今年8月11日、北海道コンサドーレ札幌からFC琉球に電撃移籍した小野伸二は、沖縄で開催された入団会見で力強くこう話した。

「『沖縄をサッカー王国にしたい』という倉林会長の思いに賛同しました。自分自身、静岡県出身ということもあり、育ったところがサッカー王国と当時は言われていましたので、そういうものをまた沖縄という地で達成できたら、これほどうれしいことはないなと思いました」


FC琉球に来て、約3カ月。すでに大きな影響を与えている小野伸二

 日本が世界に誇る天才、小野伸二の心をつかんだのは、FC琉球会長にして、フットボールブランド、『sfida』を展開する株式会社イミオの代表取締役社長、倉林啓士郎だ。

 倉林は、2016年12月、資金難や相次ぐ社長交代などで迷走していたFC琉球の社長にJリーグ最年少となる35歳で就任すると、わずか1年で、スポンサーをこれまでの56社からおよそ2.3倍となる130社も獲得した。ホームスタジアムの平均観客動員数も1561人から2508人まで伸ばし、当初1億円以上あった赤字は半分にまで減った。翌2018年度は赤字を3000万円まで削減させ、クラブも創設14年目で初のJ2ライセンスを獲得すると、いきなりJ3で優勝してJ2昇格を決めた。

「ビジネスの世界で15年間、自分の会社を経営してきて、しかもそれがサッカーに関係する仕事なので、そこで培ってきたネットワークが、FC琉球を強くしていく、いいクラブにしていくにあたってフル活用できました。仮に自分がサッカーの世界だけで生きてきたならば、作れないようなネットワークだと思うので」

 倉林はクラブの立て直しに成功したばかりか、「J1昇格」を目標に定め、FC琉球をさらに上のステージへと導こうとしていた。J2初参戦の今シーズン、開幕4連勝を飾ると一時は首位に立つ快進撃を見せた。クラブは、沖縄県内はもちろん全国的にも注目され始めたが、さらに私たちを驚かせることになったのが「小野伸二獲得」というニュースだった。

「FC琉球のトップ下のポジションには、中川風希(かざき)という核となる選手がいたのですが、シーズン途中で、横浜F・マリノスに移籍してしまいました。焦らずにいい選手を探したいと思っていたのですが、同時に、今後、チームをさらに強くしていくために、経験豊富でまとめ役となるような選手が欲しかった。そうした中で、小野伸二選手に白羽の矢を立てました。彼はコンサドーレ札幌をJ1に昇格させ、ここまで強くした立役者の一人です。ピッチ上で持ち味を発揮することはもちろんですが、今までのキャリアで見てきたものをまた違う形でチームに還元していただきたいと思い、お願いしました」

 もともと、小野とは『わりと長いお付き合いです』という。しかし、それだけで心が動くはずもない。FC琉球の予算規模は、J2ではダントツの最下位。クラブハウスもなく練習場も転々とするなど、環境も恵まれているとは言い難かった。小野はそれでも、倉林の「沖縄をサッカー王国にしたい」という思いに共感し、新しい挑戦の場として沖縄を選んだのだった。

「自分はプロ選手としてやっていたわけではありませんが、子供の頃からサッカーで育って、友達もサッカーを通じて作ってきました。サッカーに対しての愛情や恩返しの気持ち、選手に対してのリスペクトもすごく強いですし、経営の根本にそうした思いがあります。そこは、メリットかなとは思います」

 生まれも育ちも東京の倉林は、小学校から高校まで所属チームでキャプテンを任されるほどサッカーに熱中した。東京大学在学中も社会人クラブの練習生としてプレーするなど、サッカー熱が冷めることはなかった。

 同時に起業にも目覚めた倉林は、パキスタンからのフェアトレードでサッカーボールの製造販売を始め、オリジナルブランド『sfida』を立ち上げた。ちなみに『sfida』とは、イタリア語で「挑戦」という意味だ。同社のフットサルボールは、Fリーグ公式球にも採用されている。

 現在、事業はサッカー・フットサルボール、スポーツウェア販売のほか、全国にあるフットサルコートの運営、IT を活用した新たなフットボールサービスの提供など、広くスポーツを楽しむ環境づくりにまで年々拡大している。

 FC琉球との関係は、J3に昇格した2014シーズンから3年間、ウェアのサプライヤー契約を結んだところから始まった。その間、社長が3度も交代するなど経営が苦しいことは理解していたが、まさか自分が社長に就任するとは考えてもみなかったという。

「最初は運営資金が足りないので協力してほしい、ということでした。『1000万円程度かな』と想像していたのですが、決算書を見せていただいたら約1億2000万円も足りず、来月とか1週間後には、そのお金がないと選手に給料を払えない、クラブもなくなる、という状況でした。


FC琉球で経営手腕を発揮している倉林啓士郎会長

 大きなお金ですし、自分も沖縄出身でもないので、どうしようか本当に迷いましたが、3年間支えてきたクラブがなくなる事態は防げるならば防ぎたい。日本のサッカーにおいても、沖縄という土地にリーグのクラブがあることは重要ですし、それをなくしてはいけないと思い、出資を決めました」

 地元沖縄で社長に就任してくれそうな人物を探してみたものの、見つからない。誰も引き受けないならば自分やるしかないと腹をくくり、倉林は無報酬でFC琉球社長に就任した。現在は経営力強化を図るため2人代表制を採用し、倉林は取締役会長に就任。現場のオペレーションは三上昴新代表取締役社長と、廣粼圭・新代表取締役副社長兼スポーツダイレクターに任せ、倉林自身はJ1規格スタジアムの建設推進や、アジア展開(2019年7月、台湾サッカー協会と包括的パートナーシップ協定締結)などを中心に進めている。

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 小野のデビュー戦となった8月17日の横浜FC戦。ホームのタピック県総ひやごんスタジアム(通称タピスタ)には、観客動員の最高記録を1.5倍も更新する、1万2019人が集まった。

 FC琉球の選手、スタッフ、すべての関係者にとってそれは、今から次のステージが始まることを実感させ、近い将来、FC琉球がJ1の舞台で戦う姿を想像させるに十分な景色だった。

「ほんとに夢のような景色でした。天気もよくて、初めて満員のスタジアムというのを観ることができた。観客の方にしっかりと来ていただいて、それが収益にもつながり、クラブをさらに強くできる。最初は『本当にほかのJ1やJ2のクラブのように、入場料収入を稼げるようになるのか』と考えたりもしました。それが、一昨年、去年、今年とステップアップして、『沖縄』というおそらくは日本で一番アクセスの悪いスタジアムでも満員にできた。それはものすごく大きな成功体験でしたし、自信にもなりました」

 沖縄デビュー戦で圧倒的な注目度を示した小野だったが、一方で、古傷の痛みや体力面(9月27日で40歳)を考えると、現役選手としてどこまでできるのかを心配する声もあった。

 しかし、ピッチに立てば世界基準の技術は衰え知らずだ。ただ、4試合を残すタイミングで、右腓腹筋肉離れ(全治約4週間)が発表された。それでも、FC琉球に欠かせない存在なのは間違いない。

 樋口靖洋監督は小野の影響力についてこう語る。

「技術や戦術眼については、疑いの余地はありません。伸二はあれだけ実績ある選手にもかかわらず、自分から積極的に若い選手に『一緒にリフティングやろうぜ』みたいに話しかけて、打ち解けやすい雰囲気を作ってくれています。試合でも周りを生かすプレーに徹しています。自分のタイミングでプレーすることは上手でも、相手のタイミングに合わせることのできる選手は少ない。しかも伸二の場合、ひとつひとつの技術が世界基準です。FC琉球にいる選手にとってはものすごく大きな財産になるので、とくに若い選手には、もっと貪欲に学んでほしいと思います」

 10月11日、那覇市内で「美ら島スタジアム〜J1規格スタジアムの早期実現に向けて〜」と題したシンポジウムが開催された。

 Jリーグ関係者や有識者による講演で、国内のスタジアム整備の進捗などが報告されるなか、翌日にホームで東京ヴェルディ戦を控えた小野もパネルディスカッションに登壇した。

 小野はオランダ・フェイエノールト時代のスタジアムを例に挙げ、スタジアム建設が地域にもたらす効果について話し、「僕たち選手は、J2ではなくて、J1に定着できるようなチーム作りをしなければいけない。僕も、もう40歳なので、(J1規格の)スタジアム建設はできるだけ早く進めていただけるとうれしいです」と訴えると、会場は大きな歓声と拍手に包まれた。

 小野には一選手という立場を超えて、クラブの顔として地域をひとつにまとめる力がある。シンポジウムに参加してあらためて、影響力の大きさを実感した。

 倉林が振り返る。

「(小野選手の獲得は)簡単ではなかったですよ(笑)。奇跡的なタイミングと、僕らの奇跡的な交渉と、奇跡的に、さまざまな方たちがお金の面でも協力してくださって実現できた。ただ単に『お金を払いますから』では来てくれない。僕らは将来、もっといいクラブになる。もっとよくなって、沖縄に対しても日本全体に対しても、アジア全体に対しても影響力を持って、その過程でJ1に昇格する、いけるというイメージがあることを小野選手も理解し、共感してくれた。そのために『自分の力が貢献できるならうれしい』と思ってくれた。それが一番大きかったと思います」


小野は、練習でも自ら進んで若手選手らと一緒に準備、片付けをしている

 迎えた翌日のヴェルディ戦、小野は6試合連続で先発出場した。芸術的なスルーパスで一気にチャンスを手繰り寄せる「小野伸二らしさ」はこの日も健在だった。守備面でも、球際で泥臭く相手とからむなど献身的なプレーで貢献していた。試合は敗れたものの、小野の加入でFC琉球の攻撃の幅は広がり、チームとして目指す形もより明確になっていた。

 最後に「FC琉球がJ1に昇格したのちの、小野伸二」について質問してみた。

「今は現役選手としてチームに貢献してくれているので、指導者というイメージはまだありません。ただ、できるだけ長くクラブと関わってほしいとは思います。これから沖縄やFC琉球というクラブについて理解していくと思いますが、札幌でもそうであったように、沖縄にも愛着を持ってもらえたらうれしいですね。それはクラブとしても、将来的に『小野伸二GM』とか『小野伸二社長』とか(笑)。最高ですよね」

 Jリーグ夜明け前。日本リーグ時代は2部所属の弱小チームに過ぎなかった鹿島アントラーズは、38歳で来日したブラジルの英雄ジーコに牽引され、今は日本を代表するビッグクラブにまで成長した。FC琉球もまた、日本サッカー界の宝でもある小野とともにJ1昇格という目標に向かい、さらにアジアへと羽ばたいていく。それは決して、遠い未来の話ではないかもしれない。