「2カ月後に死のうと…」親ガチャ苦悩の女性がそれでも生きる理由

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「私、来年2月に死のうと思っていたんですよ。その月で母が還暦になるので、『どうせなら死んで、復讐してやる』と考えたんです。今が12月だから、ほんとだったら後2ヵ月の命……。でも、いまは前向きに生きようという気持ちです」

こう話すのは、地方都市に住む32歳の女性・Jさんだ。

今年、『親ガチャ』という言葉が流行した。ガチャガチャで出てくるアイテムのように、「子供は自分で親を選ぶことができない」という意味で、ネットを中心に広がり、今年の『流行語大賞』にもノミネートされた。

そして、Jさんもそんな親ガチャによって人生を左右された子供の一人。その原因は母親だった。

「母は大手の保険会社で働いている“キャリアウーマン”。外面はいいのですが、家庭では正反対に高圧的で。父の月収を超えていた時期には、『あなたは何をやってもダメ』『私ひとりでもやっていける』といった言葉をぶつけていました」

夫婦はJさんが11歳のときに離婚。すると母の“ターゲット”はJさんに変わった。

「とにかく私を束縛するようになりました。『全部自分の思い通りにさせたい』って感じで。気に食わないとすぐビンタされましたし。私に気に入らないことがあると、すぐに怒鳴るし……。母の機嫌を損ねないよう、顔色を見ながら生きていました。

実は頭を壁にぶつけられたこともあるんです。友達の家で遊んでいたときに熱が出てヘロヘロになりながら家に帰ったら、門限の7時を超えていて。それが気に食わなかったそうで、理由も聞かずに頭をつかんで『ガン!』って」

■母の彼氏と突然の同居、母のリストカット

また「『お父さんにそっくり』っていつも言うんです。母としては嫌味なのでしょうが、私は父のことが好きなので苦しかった」と話すJさん。そして、中学生になると“新たな同居人”が現れた。

「母に新しい彼氏ができて、いつの間にか一緒に住むようになりました。母からは何の説明もなし。思春期に知らない男性が家にいるのは本当に苦痛で、しかもその人、家事を全然しないんです。ご飯を食べたらそのまんまで、寝転がってテレビを観ていました。だから私が食器を片付けて洗って。自分の家だけど、人の家みたいな居心地の悪さがありました」

のちに母は恋人と別れることとなり、再び2人暮らしに。そこで事件が起こる。Jさんの目の前で、母がリストカットをしたのだ。

「私は小学生の頃からリストカットをしていたのですが、中2のときに母にそれがバレたんです。すると母は『あなたが切るなら私も切る!』と言って、目の前でバッサリ……。切る意味がわからないんですけど(笑)。

母は傷が治るとケロっとして、普通に社会生活を送っていました。でも、私はその光景がトラウマになって、高校生になってもフラッシュバックに悩まされていました」

Jさんは高校を卒業したあと、就職に失敗。そして、フリーターになった。経済的な苦しさから母と同居していたが、Jさんの帰りが遅いと母は彼女の携帯に『今から死にます』といった留守電を残して、追い詰めたという。そうした行為に耐えられなくなり、22歳で家を出ることに。しかし、逃れられなかった。

「母が夢に出てくるんです。飛び起きたら、汗びしょびしょで心臓もバクバク。涙も止まらなくなったり。それでメンタルクリニックに行ったら、『あなたの性格の問題じゃないですか?』って言われて……。傷つくのが嫌なので、それ以来行っていません。自分の心がおかしいのに、どうしたらいいのかわからない。ずっと泣いている時期もありました」

■還暦のあてつけに死ぬことを決心

そんななか、Jさんは28歳で再び実家に戻ることに。キッカケは“猫”だった。

「飼っていた猫が病気になったんです。弱っていく姿を見て、私もどんどん落ち込んで……。こういう状態では働くこともままならない。でも、頼れるひともいない。それで、母に『帰ろうかな』と言ってしまいました」

さらにJさんは母の誘いもあり、同じ職場で働くことに。「長年フリーターとして働いていた会社で社員になるにしても、“ブラックな面”が目に付くようになりました。母の勤務先である保険会社は大手で安定しているので、『そこで社員を目指そう』とも考えていました」という。

とはいえ、公私ともに母と過ごす時間が増えることになるのはわかっていたはず。躊躇はなかったのだろうか?

「“母とべったりな状態”を不思議がる人もいるかもしれません。でも『この親と一生関わらなくちゃいけないんだ』と諦めていました。離れて暮らしても、夢に出てくるくらいですから。子供の頃から母を中心にして生きてきたので、ぜんぶ受け入れてしまうんです」

そして、Jさんは「諦めたのがよくなかった。それからは地獄の四年間でした」と続けた。「言葉の暴力は日常茶飯事で、もう覚えていないです」といい、さらに母は離れて暮らす6年間で“パワーアップ”。例えば猛烈に、見返りを求めるようになったという。

「『今日は母の日だね。何もないの?』ってわざわざ言ってくるんです。サプライズで渡したかったので、事情を説明したのに『ありがとうの気持ちはないの?』と言われました。いっぽう誕生日に壁掛け時計をあげたら、振り子が揺れる様子を見て『ゴキブリが走っているみたい』って(笑)。

普通プレゼントって“あげたいからあげるもの”じゃないですか。『喜んでくれるかな』とか考えますよね。でも私は、母がヘソを曲げないためにあげる。エサみたいなもんです」

そして同居生活を続けるうちに、ますますJさんは精神的に弱っていく。「服を買うときや髪を切るとき、ふと母の姿がよぎるんです。『こういう格好をして何か言われないかな』と。遊びにいっても、『帰ったらなじられそう』と思って苦しくなる」といつも“母の影”に怯えていたとも明かす

それでも母とは離れられないという“諦め”ーー。追い詰められていった結果、Jさんは冒頭のように「母の還暦に死ぬこと」を決意する。

「これまで『ママは、自分のお母さんの還暦にこんなことをしてあげたのよ』という話を散々聞かされていました。でも私には、母に対して『何かしてあげたい』という気持ちが一切ない。めでたいこととも思えないし、『いっそ、あてつけに死のう』と本気で考えていました」

■家をでると告げると「あなたは最低な人間」と罵倒される

そんななか今年8月、再び事件が起こる。

「母の帰りが遅くなる日に、『今夜の晩御飯はざるそばで』との連絡があったんです。その後、『10分で家に着くから』って来て。それで茹でて用意してあげていたんですが、帰ってきた途端、『そばの気分じゃないし』となぜかなじられて。

どう話しても『いらない』の一点張り。しかも、私の目の前で別のものを食べ始めたんです。さすがに怒りやら混乱やらで、もう気持ちがぐちゃぐちゃになって……」

その1年前にも、同様のことがあったというJさん。とっさに家を飛び出して、ホテルに泊まった。涙が止まらなかった。しかし、ここで転機が訪れる。

「友だちに『しんどすぎて死にたい』と電話しました。すると、その子の知り合いにも私みたいに“親ガチャ”で人生が左右された上に早くして亡くなった方がいるそうです。

でも、友だちいわく『その親は“子供に死なれた可哀想な親”を強調するようになった。子供のことなんて何にも思っていないんだよ。だから、死んだところで復讐にはならないんじゃないかな』って言われて……。涙でぐしょぐしょになりながらも、『それじゃ死に損だ!』って(笑)」

そしてJさんはその日のうちに部屋を探し、翌日に内覧。即日で家を決め、数日の間は友人の家で宿泊。その後、母のもとへと戻った。「家を出たい」と伝えると、「そんな気がしていた」と母は言ったという。

「意外とすんなり受け入れられたから、『もう家も決めています』と話してみたら豹変。『何それ! タイミングが違う!』と激高されました。そのあと夜7時から夜中2時まで、7時間かけて説得しました。何を言ったか、私も覚えていないんですよ。

新しい家に移るまでの1ヵ月間、『あなたは最低な人間』と罵倒され続けました。あと母がベランダで急に笑い出したかと思うと、よくわからない言葉を叫んだり。でもある日、『あなたが家を出るまで仲良く過ごそうね』ってLINEが来たり。『怖〜!』って(笑)」

紆余曲折ありながらも、無事家を出ることができたJさん。「経済的に今は苦しいです。でも、精神面はすごくラクになりました」といい、こう続ける。

「母と同居していたときは、とにかく自分の気持ちで精いっぱいでした。でも今は、気持ちが少し落ち着いてきました。

還暦の当てつけに死のうと思っていたけど、今では『なんで私が死ななくちゃいけないんだ』と思います。実はいま転職も考えているんですよ。母には、『自分の人生を生きているので、もう放っておいてください』と言いたいです」