43歳で地元を離れた葉子さん(仮名)。その過去と現在とは?(写真:筆者撮影)

養子を迎えた家族や再婚家庭など、血縁がなくても良い関係を築く親子はたくさんいます。親子の関係に血縁はさほど重要ではなく、むしろ血縁がない家族を異端視する世間の目に苦しむ人がいることも、最近はだんだんと知られるようになってきました。

一方で、継母や継父、親の交際相手から子どもがいじめられる、虐待されるといった話は、昔からよくあります。“中途養育”であるとき――なにかしらの理由で第三者の大人が途中から子育てにかかわるとき、子どもと良い関係を築けないケースがそれなりに生じることは、否定できないでしょう。

今回連絡をくれた野田葉子さん(仮名)も、そうした経験を持つひとりです。葉子さんは、幼少期に継母や実父から酷い扱いを受け、その後、彼女を引き取った祖母からもつらく当たられ続けました。地元を離れて「何でもできる気持ち」になったのは、つい最近のことだといいます。

故郷の九州を離れて葉子さんがいま暮らすのは、すべてを包み込むような美しい山を間近に臨む、穏やかな街です。よく晴れたある日の午後、広々としたホテルロビーのカフェで、彼女と落ち合いました。

「シンデレラみたい」な私

両親が離婚したのは、葉子さんが0歳のときです。調停を経て、葉子さんは父親に引き取られました。父の実家は自営業を営んでおり、祖父母が葉子さんの子育てをフォローできたからです。

父親は、葉子さんが1歳のときに再婚しました。実家を出て、相手の女性と3人で暮らし始めましたが、物心がつく前だったため、葉子さんは継母を実の親だと思っていたそう。

葉子さんが2歳のとき、父と継母の間に実子が生まれます。葉子さんはこの妹と、あらゆる面において、違う扱いを受けてきました。

お刺身もハンバーグも妹は食べているのに、彼女は「大人の食べ物だから」と言われ与えてもらえない。いつも怒られ、押し入れの下の段か風呂場のすのこに正座をさせられる。ベランダに出されることもしょっちゅうで、階段から突き落とされたこともありました。

「私のちっちゃいときって、正座しているか、『ごめんなさい』って泣いていて、妹がその周りで遊んでいる。それぐらいのことしか覚えていなくて。いつも大泣きして、もどして洗面所を詰まらせちゃって、それでまた怒られていたんですよね(苦笑)」

父親も妻を止めるどころか、加勢していました。よく濡れ布巾やガラス製の重い灰皿を投げつけられましたが、なぜか「濡れ布巾のほうが痛かった」という記憶です。灰皿は痛すぎて記憶から消えたのか、身体に当たらなかったのか――いまはもう、わかりません。

虐待が発覚したのは、祖父母の家に泊まりに来た葉子さんと風呂に入った祖母が、背中に大きな火傷痕があるのを見つけたためでした。継母はよく体罰のため、葉子さんにお灸を据えて、皮膚に黒く焦げつくまで放置していたのです。

「これをきっかけに“野田さんち家族会議”が開かれて、小2の後半から祖父母の家に引き取られました。それまでも、私はばあちゃんちに行ったとき必ずテーブルの脚にしがみついて『帰るのやだ!』とわめいていたらしく、『いっつもわめくから、おかしいと思うとった』と言っていました」

継母が実の母親ではないと知ったのは、それからしばらく経った頃でした。テレビを観ていた葉子さんがふと、「妹ばかりお母さんにかわいがられて、私は嫌われとる。シンデレラみたい」と口にしたのです。祖母はショックを受け、「あの人はあんたの母じゃない」と、泣きながら教えてくれたのだそう。

「ああ、そうだったんだ! みたいな感じです。だから私のことを嫌っていたんだ、だから私いじめられてたんだ、って自分のなかで答えが出たような」

自分が悪かったわけではないことがわかったんですね、と筆者が言うと、葉子さんは頷きつつ、「でもそう思うと、『うちの父親は“ほんともん”なのに、なんで?』と思った」といいます。

もしかしたら父親には、再婚相手に連れ子の世話をさせる負い目があったのでしょうか。あるいは単に父親の人間性の問題だったのか。わかりませんが、継親の仕打ちが自分のせいでないと継子が気付くことは、大事なように思います。

筆者の周囲にも、継母の立場の友人や知人は何人もいます。皆もちろん虐待などしておらず、シンデレラの物語のせいで世間から「意地悪な継母」と見られがちなことに傷ついているのですが、でも実際に虐待されてしまっている継子からしたら、シンデレラは救いの物語なのでしょう。あの話を知っていれば、不当に自分を責めずに済むからです。

継親の虐待が多いように見えるのも、子どもが「自分が悪いせいではない」と気付いて声をあげやすいためなのかもしれません。もちろん実親からの虐待も子どものせいでは断じてないのですが、子どもはそのことにより気付きにくくなります。そのため、継親による虐待の比率が、実際より多く見えがちなようにも思えます。

赤ちゃんだったいとこだけが、彼女を責めなかった

祖父母の家に引き取られても、葉子さんに穏やかな時間は訪れませんでした。祖母は祖母なりに愛情をかけてくれたのでしょうが、育てにくさもあったのか、葉子さんを常にけなしていたため、次第に彼女は表情を失い「陰気な子」になっていったのでした。

「引き取られたとき、私、嘘ばかりついてたんですって。(継母に)怒られたくないから、つかんでもいい嘘をつく癖がついとった。だからばあちゃんは『人の顔色ばかり見るし、嘘ばかりつくし、引き取るんじゃなかったと思うた』と言ってました。

ばあちゃんにも父親にも親せきにも、みんなからいつも『お前みたいに性格の悪いもんが』とか言われていたから、『私なんか』という思いがどんどん強くなっちゃって」

子ども時代、ほぼ唯一の良い思い出は、叔父の家に生まれたかわいい赤ちゃんのことです。葉子さんが小学5年生のときに生まれたこのいとこは、両親が共働きだったため祖父母の家に預けられ、いつも葉子さんがめんどうを見ていたのです。

「私が学校から帰ったら、赤ちゃんがおるんですよ。もう、かわいくって。この子、私のこと責めないですもん。今でも昔の私を知っている人は笑うんですけれど、どこに行くにも連れて歩いていたんです。友達と遊ぶのも、ベビーカーを持って行ったり、抱っこひもやおんぶひもとかで。おむつとか全部バッグに突っ込んでいく。

そうすると、みんな自営業で忙しいから『ありがとう』って言ってくれるし、私を責めない。この子を連れとったら、いいわけじゃないですか。もうかわいくって、かわいくって。少し大きくなると、いつも手をつないだり、自転車の後ろに乗せたりして遊びにいっていました」

その後、高校は祖母や親せきの勧めで進学校に入りましたが、葉子さんの夢は美容師になることでした。祖母が美容師をしており、週末はよく結婚式場に連れられて行き、お嫁さんの着付けや髪結いをする様子を見て、その仕事に憧れていたからです。

しかし、高校に入ってから美容院でアルバイトを始めてみると、肌が弱かったのでしょう、シャンプーやパーマ剤で手が荒れて、たちまち血だらけに。美容師になる夢は、あきらめざるを得ませんでした。

「世間体ばかりを気にしている」祖母や親せきは皆、なんとか葉子さんを進学させようと説得しましたが、「美容師になれないなら、あとは何をしても同じ」と思った彼女は、高校に届いた数少ない求人のなかから仕事を選び、就職の道を選んだのでした。

結婚、離婚、精神疾患……

就職後、最初の数年は東京にいたのですが、間もなく地元に支店ができます。葉子さんも支店への異動を言い渡され、数年後にはそこで知り合った男性と結婚し、退職しました。しかし、結婚生活は決して幸せなものではありませんでした。

「小さいときからずっと『お前みたいなもんが』と言われ続けてきたので、誰かが『付き合おう』って言ったら付き合うし、誰かが『結婚しよう』っていったら結婚するんだ、みたいな感じ。恋愛でも、自分の意思が全然出てこなかったんです。それで好きじゃない人と結婚したから、当然うまくいくわけがなくて。

外面はものすごくいい人でしたけれど、婚姻届けを出した途端に『もうこれで内側の人やから、お前にいい顔することないよな』と言われ、そこから人が変わってしまって。4年くらいで離婚しました。子どもが1歳になったくらいの頃かな」

独身時代に貯めたお金も、この男性にほぼ使われてしまっため、10万円だけを持って家を出ることに。以来、一人で子どもを育ててきました。

子育て、仕事に加え、病に伏せった祖父の看病。さらに、祖母からは相変わらずあらゆる愚痴を聞かされる日々が続き、葉子さんはだんだんと心を削られていきます。意味もなく泣き出したり、朝起きたら目がまわっていたり。血が出るまで皮膚をむしってしまうこともありました。

ただし、不思議と仕事だけはできました。処方された薬を飲まないと起き上がることもできないのに、「この子を育てなければ」と思うせいだったのでしょうか。職場ではそれなりに評価も受けていましたが、家に帰るとおかしくなってしまうのです。周囲に話しても、精神科に通っていることを信じてもらえなかったそう。

葉子さんは苦しみながらも、しっかりと生活してきました。幼少時から周囲に否定されて育ち、「私なんか」という思いにとらわれつつ、こうして自分のことを淡々と、ときにユーモアさえ交えて話せるのは、なぜなのか?

どうも、祖父の存在が大きかったようです。祖母や父親らがいくら彼女を責めても、祖父だけは決して、彼女を悪く言うことはありませんでした。

「大正生まれのただのクソ爺(愛情を込めて)だったんですけれどね。でも、そこにおるだけで、バランスが取れていた。ばあちゃんがいよいよおかしなことを言ったときは、『ああ、いまのは、ばあさんがいけんわい』とポツリと言ったりして。亡くなる前日まで、私とは憎まれ口を叩き合ってましたけれど。うん、仲は良かったですね」

葉子さんは、祖父の視点に、とても支えられてきたのかもしれません。

「ここを出ろ」と促してくれたのは…

葉子さんが自分の人生に足を踏み出したのは、いまから約3年前のことです。自立心旺盛に育った子どもが遠くの大学に入り、一人暮らしを始めたため、葉子さんも安心して地元を離れられるようになったのです。

家を出るように促してくれたのは、葉子さんが子どものときにめんどうを見ていた、あのいとこでした。10歳下の彼女は、小さいときからいつも葉子さんが周囲から責められる様子を見ており、「お姉ちゃん、野田さんちの近くにおったら潰れる、早くここを出なさい」と何度も言い続けてくれたのです。

「私自身には、あそこを出るという発想がなかったですね。いとこは『お姉ちゃんは洗脳されとる。野田さんちのために働く、という頭ができている』とずっと言っとったんですけれど、実際そうだったんだと思います」

息子が大学に入った翌月、彼女はなんとなく、いま住む街を訪れました。縁もゆかりもない土地ですが、富士山がよく見えることや、のんびりした街の雰囲気に惹かれて、すぐに移住を決めたのだそう。

着いた翌朝、葉子さんはさっそくレンタサイクルで街を走り、住む場所の目星をつけました。信号待ちをする人などに、どの辺りが住みよいか聞いてみると、みな親切にこたえてくれたといいます。

地元に戻るとすぐ、勤め先に「来月で辞めます」と伝え、翌月退社するや否や、この街に引っ越してきました。彼女が地元を離れたことを知っているのは、いとこと子どもと、わずかな友人のみだそう。はじめは短期のバイトを繰り返し、しばらく経って街に慣れてきた頃、ハローワークでいまの仕事を紹介してもらったということです。

「いま、超健康なんです。精神安定剤もいらないし、風邪すらひかない。こっちに来てから、皆さんがちゃんと私を評価してくれるんです。ちゃんと『ああ、野田さんね』って見てくれる。誰も私の父親や祖父母、親せきのことを知らない。そうしたらなんか『私、生きてていいんだ』と思えるようになって。

いま、自分のなかで何かが充実してるんですよ。だから変な言い方ですけれど、明日死んでもいいと思っているんです。それぐらい、ちゃんと生きてる感があるから」

無理をして言っているわけではないことは、一目瞭然です。この街での暮らしを話す葉子さんは、文字通り輝いて見えました。彼女はこれから、もっともっと、楽しいことになっていくのでしょう。

「この前いとこと遊びに出かけたとき、なんとなく手相を見てもらったら、『あと3、4年したら、もう一回動きがある』と言われたんです。私、何をやるのかな? と思って。もう一回くらい移住してみてもいいのかな。いまの私だったら、何でもできそうな気がするんです。以前の私みたいに、『どうせ私なんか』が、前面に出ていないから。

これから何がしたいかといったら、『ちゃんと深呼吸がしたい』と思います。地元にいたときは、できてなかったんですよ。いつもビクビク、ドキドキしていたので。あとは、実母の顔をすごく見てみたい。方法がわからないんですけれど」

葉子さんにつられて私まで、これからなんでもできそうな、ワクワクとした気持ちになっていました。帰り道、電車の窓から見た富士山は、それは美しく、力強い姿でした。

当連載では、さまざまな環境で育った子どもの立場の方の話をお聞きしています(これまでの例)。詳細は個別に取材させていただきますので、こちらのフォームよりご連絡ください。