「合理の激流に抗う、表現の力」上田岳弘×高橋一生『最愛の』対談
今年九月、最新刊となる長編『最愛の』を刊行した上田岳弘さん。二〇一三年に第45回新潮新人賞を受賞しデビューして以降、本年で作家生活十年目を迎える。節目となる今作では、遥か遠くまでSF的想像力を飛ばした長編第一作目『キュー』から一変、リアリズムの手法を用いた恋愛小説を世に問うた。
最愛の
著者:上田 岳弘
定価:2,310円(10%税込)
今年九月、最新刊となる長編『最愛の』を刊行した上田岳弘さん。二〇一三年に第45回新潮新人賞を受賞しデビューして以降、本年で作家生活十年目を迎える。節目となる今作では、遥か遠くまでSF的想像力を飛ばした長編第一作目『キュー』から一変、リアリズムの手法を用いた恋愛小説を世に問うた。
上田作品を読み込んでこられた俳優・高橋一生さんをお迎えし、これまでのお二人のお仕事や新刊について、そして現代社会に対して抱く危機感と、創作/表現の未来について、深く語っていただいた。
構成/タカザワケンジ 撮影/神ノ川智早 ヘアメイク/田中真維 スタイリスト/秋山貴紀
並行して書いた『最愛の』と『2020』
――お二人は昨年の舞台『2020(ニーゼロニーゼロ)』で、作者と一人芝居の俳優として一緒にお仕事をされています。それ以前から交流があるそうですね。今日は上田さんの新刊『最愛の』を入口に、お二人が関心を持っていることについて自由にお話しいただければと思います。
高橋 新刊の『最愛の』ですが、上田さんが書かれる「最愛」がまず新鮮でした。かつ、やっぱり上田さんはこれまでの上田文学に登場したモチーフを使い、一点を穿っていくやり方をされるんだなと。たとえば「塔」というキーワード。それを過去の作品とはまた違ったかたちで掘っていく。今作ではタワーマンションを塔に見立てて、僕らのいる現代社会と地続きの解釈で描いています。読みながら、小説を書かれている上田さんを想像しつつ、同時に僕自身を投影してしまうところが今まで以上に多かったかもしれません。
上田 語り手の「僕」――久島(くどう)に投影されたということですか。
高橋 はい、語り手に投影していました。
上田 それはありがたいですね。今回は十周年記念作品と銘打っていますけど、一生さんがおっしゃる通り、これまで作品に使ってきたモチーフを網羅的に使いながら、新しい局面をつくることができればいいなと思って書いていました。
高橋 上田さんの作品に出てくる固定のワードを配置替えすると、これだけ鮮度が上がるんだなと驚きました。
上田 基本、同じ材料で(笑)。
高橋 はい、同じ材料にもかかわらず。一点を穿ち続けているというのがまさにそれで、ずっと同じ場所を掘っていって、深みが出てくる。とても面白く拝読しました。
上田 ありがとうございます。そういえば、一生さんと直接お会いするのは昨年の『2020』夏公演以来ですね。
高橋 そうですね。大阪の公演でした。
上田 一生さん、演出の白井晃さんとつくった舞台『2020』も、ある意味ではこの十年の作家活動の集大成であって、そしてその裏でずっと書いていたのがこの『最愛の』でした。なので『2020』とはまた別の集大成感があればいいなと思いながら書いていましたね。
加えて、コロナ禍という現実を活写したいという気持ちも強くありました。現代的な働き方をしている人間たち、そしてそこへコロナがやってきてしまった現実を写実的に描きながら、僕の作品として成り立つような書き方ができればいいなと。
高橋 書く人、つまり小説家の方も脚本家の方も、コロナを避けて通れなくなるだろうなとは予感していました。仮にそれがSFめいたものであったとしても、写実から離れているとしても、書かなくてはいけない題材にはなるだろうなと。
僕はどちらかというと、物語の中ではコロナをなかったことにしたいほうなんです。たとえば、ドラマの中にマスクの描写が出てきて、それって必要なのかなと思ったり。現実に即し過ぎてしまって、果たしていいんだろうか、夢が見られなくなるんじゃないかと、そこはいまだに疑問なんですけれど。
上田 なるほど。そういう考え方もあるでしょうね。
高橋 今の時代、観客や視聴者がフィクションに接する時、現実と地続きになることが果たして必要なのかと思っていて、最近はお芝居自体も、どちらかというと写実を超えた、ちょっと別の世界線の話を選びがちです。
けれど、上田さんは『最愛の』の中でコロナを自然に出していますよね。写実に寄せていってなお、上田さんの文学が成り立つのかというチャレンジングなことをされていたと思います。それでもちゃんと物語として読めるのは、上田さんが使われる言葉がどこか写実を超えているからだと思うんです。
上田 僕は何か物事が起きた場合に、それが起きる理由があると思っているんですよね。人間がやったことなら、社会を構成する人たちの無意識が起こすのだと思うのですが、コロナは自然に起こったことで……。そんなコロナというものを自分が扱えるのかも含めて、あえて書いてみたいという気持ちがありました。
高橋 そこに恋愛というか、「人を思う」「最愛」というワードが出てくるじゃないですか。それが新鮮でした。そのあたりは、最初から作中に出そうと思われていたんですか。
上田 『最愛の』というタイトルは、割と早く、準備稿の段階で決まっていました。今は「最愛のもの」が差し示しづらい時代だと思っていて、「最愛の」に当てはめるとすれば何があるだろう。「最愛の」と言われた時に人は何を思い浮かべるだろう。それを強烈に自分に問いただすような書き方を僕自身もしたし、読者の方にもそう思っていただけると面白いんじゃないかと思います。
緊急事態だった『2020』
高橋 コロナ禍になって、『2020』でご一緒する前から、上田さんの生活基盤は東京にありましたか?
上田 はい、東京でしたね。
高橋 コロナ禍を避けて、どこか籠もるようなことはしなかったんですか。
上田 しなかったですね。会社のほうはほぼリモートになりました。リアル出社が月一回ぐらい。リモートになる前は出社前に二、三時間小説を書いていたんですけど、今は小説を書く日と仕事する日を分けてやっています。そのほうが長編には向いていますね。
高橋 『最愛の』は「すばる」に連載していたんですよね。さっき、一緒にポートレート撮影をしていた時に、上田さんが「締切りがあることが大事」とおっしゃっていて、僕もそうだなと思いました。文章の依頼を受ける時は、「締切りはここまでです」と言ってもらったほうがいいですね。締切りがないといくらでも修正できてしまうような気がして。
上田 そうなんですよね。いつまでたっても終わらない。
高橋 誰かにピリオドを打ってもらい、ここまでですと分かっている状態で、それを積み重ねていけるのが連載のいいところだとおっしゃっていましたね。でもそう思うとやっぱり、『2020』の脚本と『最愛の』を並行して書いていたのはすごいことですよ。
上田 『2020』の緊張感はすごかった(笑)。舞台は締切りどころか幕が開くまでが勝負で、かつ幕が開いたら止められないわけじゃないですか。僕は舞台の脚本を書いたのは今回が初めてだったので、いつもこんなことをされているんだなと思ったら、一生さんはすごいなと。
高橋 『2020』は自分の中でも緊急事態でしたね。稽古期間は一か月とってあったんですけれど、セリフを覚える時間が実質五日ぐらいしかなかった。そんなことは今までなかったんです。上田さんと白井さんと話し込んでしまうから、余計に時間をとってしまって……。でも、めったにない面白い体験ができました。あの時は遮二無二やっていただけですけれど。
上田 やっている時は大変だったけど、振り返ると楽しかったなと思います。舞台ってこういうものなのかなと感じていましたけどね。
高橋 上田さんは稽古場がほとんど初めてだから、当然役者がひと月かけてセリフを覚えるということをご存じないわけです。周りのスタッフの方々は「果たして全てのセリフが頭に入るんだろうか」と心配に思っていたでしょうが、上田さんは「きっと大丈夫だろう」と楽観的でしたね。
上田 楽観的というより、通常の進行を知らないので、こんなもんなのかなって(笑)。一応、稽古期間に入る前に、一度は脚本を書き上げていたんです。ただ、一生さん、白井さんと議論を深めていく中で、ここは変えたほうがいいとか、ここはもう少しこうなったほうがいいかなというすり合わせを皆で念入りにやったんですよね。本当にぎりぎりまで粘っていたという状況だったので、どうなるのかなと。こう言うとなんだか他人事みたいですね(笑)。
高橋 原稿用紙百枚分ぐらいのセリフがあったんですけれど、それが五日くらいで入ったんです。それは自分でもちょっと面白かった。ふだんは対人的に起こってくる事象ありきで、セリフを頭に入れるというやり方をしていたんです。でも『2020』は一人芝居だったので、相手とのやり取りではなく物事とのやり取りなわけです。最初は身体を動かしながらじゃないとセリフが入らないだろうなと思っていたんですが、意外と順を追っていたら入っていったので自分でも驚きました。
上田 最悪、一生さん演じるGenius lul-lul(ジニアス ルル)が持っているiPadにセリフを表示させればいいじゃん、というアイディアもありましたね。
高橋 そうでした。上田さん、白井さんも、僕が舞台の上でiPadを持っているという設定を頼りにしてくださっていた部分があるんです。
でもそこは俳優としてのプライドで「カンペなんか見ねえぞ」という気持ちでセリフを入れていたんです。iPadを頼りにしたところで、「あれ? 今何ページだったっけ」ってなっちゃうと、もう途端に駄目になってしまうような気がしたので。
リズムに還元されるような芝居をしようとは思っていないんですが、でもやっぱりリズムが狂うのは怖いなと思って、ひたすらセリフを頭に入れていました。家でも稽古していましたから。初めてですよ、家で稽古したのは。
上田 しかも最終日に舞台途中で音声トラブルがあって、一生さんはマイクを通さずに生声で最後までやったんです。あれはすごかった。
高橋 そうそう。マイクが駄目になっちゃって。そういうハプニングも含めて面白い体験でした。とくに上田さんに入っていただいて、三人で膝突き合わせて相談してつくったというのは貴重な体験でした。
上田 学生時代みたいな感じだった。一生さんの一人芝居になったのも、コロナ真っ盛りの頃だったので、リスクを考えた結果、一人芝居がよかろうということと、何かチャレンジがあったほうがいいんじゃないかという経緯でしたね。
高橋 打ち合わせ中に「これってもしかして一人でやっちゃったほうがいいんじゃないか」と僕がふと言っちゃったんです。
そうしたら白井さんが「それって、上田さんの作品を舞台化するわけじゃなくて、新たに書き下ろしてもらった新作を一人芝居でやるということ?」って驚いていましたけれど。あれよあれよという間に一人芝居の方向になっていきました。
それに、上田さんの原作の舞台化は渡辺えりさんが『私の恋人』でされていますし、完全に書き下ろしで上田さんの文学を舞台に引っ張ってきて、上田さんの世界観を舞台で再構築したらどうなるのか、試しにやってみたいというのが最初から僕の頭の中にはありました。それが叶って本当によかったなと思います。
上田作品が演劇人から愛される理由
――お二人が知り合われたのはどういうきっかけだったのでしょうか。
高橋 僕が白井さん演出の舞台に出た時に上田さんが観に来てくださって、共通の知り合いの方から紹介していただいたんです。そのお芝居を上田さんが気に入ってくださって、それから連絡を取り合ったり、家で食事したりという感じですね。
上田 たしか九年ほど前ですね。ちょうど僕がデビューして、『太陽・惑星』という最初の本を出して、『私の恋人』を準備していた頃です。
高橋 その後は上田さんの小説が出ると読んでいて、帯にコメントさせていただいたりもしました。なので『2020』では、上田さんが僕をイメージして書いてくださったキャラクターを舞台でやらせていただけたのが感慨深かったです。
上田 『2020』には穴を見つめるゴリラの話が出てくるじゃないですか。『最愛の』ではそのエピソードと対になるようなチンパンジーの話を書きました。その関連性を考えてもらうような読み方も面白いかなと。舞台と並行して書いた相乗効果がありました。
――上田さんの作品と舞台の関係性も興味深いです。作品が舞台化されたり、演劇人から声をかけられたりすることについて、上田さんはどう思われているのでしょうか。
上田 舞台化していただけることについては、どうぞどうぞ、と思っています。『私の恋人』の舞台化では脚本にタッチしていないので、原作として使っていただければ光栄だなと思っていました。
演劇との関係でいうと、僕の小説の中にある、手でつかめない、妄想上の理想に手を伸ばすというアクション。『最愛の』でも「私の恋人」という言葉に仮託している存在、それ自体が、おそらく演劇的だと思うんですよね。演劇にも、存在しないもの、究極の何かをセリフやシーンで追い求めるところがあるのかなと思っています。それが演劇人の方たちに面白く読んでいただけた理由の一つなんじゃないかな。
高橋 ベケットの『ゴドーを待ちながら』と共通する部分がありますね。待ち人が来ないという状態。来ない人をずっと待っている中で、舞台の上の人物たちがゴドーのことを語り続けるって、演劇的だと思うんです。
『2020』の時に、最初に僕から出させてもらった案の中に「駈込み訴え」があったんですよね。「駈込み訴え」をやりたいと。
上田 ああ、そうでしたね。太宰治の。
高橋 あれはユダがキリストに対する愛憎を一人語りする話なんですけれど、ユダを主人公に置き換えてやってもらったらいいんじゃないかなと提案して、最初の脚本を書いていただいていたんです。
神格化されている存在があって、そのそばにいる人が語ることで、その神聖さのようなものが剝がされていく。語る側ももちろん何かが剝がれ落ちるんですけれど、そういうものが欲しかった。完璧と言われているもの、人間を超越したと思われる存在から、権威が剝がれていく瞬間ってすごく人間的なんじゃないかと。
文化を盛り込んで物語を紡ぐ
上田 『最愛の』をご自分に引き寄せて読んでいただいたというお話がありましたが、世代としては、僕も一生さんも主人公も、ぎりぎり同じぐらいじゃないですか。
高橋 そうですね、近いです。
上田 いわゆる就職氷河期世代だと思うんですけど。『最愛の』は、僕たちの世代が四十歳ぐらいになってきた時に、今読みたいと思えるストーリーって何だろうと思いながら書いたんです。
『最愛の』は手紙のやり取りをする恋愛小説ですが、恋愛関係と通信手段は密接に関わっていると思っています。たとえば今だったら、LINEでやり取りしている時に既読スルーされると、それはある種のメッセージなわけじゃないですか。
でもそれは、三十年前、四十年前にはなかった通信手段で、通信手段がないがゆえに存在しなかった感情だと思うんですよ。そういった文化も盛り込んだ上で、それでも恋愛小説が成り立つのかどうかというのが、今回のテーマの一つだったのですが、その辺はいかがでしたか。
高橋 手紙ってアナログで、思いを伝えるという意味で原初的なものじゃないですか。往復書簡形式で話が進んでいく小説は今までもありましたけれど、それを現代、しかもコロナ禍を反映した上でやるということが、僕は純粋でいいなと思いました。
それに恋愛に関する僕らの年代の話って、たぶん、上田さんのような方が書かないと残らないと思うんです。たとえば恋愛を描くドラマや映画を見てみても、僕らの年代と近い世代を主人公に据えることはなかなかなくて。これだけ少子化が進んでいるのに、いまだに若い人たちが主人公の話ばかりつくっている。
若い世代がきゅんきゅんするようなドラマを否定しているわけではないんですが、こっちの世代の話も必要じゃないかと思うんです。上から目線かもしれないけれど、文化的水準を保つ上では、大人の恋愛だったり、どうすることもできない過去を積み重ねた上で物語をつくることが必要だと思っています。
上田さんがつくる物語を信じたり、いいと思ってくれたりする人たちがいるからこそ本になっていくわけじゃないですか。上田さんの作品を読む人がたくさんいるんだっていうことは心強いことなんですよ。そしてそういう人たちがいるにもかかわらず、テレビドラマは彼ら彼女らを無視しているような気がしてならないんです。
上田 たしかに三十代、四十代って、物語の主人公になりにくいところはあるかもしれない。
高橋 話がずれるかもしれないですが、この間、生まれて初めて同窓会に行ったんです。
上田 それは何の同窓会ですか。
高橋 中学校の同窓会です。そういえば中学を卒業する時に、「おまえが同窓会の幹事だ」と言われていたことをふと思い出して。やってみたら四十人近く集まりました。そこで衝撃だったのは、どんな職に就いているかでその人の老け方が違うことです。
上田 それはおっしゃる通りかも。
高橋 役職に就くことによって、無意識に自分の体格や外見を変えているんだなということを思いました。社長とか役員クラスだと割とかっぷくがいいとか。自分に説得力を持たせるために、何となく腹が出ちゃったりするんだなと。たぶんあれは自分の身体を変化させている。
上田 役職に適合していっている。
高橋 そう、適合です。そんなこともあわせて、それくらいの年齢の、無意識に変化していった人たちの物語があってもいいのになと思うんですよ。僕らの年代になってくると、思っていることや、やっていることがどんどん複雑になっていくじゃないですか。
上田 学校や家族に属している間は典型に収まっているけれど、社会に出ると年齢とともに細分化していきますね。
高橋 そうなんです。それがなかなか描かれないなと思っていて。そういう意味では日本の文学が持つ力だったり、作劇の力だったりをもっと大事にしてほしいと思っています。目先のことばかり考えているからか、ドラマや映画の質が、どんどんお隣の韓国に追い抜かれているという危機感がありますね。
上田 表現活動が経済原理に引っ張られ過ぎているのはありますよね。経済合理性優先というか。しかもそのスパンがすごく短い気がします。三か月や半年のスパンで経済合理性を達成しようとしているんじゃないでしょうか。二年、三年単位で見たらこっちのほうがよくない? というような判断基準はないのかなという印象を受けます。
昭和にあった「何か」を引き継ぐ
高橋 いろいろな軸があっていいはずなのに、一つの軸に集中してしまっている印象です。
上田 主流と違うものをつくって外れると、「え、何やってるの」となるんでしょうか。そういう意味で純文学がいいのは、ある意味で好き勝手にできるところなんですよ。それが期待されているというか。
高橋 いや、本当にそうなんです。文学は読者からのニーズを度外視して作品をつくることができるという意味で、力強いなと思うし、もっと多くの人が触れたほうがいいと思います。
すべては「自分が好きなものしかできない」から始まっていいと思うんです。でも、そう言うとSNSで「自己満足でやってんじゃないよ」という言葉が飛んできたりするじゃないですか。でも、自分自身が納得しない限り、迷わずに打ち出すことはできません。文学には打ち出す力があるし、文学を通して人間の機微を知ったり、人間ってもっと自由なんだと思えたりする。ドラマや映画の作り手たちも、文学者がつくりあげた世界にもっと影響されてもいいのに、という憤りがすごくあるんです。
上田 僕らが若い頃って、難しかったり分からなかったりするものはすごい、というイメージがあったじゃないですか。でも今は単に「分からないもの=駄目なもの」となっていますよね。
高橋 理解できないことに対して否定的ですね。いつからこのイメージが始まったのかなと思いますけれど。
上田 インターネットが大きいような気がしますね。
高橋 そうですね。下手にすべてを共有してしまったことの不味さがあるような気がします。「これってどういう気持ちだろう」と思っている時に、誰かの発言がバズっているのを見て「ああ、これってこういう感情なんだ」と納得して終わってしまう。感情表現がテンプレ化しちゃって、「悲しい」「辛い」というような端的な感想になってしまう。でも、その時の感情の中にはもっと複雑なものが入り交じっていたかもしれない。悲しいけれどグッと来ちゃったとか、辛いけれどエモいとか。そういう矛盾を捨ててしまって、一つの答えにたどり着いてしまうのはもったいないなと思います。
上田 『最愛の』の中でもWikipedia禁止、ググるの禁止、と言う登場人物が出てきますけど、答えらしきものを簡単に求めてはいけない。
高橋 ブランキー・ジェット・シティに『ライラック』という曲があります。ライラックがどんな花か知らないんだけれど、「赤くて五センチくらいの冬に咲く花」、って歌うんですが、これ、本当のライラックとは全然違うんです。ただ、僕はこの歌がすごく好きで、ベンジー(浅井健一)はやっぱりすごいなと思っています。
子供の頃、何か調べようと思って図書館まで歩いていく道すがら、その間に調べるものを想像するわけです。全くゼロのところから。スマホを持つようになってその時間がなくなった。すぐに検索して答えらしきものが出てしまう。それは果たして合理的なのか。AIにとっては合理的なのかもしれないけれど、人間にとってはおよそ非合理な話だなと僕は思っていて。想像することが欠如した世界には、人を殺せる言葉を平気で使うやつらが出てきてしまうんじゃないかなと思っているんです。
上田 最近、僕は昭和が気になっているんです。昭和の時代は検索がなかった。そして日本の最盛期は昭和なわけで、今、六十代や七十代の人たちは「昔はよかった」で終わることも可能だと思います。でも、我々の世代は終われない。これからも長く人生が続いていくし、さらに子供の世代、その次へと続いていくわけで。昭和の時代のよかったものを正当に受け継がなくてはいけないのかなと思っています。『最愛の』でいうと、黒石さんが昭和の人ですよね。黒石さんの世代とZ世代の間にいるのが我々の世代で、我々の振る舞いが重要なんじゃないかなと思ったりします。
高橋 単なるノスタルジーに終わるのではなく、ということですね。僕も最近YouTubeで、一九八〇年代の駅から商店街を通って歩いていく風景を撮ったホームビデオを見たりするんです。確かにこれあったなあ、と思いながら。「贈りものに たばこ」という看板のあるたばこ屋さんがあったりして、懐かしいというのではなく、この動画の中にあって、今は消えてしまった何かがあるんじゃないかなと思って見ています。
上田 一生さんが同窓会の幹事をやったのも、その流れなんじゃないですか。同窓会なんてやらなそうだから(笑)。
高橋 やらなそうだから、ちょっとやってみようと思って。同級生に会うと、その時の時代の匂いというか、あの時こうだったね、という記憶が思い出されます。今までは過去を振り返らずに突き進んできたんですけれど、ちょっと立ち止まってみようかなと思ったのがこのタイミングだったのかもしれません。
上田 めちゃくちゃ分かります。僕も最近、過去への関心があるので共感しますね。
高橋一生 (たかはし・いっせい )
俳優。1980年、東京生れ。ドラマ、映画、舞台など幅広く活躍。近年の主な出演作に、ドラマ「岸辺露伴は動かない」「恋せぬふたり」「雪国-SNOW COUNTRY-」「6秒間の軌跡~花火師・望月星太郎の憂鬱」、映画「スパイの妻」「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」、舞台NODA・MAP第26回公演「兎、波を走る」などがある。2020年、『天保十二年のシェイクスピア』にて第45回菊田一夫演劇賞、21年、NODA・MAP第24回公演 『フェイクスピア』にて第29回読売演劇大賞最優秀男優賞を受賞。22年、上田岳弘・白井晃と三人でつくりあげた舞台「2020」に出演した。
「タイパ」という言葉の衝撃
――過去との繫がりといえば、『最愛の』もまさにそうですね。三十八歳の男性が、中学生の頃から大学まで文通をしていた相手の手紙を読み直し、再び関わりを持つことになる。きっかけが手紙というのがまた、過去との結びつきを感じさせます。
上田 最近はもう、手紙を書くことってないですからね。
高橋 手紙どころかメモ書きもスマホですからね。でも紙に書くって大事だと思うんです。
というのは僕、iPadに入れた台本ではセリフを覚えられなかったんです。二〇一八年ぐらいから台本をPDFデータでもらうようにしているんですけれど、途端にセリフが入りづらくなりました。
PDFデータでもらうようにしたのは台本がかさばるから。大河ドラマで思い知ったんです。台本がどかっと届いて、一気に何話分ものリハーサルをやるので、十冊ぐらいの台本をスタジオに持って行くことになる。これは勘弁してほしいと思って。かさばらないようになったのはいいんですが、セリフが入りづらくて困りました。
この入りづらさは何だろうと不思議に思っていたのですが、ある広告の撮影をしている時にスタッフの方と話をしていたら、タブレットで絵を描く時に紙の感触で描けるフィルムがあるよと教えてくれたんです。それで僕もペーパーライクなフィルムを貼ってみたら、セリフがすごく入るようになりました。あまりに感動して知人の脳科学者に電話したら「脳が紙と認識し始めたんでしょう」と言うんです。僕らの脳はiPadをガラスと認識しているようなんです。自分が意識していない無意識の領域で。でも、ペーパーライクなタブレットは紙と認識できた。だから、以前の紙の台本と同じようにセリフが頭に入ってきた、と。
読書のほうも一度電子書籍に行きかけたのですが、文章が頭に入ってこないんですよ。やっぱり紙がいい。そういう意味でも、人が手で書いた手紙はすごく大事なものになっているような気がします。
上田 それに手紙は、書いて送った以上、コピーでもとっていない限り書き手側の手元には残らないんですよね。自分が書いたものを後で読み返せない。その摩訶不思議さがありますよね。
高橋 『最愛の』の中にも出てきましたね。
上田 確かにそうだなと、書いて気がついたんです。パソコンがない時代は、書いた手紙よりももらった手紙のことのほうを覚えていた。そこからして、世界の捉え方が変わっているはずなんです。送信ボックスに出したメールが残っているほうが便利だし合理的、都合がいいんですけど、そうじゃなかった時代にヒントがあるんじゃないかなと思います。
合理性を突き詰めていけば、生まれた瞬間に死ぬのが一番コスパがいいということになってしまうし。
高橋 ほんとうに、合理の果てではそこに行き着きますね。
上田 でもそうじゃないよね、と。
高橋 現代社会はコスパのほうに突き進みつつあるじゃないですか。この間、ある女優の方から「今の時代はタイパですよ」って言われて驚きました。僕、「タイバ」という言葉を知らなかったんです。「タイムパフォーマンス」の略だなんて。コストの次は時間か、そんなことまで考えるんだと思って衝撃でした。
そんな時代にはもはや『ライラック』は受け入れられないな、すごい世界になってきちゃったな、と。なのに、みんななんとなく合理の世界を受け入れているじゃないですか。その怖さは常に感じています。
上田 多数決以外の指標はないことになっていますからね。「九十五人がこう言っているけど、五人が違うと言っている、だから違うのかも」という揺り戻しの思考がなかなかなくなってきているような気がします。
僕たちは「血も涙もない的確な現代人」
――『最愛の』というタイトルは、主人公がかつて文通していた相手の手紙の書き出しが、いつも「最愛の」だったというところから来ています。この「最愛の」の後が空白で、何が続くんだろう、なぜ空白なんだろう、と考えさせる。どこからこの発想が出てきたのでしょうか。
上田 「最愛の」の後の空白を追求する作品にしたいなというのは、最初からありました。「最愛の」と言われたら、続く言葉は何だろう。作中でも書きましたが、自分以外の人間を本当に愛せるのかという議論を思い浮かべながら書いていました。誰かを好きということは、自分にとって都合がいいから好きなのか、人間は自分以外を真に愛することができるのか、と考えながら。
今の若い人は恋愛に憧れを抱いているようにも重視しているようにも見えないし、実際、恋愛はコスパもタイパも悪い。そもそも恋愛感情は自分の中にしか存在しない勘違いなんじゃないか、という疑いがコアの部分にあると思っているんですよ。
情報化社会では、すべてがメタ視点になってしまうので、勘違いから生まれる恋愛感情が生き残りにくい。勘違いしたままでは生存できないというか、勘違いが簡単に砕かれてしまってなくなってしまうというか。恋の勘違いがなくなってしまった後に、「最愛の」だと思っていたもののその雰囲気だけがうっすらと残っているのが、今の社会の実相に見えたんです。だから逆に『最愛の』というタイトルをぽんと出したら、現代人に響くものがあるんじゃないだろうか、と。
高橋 さっきの紙の話の続きですが、『最愛の』は、物への手触りみたいなものを改めて考えるきっかけになりそうな気がします。手紙の紙の質感とかペンの握りとか、そういうものをもう一回思い出してみませんかという作品だと思うんです。それってすごく大事なこと。スマホやタブレットに比べたら非合理かもしれないけれど、手触りがあるからこそ思い出せる記憶がある。それに気づかせてくれる小説は大事だなと思います。
――主人公の久島と坂城(さかき)、四十近い男同士が、コワーキングスペースで何となく知り合う場面も印象的でした。ふと出会って交流し、いつしか自然に会わなくなる関係。こういう偶然の出会いがさりげなく描かれていることが新鮮でした。
上田 わざとらしくなく、だらっと知り合ったという感じが書きたかったんです。
高橋 すごく自然でした、あの出会い方。その後、仕事でたまたま再会してしまう奇妙さも。
上田 僕が一生さんのお宅にお邪魔した時、お酒もないまま八時間ぐらいしゃべりましたよね。コロナ前のことですけど。学生っぽかったですね、あの付き合い方は。
高橋 そうでした、僕はキッチンで御飯をつくりながら話をして。
上田 内容はもう覚えてないけど(笑)。
高橋 覚えてないですね。でも、ああいう時間が大事だと思います。
上田 そういえば、先ほどの合理性の話に少し戻りますが、『最愛の』で「血も涙もない的確な現代人」というワードを出しました。連載が始まる前の準備稿の段階から、自分も含めた現代人を指す、キャッチーな、どきっとする形容が一つ欲しいなと思っていて。考えに考えて、あの言葉がでてきた。そうあらねばならないという空気をふわっと感じていませんか、ということも読者に問いかけたかったので。
高橋 本当に僕たちは「血も涙もない的確な現代人」ですね。本人はそうなったつもりはないんです。でも誰だって、誰かにとっては血も涙もない的確な現代人だと思う。
なぜかというと、たぶんネットを通しているからなんですよ。コロナで対面する機会が減ったじゃないですか。ネットを通すことによってどんな人でも血も涙もなく見えてしまうんです。コンピューティングシステムを介在させることで。
たとえば仕事のキャンセルもそうです。面と向かって言われるのと、ネットを通して言われるのでは受け取り方が全然違う。対面で、「実はこういうことがあって、こういう流れでなくなってしまったんです」と話をされたらある程度納得できるけれど、「なくなりました」とだけオンラインで言われたら「へえ、あんたはそれでいいんだ」と僕は思ってしまいます。
上田 謝罪は取りあえず面と向かって、みたいな常識があるじゃないですか。でも、それすらもコロナで吹っ飛んじゃったというのはありますね。
高橋 Zoom会議でも、ネットの回線の遅れで止まってしまっている顔とか、やけに冷酷に見えるじゃないですか。顔の質感が感じられないなと思いながら話が進んでいく。会いに行く時間が必要ないから効率がいいと言われますが、意思の疎通が不十分になりがちな分、かえって効率が悪いような気がします。
上田 ああいうのは「タイパの神」みたいな感じがしますよね。タイパという本尊があって、それに与する場合、血も涙もない的確な現代人にならざるを得ない。
高橋 そう。ならざるを得ない。人に会いに行く時の緊張感とか、道路を踏みしめる感じとか、こういう街に住んでいるんだなと体感するとか。えらく寒かったなとか、そこで出されて飲んだ温かい飲物の味とか、そういうものはしっかりと脳に記録されると思うんです。
――『最愛の』の中で、古い家が出てきて、最初は家具を入れ替えてきれいにする予定だったけれど、そのままにしたというエピソードを思い出しました。
上田 何でも新しくきれいにしようとして、いろんなものを切っていった果てに何が残るんだろうかと思います。
高橋 陰謀論でも何でもなく、放っておくと僕たちはどんどん管理されていくんですよ。けれど一方で、能天気に「そんな心配ないよ」と言う人もいる。そういう人たちを見ていると、人間って考える力や繊細さを失っていくものなんだと不安になりますね。
上田 感じないことが幸せ、ということなのかもしれません。心配するだけで不幸になるような人もいますから。
お芝居への執着がなくなった
――お二人はまた一緒に演劇をやりたいというお気持ちはありますか。
高橋 上田さんがやりたいとおっしゃるなら。
上田 やりましょう。次は一人舞台ではなく、何人か出したいですね。
高橋 じゃあ、それで行きましょうか。でも、あの三人の感じ、僕、すごく好きだったんです。
上田 確かに。思いつくまま言いますけど、ゴリラの話とかを話し合いの中でポッと出せたのが、すごくよかったなと創作者として思っています。ああいうのを取っかかりとして、まだまだやれることがあると思いましたね。
――上田さんにお聞きしたいのですが、自分が書いた言葉を高橋さんが身体と声で演じてかたちにするということに対して、発見や刺激はありましたか。
上田 小説では一方的にこういう表現がしたいということを書いていて、読者がそれを読んでくれるのはうれしいのですが、演劇は一人でできるものではないじゃないですか。密なやり取りの中で最終的に固まっていく演劇は、文字で書かれただけの小説や戯曲の枠を超えた、別の営みのような気がしています。
一生さんが演じるのを見て、語尾を変えたほうがいいとか、ここでセリフはいらないとか。そういう議論ができることが、僕にとっては新しい創作の場でした。
高橋 自分で舞台に立ちたいとは思わないですか。
上田 全然思わないです(笑)。
高橋 そうですよね、あの稽古場で僕を見ていたらさすがに思わないでしょうね。僕もやりたくないですもん。
上田 一生さんは書いてみたいとは思いませんか。
高橋 思わないですね。自分が何かを発信しようという感覚がないかもしれません。脚本家のチームの中の一人として入るのであればやってみたいですけれど。チームとしてコラボレーションをしていくことには可能性があると思うので。
上田 おそらくこれからは演劇も映画もドラマも、そういうやり方も増えてくるんじゃないでしょうか。
高橋 そうですね。僕は『2020』で演じたGL(Genius lul-lul)という存在から、お芝居に関して相当影響を受けていると思います。上田さんが僕をイメージしてつくってくださった虚構の存在・GLがあり、次に僕が逆輸入的に舞台でGLになるという面白さみたいなものがあって、感動しながらやっていた記憶があります。
上田 僕からも聞きたいんですが、一生さんと前に対談したのは四、五年ぐらい前ですけど、あの時から、心境の変化というか、お仕事に対しての気持ちで変わった部分はありますか。
高橋 つい最近言語化できるようになったのは、たぶん僕自身は、今までお芝居に関して強い執着があったと思うんですが、それがなくなったということです。
お芝居をやりたいのは変わらないんです。熱量はある。でも、お芝居で自己実現しようという欲がなくなってしまいました。あれは執着だったんだ、と思えるようになってきたかもしれない。それはここ最近の発見でした。
上田 執着の発生源は何ですか。
高橋 こういう役がやりたい、こういう作品に出たいという欲ですね。執着がなくなると、作品に対する思いだけでモチベーションを維持できるようになったんです。「作品のためにならないから、こうしたほうがいいですよ」とはっきり言えるようになってきた。より純粋に明確に言えるようになってきたのは、執着がなくなってきたからかもしれないです。
上田 それは大きな変化ですね。
『最愛の』を演じる自分が想像できる
高橋 上田さんは何か心境の変化がありましたか。
上田 作家になって十年間、『キュー』までは自分が書きたいものが第一優先だったんです。読者が分からないと思っても構わない。こういうものを書きたい、こういう作品が世界にあってほしいというモチベーションで書いてきました。でも、十年たって、これはきちんと読者に分かってほしいというモチベーションが生まれてきました。
それもあって、『最愛の』に関してはあまり文学を読んできていない人、基本的にはエンタメ小説は読むという人、あるいは中学生、高校生ぐらいでも読んでもらえるように工夫したいと思ってました。作家として十年間でつちかったものをもとに、なるべく広く読んでもらえる小説を書いてみたいなと初めて思ったんです。
高橋 僕と上田さんとは逆ルートを通っていますね。上田さんは読んでくれる人のことも考えて書きたいとおっしゃっていますけれど、僕はその逆で、より文学的に、自分の好きな方向に行き始めているのかもしれません。
――主人公の久島に自分を投影しながらお読みになったとおっしゃっていましたが、俳優として演じてみたいですか。
高橋 やってみたいと思わなかったら、自分を投影して読めないですね。小説を読み始めて、「これ、違う」と思った瞬間に距離を持って読んでしまいます。そういう癖がついているんです。
台本を読む時も、最初に読んだ時点で、何か自分の中の近いものに触れたり、腑に落ちたりした時は一気に没入できるんですけれど、それがない場合は、そういうものとして読むしかなくて。それもほとんどファースト・インプレッションのままで最後まで変わらない。もうちょっと役柄に歩み寄ってみよう、というのは無理なんです。
ただ、『最愛の』を含めて、上田さんの書かれる本は大体自分ごとだと思って読んでいます。『最愛の』でいえばコワーキングスペースにいる自分が自然に想像できますね。
――久島がとある人物に会いに行く『最愛の』のラストシーンは、ハッピーエンドだと思われましたか。
高橋 いつどこでどんな状況で読んだかで解釈が変わるような気がします。それも含めて終わり方としてはすばらしかったと思います。それは読者にゆだねることができているという意味で。
上田 最後の部分は何度も書き直しました。一番大変でしたね。会えたほうがいいのか悪いのかもよく分からなくて、いろいろやってみて、結果、これだな、と思えるラストシーンになりました。
高橋 久島と彼女が同じ世界線に存在するのかすらも曖昧にしていくのは、ある種究極の答えなんじゃないかなと思いました。とてもすてきだったと思います。
やっぱり「想像」なんです。自分が会うまでの間で想像しているものが膨れ上がっていると、会えたとしても、実は会えていなかったりするものじゃないですか。逆もまたその通りで。物事をすごく大事にしている終わり方だなと思いました。事象すべてを大事にしていないと、あの終わり方はできないなと。
――高橋さんは、上田さんのこんな作品をお読みになりたいというリクエストがありますか。
高橋 いや、もう上田さんの好きなように書いていただきたいですね。僕が望むことなんて大したことはなくて、自分の想像外からやってくるもののほうが自分が必要なものだったりするので。
上田さんとは年代も近いですし、感性としても近しい部分が多々あると思うので、上田さんが思うがままに書き連ねていってほしい。それは、『最愛の』の読了後にも思いました。上田さん、このまま書いていってください。僕に言えるのはそれだけです。
(2023.10.2 神保町にて)
「すばる」2023年12月号転載