武藤敬司の全日本移籍時、新日本の社長だった藤波辰爾が明かす「驚きはなかった」本音。プロレス愛を貫いた「天才」の引退にメッセージを贈った
藤波辰爾が語る武藤敬司(5)
社長から見た全日本への移籍と引退への思い
(連載4:武藤敬司が郄田延彦に繰り出したドラゴンスクリュー。それを見た藤波辰爾は「技の入り方が違う」>>)
2月21日に東京ドームで引退する武藤敬司は、1984年10月5日のデビューからの38年4カ月で新日本、全日本プロレス、WRESTLE−1、プロレスリング・ノアを渡り歩いた。さらに、化身のグレート・ムタとして米国でヒールを極め、「武藤」と「ムタ」ともに頂点に君臨した。
1990年代、手を合わせる(左から)武藤敬司、藤波辰爾、アントニオ猪木、長州力
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武藤は2002年1月、新日本プロレスを離脱して全日本プロレスへの移籍を決断した。当時の全日本は、1999年1月31日に創始者で社長だったジャイアント馬場が61歳で急逝。三沢光晴が新社長に就任したが、馬場の妻でオーナーの元子夫人と対立し、2000年6月に三沢をはじめとした大量の選手、社員が離脱して新団体「プロレスリング・ノア」を旗揚げした。
全日本に残った主力選手は、川田利明と渕正信のふたりだけになった。社長に就任した元子夫人は窮地を脱するため、新日本との対抗戦を決断。両団体が交わるなかで、武藤は全日本に助っ人参戦した。
元子夫人は、そんな武藤のスター性にほれ込み、団体の最高峰である「三冠ヘビー級王座」と「世界タッグ王座」を託す。事実上のエースとしてもてなされた武藤は、全日本へと急速に心が傾いていった。
一方で新日本は、筆頭株主でオーナーだったアントニオ猪木が、所属選手を格闘技イベントに参戦させるなど"格闘技路線"を強行した。純粋なプロレスを極めたい武藤は、猪木が推進する方向性に疑問を持ち、入門から18年在籍した新日本との決別を決める。新日本を代表するトップレスラーの離脱は衝撃的事件として報道され、ファンはショックを受けた。【武藤の移籍に「驚かなかった」理由】
武藤が全日本へと移籍した当時、新日本の社長だったのが藤波だった。あれから21年を経て、こう振り返る。
「(当時、新日本の会長だった)坂口征二さんは、武藤が結婚した時に仲人を務めたくらい目をかけていたから、武藤が辞めた時は"縁を切られた"という感じで怒っていました。だけど、僕は坂口さんほどの怒りはなかったです」
それは、新日本には長州力や前田日明ら、スター選手が何人も離脱した歴史があったからだった。
「新日本は長州や前田など、何人も辞めた選手がいたから、変な話ですが僕には免疫があったんです。しかも武藤は、性格的に自由を求める部分があることを僕はわかっていたから、彼が離脱することにそれほどの驚きはなかったですね」
ただ、新日本は2000年秋に橋本真也が離脱し、続いて武藤が全日本へ移籍したことで、1990年代を支えた「闘魂三銃士」のふたりを失ったことになる。興行的には大打撃を受けただろうが、社長として複雑な思いはなかったのだろうか。
「確かに社長として責任を感じました。ただ、繰り返しになりますが、過去に多くのレスラーたちが辞めた歴史があるから、『プロレス界は常にこういうことがある』と腹を括っていたところがありました」
しかも武藤は、全日本への移籍の際に小島聡、ケンドー・カシンらスター選手だけでなく、複数のフロント社員も引き抜く形で離脱した。その中には経理部門の幹部もおり、新日本は会社の生命線である"金庫番"を持っていかれたのだ。それでも藤波は、選手だけでなく複数の社員が退社したことも冷静に受け止めていた。
「経理担当の社員には、『新日本を株式上場したい』という夢があったんです。その目標に向かって、僕とも何度も話し合いを重ねて、一時はいい方向になっていた。ところが土壇場でその目標は白紙になってしまい、新日本でのやりがいを失ってしまったんです。ですから、辞める時は慰留しましたが、『やむを得ない』と受け止めていました」
全日本へ移籍した武藤は2002年秋に社長に就任し、名実ともに団体のトップに立った。以来、藤波と武藤はリング内外で長らく交わることはなかったが、藤波が2013年1月26日の大田区総合体育館で全日本に初参戦。そこで接点が生まれ、藤波が主宰する「ドラディション」、武藤が主宰した「マスターズ」などで対戦、あるいはタッグを組むなど絆は復活した。
「このプロレス界というのは不思議な世界で、仲違いした選手でも、どこかに接点ができると再び交わる。しかも武藤は、どこか人を惹きつける引力を持っています。彼の性格が為せる業なのかもしれないんですが、不思議な魅力を持っているレスラーなんです」
それから月日は流れ、2023年2月21日、東京ドームで武藤は引退する。藤波は去りゆく後輩をこう評した。
「彼は天才ですよ。プロレスの申し子。プロレスをやるために生まれてきたような男です。その原動力は、"プロレスが好き"ということ。彼は、私生活でもプロレスのことばかり考えている。それは僕も同じです。何を犠牲にしてもリングに上がり、ファンに対してインパクトを残したいと常に考えていると思うんです。
だから僕は断言します。2月21日、東京ドームで武藤はムーンサルトプレスをやる。自分を犠牲にしてでも、絶対にやる。それがレスラーなんです」
2018年3月、両膝に人工関節を入れた武藤は、主治医から「ムーンサルトプレス」の使用禁止を通告されている。しかし藤波は、武藤の「レスラーの性」が最後にトップロープから舞わせると予告した。
最後に藤波は、武藤にこんな言葉を贈った。
「辞めてもずっと、プロレスは好きでいてくれよ」
(完)
【プロフィール】
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ)
1953年12月28日生まれ、大分県出身。1970年6月に日本プロレスに入門。1971年5月にデビューを果たす。1999年6月、新日本プロレスの代表取締役社長に就任。2006年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げする(2008年1月、同団体名を『ドラディション』へと変更)。2015年3月、WWE名誉殿堂『ホール・オブ・フェーム』入りを果たす。