意味や価値とはまったく関係がないことを主張しています。と同時に、やはり現代社会で生きていくうえではお金が必要だったり、働くこと自体はしんどくても、ノルマを達成したり、同僚と愚痴を言い合いながら酒を飲んでいる時こそ、心から楽しい時間を過ごせていると思えたりする。たかが働く、されど働く。こんなふうに「働くことの解像度」が上がれば、仕事を続けるか辞めるか、ゼロかイチか生きるか死ぬかという、白黒思考から脱せられるのではないでしょうか。
「働くことの解像度」を上げるために必要なのが、生きることを自分一人で引き受けないことだと思っています。どうしても、自分の生活費を自分で稼ぐことが自立であり、大人であるという言説が広まっていますが、本当にそうでしょうか。というか、この時の「自分」とは何なのでしょうか。
家族や友人に囲まれ、うれしい時も悲しい時も話を聞いてもらったり、反対に話を聞いたりしているのも「自分」です。そういう家族や友人がおらず、社会制度や社会資源によって生きているのも「自分」です。「自分」を孤立した単一の個人としてだけ見るのではなく、関係性のなかで理解すること。この思考法こそ、僕が本書で述べている土着思考の重要な一つのキーワードです。
本当の意味での「プロレス的思考」
そしてなぜこのような思考法が「武器」となるのか。もしかしたら、みなさんが考えている「武器」とは意味が異なるかもしれません。「はじめに」には以下のように記しています。
また、本書のタイトルに入っている「武器」という言葉についても述べておく必要があります。もちろんこの武器は、「現代社会を生きていくための手段」という意味です。生きていくことは簡単ではありませんし、そういう意味で僕にとって生きることは「闘い」だといえます。しかしこの闘いは、決して相手が二度と立ち上がってこないよう、完膚なきまでに痛めつけることを目的としていません。
ある程度長く生きていれば分かるように、競争した相手が味方になったり、時には味方が敵になったりすることはあります。もしくは大切なプレゼンや試験や試合の前の日に限って眠れなかったり、うまく話しかけたいのにその場に行くと言葉が出てこなかったり、「自分のことが嫌い」という人は「自分こそが一番の敵」だと思っているかもしれませんね。むしろ、相手がいるからこそ僕たちは闘うことができる。相手がいるからこそ僕たちは生きていくことができる。この考え方こそ、巷で「茶番」の比喩として使われるのとは全く異なる、本当の意味での「プロレス的思考」です。馬場がいたから猪木があった。長州と藤波、小林と佐山、山田と佐野、棚橋と中邑も同様でしょう。決して二人ではなく、武藤、橋本、蝶野などといった三人の場合もあるかもしれない。分かる人にしか分からない例えですみません。
とにかく、相手と関係をつくり、その関係の中でいかに生きていくか。この相手には、自分の中の「うまくコントロールできない自分」も含まれています。この相手とともにどう生きていくか。それこそ、僕が考える「闘い」(スペイン語でルチャ)です。だから本書で述べている武器とは、相手の技を受け、さらに強い技で返すことで生命力を高め合うような、「相手がワルツを踊ればワルツを、ジルバを踊ればジルバを」というかの名言にもあるような、「相手があってこその生」を築いていくための思考法のことなのです。
6月29日(土)に青木真兵さんの『武器としての土着思考:僕たちが「資本の原理」から逃れて「移住との格闘」に希望を見出した理由』刊行記念イベントが開催されます。詳しくはこちら(撮影:宗石佳子)
急にプロレスが出てきて、ますますよくわからなくなってしまったかもしれませんが、とにかく「人は一人では生きていけない」ということを伝えたいのでした。
これは別に周りの人のおかげで生きているのだから、感謝を忘れずに生きていきなさいという説教臭い話ではありません。事実として、「人は一人では生きていけない」のです。直接的に誰かの助けを得るか否かという話ではなく、人が集まって暮らす社会で生きている時点で、一人で生きていないことは明らかです。
また、仮に自給自足の生活を送っていたとしても、山や川、海などの生き物を獲ったり、植物を採取していることは、「一人」ではないと考えています。
僕たちは有限性の中で生きている
「人は一人では生きていけない」という事実を認めることは、僕たちが有限の世界に生きているということを理解することでもあります。本書でもそれは繰り返し述べられています。本文では、内田樹『街場の天皇論』を踏まえて、有限性の中で生きていく仕方を僕は「山村デモクラシー」と呼んでいます。
無限に基づく社会デザインは、これから先は通用しないでしょう。無限に基づくということは、青天井の経済成長を意味します。しかしそれは自然を制圧するテクノロジーだったり、人力では及ばない工業的な道具を使わないと達成できません。確かにテクノロジーの力をもってすれば、山も平らにできるし、海も埋め立てることができる。地中深くにトンネルを通して、東京と大阪をすさまじいスピードで結ぶことも可能となります。
でもそうした悪い意味でのゼロベースというか、シミュレーションゲームのマスのように世界は真っ平らであるはずはありません。そこには必ず森や山があり、地下水が流れ、人が住んできた歴史があります。もちろん人以外の動植物もたくさん暮らしている。それらすべてをなかったものにして、一からつくりたいものをつくることのできる力を人間は持っています。しかしそういう力を誇示する仕草が「人類の夢を叶える」ことだという考えこそ、僕は限界が来ていると思っています。
その土地の歴史、植生などを考慮したうえで、みんなで意見を出し合い、何ができるのかを生態圏の中で考える。それが土着であり、天皇という言葉で示したものと折り合いをつけた社会をつくる、政治的成熟です。僕はこの状態を有限性を含んだ民主主義という意味で、「山村デモクラシー」と呼んでいます。
本書でお伝えしたい土着思考とは、生きることを関係性、有限性の中で捉え直すことだといえます。今あるものをどう使い、どう楽しく生きていくのか。本書がそんなことを考えるきっかけになっていただけたら、うれしく思います。
(青木 真兵 : 「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター、古代地中海史研究者、社会福祉士)