「死んでほしい」とまで願った、薬物依存症の母の涙が導いた“刑務所の医師”という道
身体中、注射痕だらけの母親と何十年も必死で向き合ってきた。だが、限界を迎えたとき「死んでほしい」と願う自分がいた。それでも、母親が孤独死した後、自身のクリニックを閉めてまで選んだのは、刑務所で「依存症」と向き合う仕事。母親が1度だけ流した涙の意味を悟った今なら、「救える」と信じて──。
【写真】結婚式当日、父親に寄り添うドレス姿のおおたわさんと、少し離れた距離に立つ母親
怖いと思ったことは1度もない
情報番組のコメンテーターとしてもおなじみの、内科医・おおたわ史絵さん(56)には、週に2〜3日、朝早くから向かう場所がある。
「以前は電車を使っていたけど、今はコロナの影響で、感染予防のために自分の車で通勤してます。刑務所は集団行動が基本なので、クラスターを出さないように」
おおたわさんが勤務するのは、東京近郊の刑務所と少年院。2018年6月から、非常勤医師として、刑務所などの矯正施設で受刑者の診察・健康管理を行う矯正医療に従事している。
「入ります!」
午前9時、刑務所内の診察室の入り口。男性受刑者が直立不動で宣言し、おおたわさんの前に座る。
壁には『交談禁止』の文字が貼られ、受刑者の足元には、ここから出ないよう、黄色の線が引かれている。看護師資格を持った刑務官も立ち合い、物々しい雰囲気だ。
「血圧、測ろうね。寒いと高く出ちゃうんだよね」
おおたわさんが気さくに話しかけると、張り詰めた空気が和む。
「うん、問題ないね。心臓の音も聞いておこうね。ちょっと冷やっとするよ」
その光景は、一般の診察と何ら変わりはない。診察を終えた受刑者が、安堵(あんど)する姿も同じだ。
「犯罪者と接するのは怖くないかとよく聞かれますが、怖いと思ったことは1度もありません。刑務官が立ち会うし、そもそも刑務所に入った時点で、彼らは銃も刃物も持ってないですからね」
おおたわさんが勤務する刑務所の受刑者は約1300人。医療が必要と判断された受刑者は、内科、外科、整形外科など各科に分かれて受診する。受刑者の高齢化が進んでいることもあり、その数、一日に100人ほどだという。
「矯正医療は国の税金で賄われているので、潤沢な薬はないし、受けられる検査も限られています。制限がある中で、なんとか彼らを刑務作業ができる体調に戻す。それが私たちの役目です」
医師として最先端の治療ができないもどかしさはある。それでも矯正医療に踏み込んだのは、多くの犯罪の裏に、“依存症”が潜んでいることを知ったからだ。
弱い立場の人に寄り添える
「受刑者の過半数は、違法薬物と窃盗による犯罪です。麻薬や覚せい剤による薬物依存はすぐに想像できるけど、窃盗もクレプトマニア(=窃盗癖)という依存症が関係している場合があります。薬物や酒を買うために窃盗を繰り返し、あげくに家族や周囲に暴力をふるうこともある。犯罪と依存症は表裏一体なんです」
受刑者の矯正医療にかかわることは、依存症と向き合うことにつながる。その思いが、おおたわさんを突き動かした。
『情報ライブ ミヤネ屋』で共演していた、読売テレビの春川正明さん(59)が話す。
「彼女がこの仕事を始める前、テレビ局で相談を受けました。法務省の矯正医療について知りたいと。私自身、取材経験があったので、報酬が少なく、過酷な医療で、なり手が少ないことを率直に話しました」
それでも、春川さんは「やってみては」と背中を押した。
番組内でのおおたわさんのコメントを鑑(かんが)み、「向いている」と直感したからだ。
「例えば、芸能人が違法薬物で逮捕されたときも、彼女はいっさい非難せず、治療法や、回復に必要な道筋をコメントしていました。弱い立場の人に寄り添えるっていうのかな。適任だと思えたんです。なぜ、それができるのか、今回、お母様のことを著書で知って、なるほどと思いました」
今年9月、『母を捨てるということ』(朝日新聞社刊)を出版。薬物依存症の母親との凄絶(せいぜつ)な日々を赤裸々に綴(つづ)り、大きな反響を呼んでいる。
おおたわさんが話す。
「初めて刑務所を見学して、依存症の話が出たとき、1を聞いて10を理解できたというか。母との経験があったからですね。私にもできるかもしれないと思ったんです」
1964年、東京の下町、葛飾区で開業医のひとり娘として生まれ育った。
「私はファザコンです。スーパーファザコンかな(笑)」
広島出身の父親は、早くに両親を亡くし、貧しい中、医師を志した苦労人。
おおたわさんが生まれる前年に、自宅兼、診療所を開院してからは、深夜でも急患があれば往診かばんを抱えて飛び出していくほど、献身的に地域医療に取り組んでいた。
一方、元看護師の母親は、父親とは対照的に、自宅にこもりがちだったという。
「母は頭痛や腹痛もちで、鎮静剤を飲んでは寝ている時間が多かったんです。起こすと機嫌が悪くなるので、そっと寝顔を見ていたものです」
幼稚園の弁当作りも、「おかえり」と迎えてくれるのも、通いの家政婦だった。それでも、「ママは、身体が弱いから」、おおたわさんは自分に言い聞かせていた。
母は生きるのがすごく下手だった
ところが、病弱だった母親は、小学校のお受験を境に、教育ママへと豹変(ひょうへん)する。
「お受験とは縁がない、長野の山奥で育った母親が、私を有名小学校に入れるために目の色を変えたのは、親戚への意地もあったと思います」
両親が出会った当時、父親には妻子がいて、母親は今でいう奪略婚をした。
「時代が違いますから、父方の親戚の風当たりは相当厳しかったようです。母は負い目を払拭(ふっしょく)するために、私を優秀な学校に入れ、医者にする必要があったんです」
ピアノ、バイオリン、英会話、お稽古事をかけもちさせ、勉強もつききりで教えた。
国立の名門、筑波大学附属小学校に合格してからも、母親の教育熱は、冷めるどころかエスカレートしていった。
「ピアノの練習では、1か所でも間違えるとイスから叩き落とされました。怖いから手が震え、また間違えてはたたかれる。その繰り返し」
勉強においてはさらに過熱し、計算ドリルのノルマは毎日課せられ、母親はストップウオッチを片手に張りついた。
「制限時間内に終わらないと激怒され、教科書やコーヒーカップが飛んできました。石の灰皿が額を直撃して血が出たり、お仕置きと称して、タバコの火を手に近づけられたこともありましたね」
淡々と話すが、これは虐待ではないか。そう水を向けると、おおたわさんは否定した。
「こういう話をすると、虐待とか毒母って言われちゃうんだけど、私はそうは思ってないの。過激な教育ママはごまんといるし。それより伝えたかったのは、母の性格です。怒ると歯止めがきかなくなる極端な性格で、生きるのがすごく下手だった。だから、依存症になってしまった」
そこまで話すと、力なく笑って言葉を足す。
「母親が教育ママってことより、依存症ってことのほうがずっとレアで、そこからの闘いのほうが、何十倍、何百倍もつらかったからね」
始まりは、痛み止めに処方された1本の注射だった。
「母は子ども時代に虫垂炎をこじらせて、大人になってからも、よく腹痛を訴えていました。そのたびに、父が痛み止めの薬や注射を処方していたんだけど、じきに効かなくなって、処方されたのが注射製剤、オピオイド。これが、すごく効いたんです」
以来、腹痛を訴えるたびに同じ注射が打たれ、使用頻度は徐々に増えていった。
「昼夜関係なく、『お腹が痛い』と注射をせびり、打つと、母親の表情は和らぎました。この薬がもたらす恍惚感からきているとは、医師である父ですら気づかなかったんです」
いつも服の肩のところを血で汚していた
毎日のように痛みを訴える母親に、父親は「そんなに打つもんじゃない」とたしなめたが、聞く耳を持たず。
当時、中学生だったおおたわさんにまで「打って」とせがんできたという。
「母親が注射器を持って、娘の部屋に入ってくること自体、異様ですよね。もちろん断りましたが、もう母は歯止めがきかなくなっていたんですね。じきに、診療所から勝手に薬を持ち出しては、自分で打つようになっていました」
元看護師の母親は、注射器の扱いも慣れていたのだろう。
たちまち事態は悪化した。気づけば、使い終わった注射器や薬剤のアンプルが、部屋に散乱するようになっていた。
「身だしなみにも気を遣わなくなり、いつも服の肩のところを血で汚していました。あれだけ教育熱心だったのに、私が高校生になるころには、勉強のこともほとんど言わなくなりましたね」
注射を打ちすぎて皮膚はケロイド状になり、腕に打てなくなると今度は太ももに打つようになった。
家族が何度止めても、隠れて打つ。イタチごっこを繰り返しつつも、母親が使用している薬物が合法の鎮痛剤だったことが救いだった。
ところが後に、おおたわさんは事の深刻さを知ることになる。
東京女子医科大学に入学後、授業の一環で病院実習を体験したときのこと。ナースステーションで、勝手に持ち出せないよう厳重管理されている薬剤の中に、母親の薬を見つけたのだ。
「まさかの思いで実習担当のドクターに聞くと、オピオイドは麻薬によく似た化合物で鎮静効果が高く、そのぶん習慣性も強い。使うと多幸感があるので依存症になる人が、あとを絶たないと。目の前が真っ暗になりました。思えば、それからが本当の闘いの始まりだったんです」
父親が事の重大さを知り、薬を取り上げると、母親は薬物への執着をあらわにした。
「父や私が正論で説得しても、まったく太刀打ちできない。四六時中、母に激怒されたり、泣き落としをされて、父がしぶしぶ薬を出してしまうこともありました」
苦肉の策で、母親を精神科の隔離病棟に入院させたこともあった。しかし、当時は依存症の治療そのものが確立されていない時代。断薬は一時しのぎにすぎず、退院すれば元の木阿弥(もくあみ)だった。
「『薬、やめる』っていう母の言葉を信じては、注射を打つ姿に裏切られる、その繰り返しでしたね。不毛なやりとりに疲れ果て、頭がおかしくなりそうだった」
精神的なストレスは、限界まできていた。
おおたわさんは医学部を卒業後、研修医として働き始めたのを機に、逃げるように家を出た。
楽天家の夫と築いた「居場所」
かつて中学時代、クラスメートと、「神様が願い事をかなえてくれるなら、何を頼む?」という他愛のない話をしたとき、迷いなく答えたという。
「心から安心できる場所が欲しい」と。
ようやくその場所を手に入れたのは、27歳のとき。同い年の歯科医師の男性と結婚してからだ。
「出会いは友人の紹介でした。当時、研修医として寝る間も惜しんで働いていたので、本当は誰かと会う時間があったら、部屋で寝ていたかったんですけどね」
とはいえ、年ごろの女性らしく、当日は気合を入れて向かったよう。
夫の大多和昌彦さん(56)がなつかしく振り返る。
「当時はバブルだったので、家内はオレンジ色のボディコン姿で来ました。疲れを隠すためなのか、バリバリにメイクもして(笑)。友人から、医者と聞いていたので地味な人かと思ったら、ずいぶん派手な人が来たなって」
互いに激務のため、デートもままならなかったが、3年後に結婚。決め手を問うと、昌彦さんは「うーん」と、しばし考え、口を開く。
「お互いに親の跡を継ぐっていう立場だから、環境が似ていたのかな。自然に話ができました。あとは家内に聞いてください。なんで僕を選んだのか。ふつう女医さんは、医者を選ぶもんですからね」
おおたわさんは、「私と真逆の人だから」と笑う。
「私はああいう環境で育ってきたので、ネガティブで、愚痴や不満が多い人間なんです。幸せを感じるのが下手っていうか。いつも不機嫌に暮らしてた。夫は真逆。仕事が私以上に忙しくても、愚痴ひとつ言わない。これ、我慢しているわけじゃないの。根っからの楽天家っていうか、チャラいっていうか(笑)」
陽気な夫は、母親と妻のパイプ役にもなっていたという。昌彦さんが話す。
「家の行事なんかで計画を立てるときも、家内とお義母(かあ)さんは直接話したがらないので、僕が間に入りました。2人はいろいろあったんだろうけど、深くは詮索しませんでした。家内が依存症のことで悩んでいても、何か言ってこない限りは見て見ぬふりです。専門家でもない僕が、いいアドバイスをできるわけでもないし、なんとかなるさ、と軽く言うくらいでしたね」
依存症の母という、重しを抱えているおおたわさんにとって、深刻さと無縁の夫は、何よりの救いだったという。
「たぶん一緒に考えてくれる人だと、重さに耐えきれなくて逃げ出しちゃうと思うんです。でも夫は、あの性格なので、深刻にならずに横にいてくれた。ひとつも無理せず、結果として私を支えてくれていたんです」
結婚して30年近く、いろいろあったが、「『離婚』という選択肢は、私の中にない」と断言する。
「ひとりで生きていくのが怖くて、誰かと一緒に生きていきたかったんです。私にとってはそれが結婚で、たかだか女遊びの1回や2回と引き換えに手放せるものではないんです。携帯電話を真っ二つに折るくらいはしましたけどね。逆に、簡単に離婚できる人がうらやましいですよ」
依存症の母と離れ、父娘で入院
30代になるころには、医師の仕事の傍ら、週刊誌の連載エッセイを皮切りに、メディアの仕事も始めた。
数年がたち、自分が思い描く人生が回り始めていた。その矢先だった。
「ママが暴力をふるうようになった」と父親からSOSが入った。
その日、おおたわさん父娘は、群馬県赤城高原にある依存症の医療施設に向かっていた。母親を見舞うため? いや、父娘が入院するためだった。
父親からSОSを受けたおおたわさんは、当時数少ない依存症の専門医を探し出し、母親のことを打ち明けた。
そこで、医師から告げられたのが、「家族の入院」の必要性だった。
「最初は、なぜ? と驚きましたが、長年、依存症に巻き込まれている私たち家族も、すでに病的な状態になっていると聞き、納得しました。そのころ母は、日に4回も5回も注射を打っていて、父が止めると殴りかかるほど暴力的になっていました。
父は四六時中、気が休まる間もないし、私も絶えず切羽詰まった状態にいた。私たちがまず、自分を取り戻す必要があったんです」
入院後は、自然に囲まれた環境で、毎日、家族ミーティングに参加。薬物、アルコール、ギャンブル、摂食障害など、さまざまな依存症患者の家族と情報交換をした。
「成功体験を参考にしたり、失敗談を聞いて、『うちもそうだ』と共感したり。いろいろなご家族と話をして、苦しんでいるのは私たちだけじゃないと思えたことが何よりの収穫でしたね」
2週間余りの入院生活を終えて帰宅後は、医師の指示に従って、『支え手』にならない環境づくりに取り組んだ。
「アルコール依存症の家族が、暴れる患者を持て余し、酒を買い与えてしまうように、わが家でも、薬の供給を断ち切れなかった。やめさせたいはずの家族が、結果として供給源になり、『支え手』になっていたわけです。この負の連鎖を断ち切らなくてはと」
父親は関係薬剤の仕入れを一切中止した。オピオイドが治療に必要な患者は、仲間の医師に事情を話し、すべて引き継ぐ徹底ぶりだった。
これが功を奏した。
「母は察していたんですね。薬の仕入れをやめると告げても、黙っていたそうです。しばらく昏々(こんこん)と眠り続け、街の薬局や病院をハシゴして、同じ薬は手に入らないと悟ってからは、あきらめたように薬を求めなくなりました」
こうして、25年以上に及ぶ薬物依存から母親が抜け出したころ、新たな悲しみが、おおたわさんを襲った。
戦友とも呼べる父親が、病に倒れたのだ。
「肝臓がんでした。今にして思えば、肝臓がウイルスに侵されていく中、残る力を振り絞って母の依存症と闘ってくれたんですね。2年ほど闘病して、76歳で旅立ちました」
長年、地域医療に貢献した父親の葬儀には多くの人が参列し、別れを惜しんだ。
しかし、そこに喪主である母親の姿はなかった。
おおたわさんが、ため息まじりに言う。
「テレビショッピングをするためです。母親の依存の対象は、薬物から買い物に移っていました」
2003年、おおたわさんは40歳を目前にしていた。
母親を捨てるという覚悟
「母の好きなところですか? 手、かなあ。家事をしないから所帯じみていないというか。幼心にマニキュアを塗った母のきれいな手が好きでしたね」
そう話すと、ふっと『娘』の顔になる。母親の前では、最後まで見せなかった顔だ。
防波堤役の父親が亡くなり、母親との関係は、一触即発のごとく悪化していた。
「家の中は、テレビショッピングで買った段ボールで埋め尽くされ、親戚には父の遺産を私が独り占めしたなんてデマを言いふらす。仕事中も何度も電話をかけてきて、気に入らないとガチャンと切っちゃう。めちゃくちゃでした」
娘として、父親の診療所を引き継ぎ、懸命に守ろうとしていた。だからこそ、気持ちをかき乱す母親の言動が許せなかった。
「死んでほしいと思ったことは何度もあったけど、初めて、殺してしまうかもって思った瞬間があって。そのとき、心を決めました。世間から冷たい娘と言われようが、もう母親とのかかわりを捨てるしかないって」
当時の様子を知る、20年来の友人、高木麻也子さん(43)が話す。
「彼女、お母様のことは割り切っていて、ほとんど話題にしませんでした。でもそれは、お母様に何かあれば、ひとり娘として自分が助ける、という前提での割り切りだと私には思えました。本来の彼女は、姉御肌で、すごく面倒見がいい人ですから」
高木さんが、40歳にして看護師を目指したときも、最強の応援団になったと話す。
「看護学校の受験を前に、試験対策の問題をこれでもかというほど送ってくれ、合格発表のときは、結果が怖くて見られない私に、『受かってるよ! 早く見な!』と、大喜びで連絡をくれて。本当のお姉ちゃんみたいに。お母様とも、そんなふうに家族になりたかったんじゃないかな」
思いはかなわなかった。
父親の死から10年の歳月が流れたころ、くしくも父親と同じ76歳という年齢で、母親は亡くなった。心臓発作による急死だった。
第一発見者は、おおたわさんだった。すでに息絶えている母親に、懸命に心臓マッサージを続けた。
「なんででしょうね、あんなに死んでほしかったのに──。今思うと、釈然としなかったのかもしれないな。私たち母娘の問題は、何ひとつ解決していない。ここで終わらせたくなかったんですね」
強情な母がこぼした涙の理由
2017年、おおたわさんは父親から引き継いだ診療所の閉院を決めた。
「一緒にやっていたドクターの健康問題や、いろんな事情が重なりました。悩みましたが、14年続けてきたので、『もう十分』と、父も言ってくれるような気がして」
閉院後の身の振り方は考えていなかった。ひとつ決めていたのは、幅広い知識で内科診療を行う、総合内科専門医の資格試験を受けること。
「簡単な試験ではないけれど、落ちるようなら、潔く医者をやめるつもりでした。患者さんの役に立てない医者なら、いらないですからね」
退路を断ち、閉院準備を1年がかりで進めながら、猛勉強の末、合格。
折しも、このタイミングで刑務所の矯正医療を知り、迷うことなく手を挙げた。
「今まで、なぜ医者になったか、明確に答えられませんでした。父が医者だからなんとなくという感じで。でも、矯正医療を知ったとき、私はこの仕事をするために医者になったと、ようやく答えが出せたように思います」
母親の依存症を公表してからは、『患者の家族』として、人前で話す機会も増えた。
依存症治療の第一人者、埼玉県立精神医療センター副病院長・成瀬暢也医師(60)も、話を聞いたひとり。
「僕らが主催する、依存症家族のシンポジウムにお呼びしたときも、謝礼もろくに払えないのに快く引き受けていただきました。知名度があり、依存症患者の家族としての経験を持つおおたわさんの話は説得力がある。依存症について正しい理解を広げるためにも、彼女の存在は心強いですね」
依存症患者に対する、偏見や誤解は今も根強い。社会は白い目を向け、患者はますます孤立してしまうという。
成瀬先生が続ける。
「薬物やアルコールなどをやめられない人は、意志が弱い、だらしないと思われがちですが、それは違います。依存症は意志の力でやめられない“病気”です。最初は好奇心で使い始めても、楽しい、気持ちいいからと使い続ける人は実はわずか。多くの人は、苦しさを紛らわすために、やむなく使い続けているのです」
死ぬほどやめたいのに、死ぬほどやりたい。なぜ人は、依存症という深い穴に落ちてしまうのか。
おおたわさんは母親が亡くなったあと、母方の親戚から、「幼少期に母が、自分の母親に捨てられ、酒癖の悪いDVの父親と暮らしていた」と聞いて、腑(ふ)に落ちたという。
成瀬先生が話す。
「依存症患者の多くに共通しているのは、人間不信です。虐待、いじめ、性被害などの傷を負った人が多く、人に安心して頼れず、人に癒されることができない。その生きづらさを、薬物やアルコールなどで、ドーピングしながら何とか生き延びているわけです。
回復するためには、無理やり依存性物質を奪い取るのではなく、家族や周りがサポートしながら、依存性物質に頼らなくてもいい状態に持っていくことだと考えています」
おおたわさんは、母親とのある場面が、今も忘れられないという。
「薬物の副作用で病院に運び込まれた母に、あきれながらも言ったんです。『家族だから、見捨てることはできないんだよ。親を捨てたりはしないよ』と。
このとき、母の目から涙がひと筋流れたんです。強情な母が見せた涙は、後にも先にもこの1度きりでした。私は母の涙の意味に気づけなかった。必要なのは、正論をふりかざすことより、温かい手を差し出すことだと」
矯正医療をあきらめない
「アハハハハハハ」
豪快に笑っているのは、なんと刑務所の受刑者たち。
2019年に、おおたわさんが日本で初めて、受刑者の社会復帰支援の一環として取り入れた、『笑いの健康体操』が行われていた。
「鼻から大きく息を吸って、止めて! 息を吐きながらひざを叩いて、アハハハハハ」
おおたわさんが見本を示すと、受刑者たちも「アハハハハ」と続く。
ヨガをベースに笑いの呼吸を取り入れた簡単な体操で、血圧や痛みの改善、精神の安定などエビデンスも得られているという。
「シャバに出たら、どこに行きたい? 温泉? いいねえ。でも、お湯が熱くても『コノヤロー』なんて怒っちゃダメだよ。笑いに変えるんだよ。『アチッ! アハハハハ』」
見ているほうも笑ってしまう。笑顔は伝染するようだ。
「受刑者は笑うことを知らずに生きてきた人が多いんです。カッとなりやすいしね。でも、イラッとしても笑いに変えられれば、犯罪を未然に防げる。笑いながら罪を犯す人は、まずいないですからね」
笑いの大切さとともに教えているのが、ふつうの暮らしの大切さだ。
「朝は起きる、夜は寝る。昼間は働く。規則正しい食事をして、病気になったら治す努力をする。シャバに出たら、健康保険証を作って、ちゃんと生活するってことです」
ふつうの日常──。それは、おおたわさん自身が大切にしていることでもある。
仕事を終えて帰宅すると、2匹の犬が出迎えてくれる。
「シーズーのエンカはペットショップで売れ残って価格破壊してた子。ポップは、去年老衰で亡くなったロックの次に来た子なんだけど、お利口だったロックと違って、もう食い気ひと筋(笑)」
まるで、わが子のようにかわいがる。夫婦に、子どもはいない。
「自然にまかせていましたが、子どもがいなくてよかったかもしれません。依存しやすい気質は母と似ていると自覚していて。教育ママの血も受け継いでいると思うので、断ち切る意味でも」
夫婦と犬2匹で、和気あいあいと暮らす。それだけで、十分に幸せだと話す。
「将来の目標とか、欲も特にないですね。たとえ欲しいものを手に入れても喜びは一瞬。それより、家族がいて、犬がいて、ちっちゃいことに笑っていられれば、それでいいじゃないかって。幸せ上手になったのかな(笑)」
無欲なぶん、エネルギーは矯正医療に注ぐ。
「人と人として彼らと向き合い、私を人として、医師として信じてもらう。そうやって信頼関係を築くことから矯正医療は始まると思っています。自分でも驚くほどのめり込んでいるのは、母親にできなかったことを彼らにしたいという思いもあるんでしょうね」
依存症の受刑者の再犯率は8割以上。再び罪を犯して戻ってくることもざらだ。それでも、おおたわさんは決してあきらめない。
「100回やってダメでも、101回目に何かが変わるかもしれない!」、そう信じて。
取材・文/中山み登り
なかやまみどり ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。高校生の娘を育てるシングルマザー