違法風俗店街が変身!「黄金町」高架下の挑戦
京急の高架横に今も立ち並ぶ違法風俗街の跡。こうした違法風俗店は「ちょんの間」とも呼ばれた(筆者撮影)
近年、高架下の活用が盛んだ。今までは飲み屋街・駐車場・スーパーといった利用が多く、決してイメージは明るくなかった。しかし、最近の高架下には従来のイメージを覆す施設が次々と整備されている。たとえば、東急が先日オープンした「池上線五反田高架下」(4月3日付記事 池上線「大崎広小路」がおしゃれになったワケ)はガラス張りの天井をつけるなどの工夫で明るく開放的な店舗を作り出した。多様化も進んでおり、東京メトロや阪神電鉄が野菜栽培工場を作ったのをはじめ、温浴施設や保育園といった幅広い活用が始まっている。
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その中でも一風変わった高架下利用を行っているのが、京急電鉄の日ノ出町駅から黄金町駅(横浜市)にかけてのエリアだ。
2000年代前半まで違法風俗店が100軒ほどあったというこの高架下は、行政や地域による取り組みで「アート」を用いたまちづくり拠点へと変化を遂げた。今春には新たに京急電鉄が「高架下タイニーハウスホステル」をオープンする予定で、まちづくりは新たなステージを迎えようとしている。
戦争が生んだ違法風俗店街
現在は、高架下にこのような「スタジオ」がいくつもある(筆者撮影)
高架下の違法風俗店街のおこりは第二次世界大戦直後のことだ。日ノ出町の東側には横浜一の歓楽街「野毛」があることもあって、夜の街は華やかで活気があったという。
はじめは進駐軍に土地を接収されたことで行き場をなくした人々が生活を成り立たせるためにこの地区で売春業をはじめ、そのうちに京急電鉄の高架下へと店舗が集約されていった。1970年頃までは日本人が中心の違法風俗店が多く、その後は東欧や南米からやってきた外国人が中心となり、店も少しずつ増えていった。しかし、当時はまだ地域と違法風俗店で働く人々の間に人間関係があり、暗黙のルールがあったという。
状況が変わったのは1995年に発生した阪神・淡路大震災以降だ。2002年、京急電鉄が高架の耐震工事を行うために風俗店に立ち退きを求めると、違法風俗店が周辺に移転し始めた。さらに他からも同じような店を呼び寄せ、2004年までにたちまち約260店舗まで増えた。同時に暗黙のルールも崩壊していった。「風俗店にするために土地や建物を売ってくれないか」という不動産業者が現れるようにもなった。
黄金町エリアにあった違法風俗店の跡地は多様な利用のされ方をしている(筆者撮影)
「このままではいけない」。危機感を覚えた日ノ出町の日ノ出町内会、初音町、黄金町から構成される初黄(はつこう)町内会は、2002年に初黄・日ノ出町地区風俗営業拡大防止委員会を立ち上げた。その後、地域の小学校のPTAなども参加し、初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会へと発展する。2005年には警察が本格的にかかわるようになり、24時間警備もスタート。そして同年夏にはマスコミも招いて徹底取り締まりを行う「バイバイ作戦」を行った。
こうして風俗店は閉鎖状態になったが、一方では住民が減り、独特の建築物だけが残された地域の活力は低下してしまった。人が歩かなくなり薄暗い空気の通りを見て、いつか違法風俗店が戻ってくるのではないかと住民は危惧したという。
アートの力で新たな街に
そんな中、横浜市が中心となり新たな街の姿として打ち出したのが「アートによるまちづくり」だ。市は2001年から、3年に1度開く現代美術の国際展覧会「横浜トリエンナーレ」を開始。当時廃屋だった赤レンガ倉庫を展覧会場に使ったことで話題となった。そして2004年からは「文化芸術創造都市構想」を打ち出し、初音町・黄金町・日ノ出町(以下、黄金町と略す)のアートによるまちづくりはその波に乗る形となった。
まず2006年、横浜市中区を中心とした店舗転用のモデル事業として「BankART桜荘」(2010年閉鎖)が作られた。ここはNPOの「BankART1929」が運営者となり、アーティストが滞在しながら創作活動を行う「アーティスト・イン・レジデンス」と交流スペースが設けられた。この頃から大学もまちづくりに参加するようになり、神奈川大学と横浜国立大学が建築物の設計やまちづくりへの提言作りを行うようになった。
高架下に設けられた「かいだん広場」ではアーティストのパフォーマンスが行われることも(筆者撮影)
そして2007年からいよいよ高架下の活用も始まる。横浜市が京急電鉄の高架下を借りる形で新しい施設が造られることになったのだ。建物の設計は2つの大学が中心となり、「日ノ出スタジオ」と「黄金スタジオ」と名付けられた。施設の開業に合わせ、横浜市は周辺の違法風俗店跡地も借り、新しい地域イベントを仕掛ける。それが、現在では毎年秋に開かれるイベントとして地域に定着したアートフェスティバル「黄金町バザール」だった。
企画担当には、現在「黄金町エリアマネジメントセンター」の事務局長を務めるアーティストの山野真悟氏を招いた。山野氏は1990年に福岡市の天神地区で開かれた、アートを利用したイベント「ミュージアム・シティ・天神」の発起人で、その手腕を買われる形で2005年の横浜トリエンナーレでキュレーターとして招かれていた人物だ。
2011年の黄金町バザールの様子(筆者撮影)
山野氏が展示の具体的な案を作った「黄金町バザール2008」は横浜トリエンナーレと連動していたこともあり、約2カ月半の会期中に延べ10万人が訪れ、「アートによるまちづくり」の具体的な形をまちの人々に提示することとなった。このイベントでアートによるまちづくりへの理解は一気に進み、流れを加速させるためにNPO「黄金町エリアマネジメントセンター」が設立された。初代事務局長には山野氏が就いた。
高架下や違法風俗店跡地を活用
同センターが行う核となる事業が、高架下や違法風俗店跡地の不動産管理だ。基本的な仕組みとしては、横浜市が違法風俗店跡地の借り上げの交渉、高架下も含めた賃料の支払いを行い、同センターが借上げ物件や高架下の管理を行う。そして、借上げ物件はアトリエやアーティスト・イン・レジデンスとして利用され、同センターが物件の再整備やアーティストの支援を行う。
黄金町エリアマネジメントセンターではアーティストと共に建物の見た目を変える活動も行った。ここはアーティスト・イン・レジデンスで貸し出しも行う(筆者撮影)
アーティスト・イン・レジデンスは短期滞在と長期滞在の2種類があり、賃料は1月当たり2万5000円〜5万円。建物の構造や経緯から権利関係が複雑で、水道が通っていても使えないこともしばしばあるなど、用途が限定されることもあるというが、地域側の体制が整っていったことで、横浜市は徐々に違法風俗店跡地の借り上げを進めていった。
さらに同センターは、こうした不動産管理以外にも「黄金町バザール」の開催や、地域に住むアーティストの「次の展開」についてアドバイスするなど、さまざまな角度からまちづくりをサポートする。
また、高架下活用も範囲をさらに広げて新たに4つのスタジオと1つの広場を設けることとなった。ここでは大学生・大学院生と建築家が中心となって地域の人々とのワークショップを開き、まちに人の流れを与え、二度と違法風俗店が出てくることのないよう、「裏表を作らない」「回遊性を確保する」「まちがギャラリー」といった内容の「9つのコード」と呼ばれるコンセプトを決めて具体的な設計を行った。
黄金町の治安を守る「黄金町交番」は2009年に地域住民の請願で設置された(筆者撮影)
2009年には従来の県警の防犯拠点に代わり、黄金町交番が「BankArt 桜荘」の横に設けられ、だんだんと女性や子どもが歩ける「普通のまち」に戻していく取り組みも進んでいった。そして2011年から2012年にかけて次々と施設と広場が完成し、ハードの整備は一段落した。
その後は借上げ物件を増やしながら、毎年黄金町バザールを開催し、アーティスト・イン・レジデンスで新たなアーティストを受け入れるなど、ソフト面の整備を続けている。こうして黄金町で活動してきたアーティストは2017年末までに約480組となり、借上げ物件も90軒に増えた。違法風俗店が出店することはもう無理だろうとみられている。
まちづくりに地域で温度差
うまくいっているようにみえる高架下を活用したまちづくりだが、課題も多い。
日ノ出町では経済が立て直されてきたことで、再開発も行われた(筆者撮影)
まず、まちづくりに対する温度差が地域別に出てくるようになってしまったことだ。日ノ出町地区は野毛に近いこともあり、マンションや新しい再開発ビルが建設され、アートによるまちづくりの次の段階を求めるようになった。一方で黄金町駅に近い初音町地区では、建物の建て替えや新しい事業者の進出が進んでいない。
そして住民の高齢化も進んでいる。「この地域で違法風俗店問題の解決に携わってきた方々は70〜80代と高齢化してきている。一方でその子どもは(親と)別の職業の人が多く、仕事で忙しいためになかなかまちづくりにかかわれない。そのために地域全体のことを考えながらまちづくりにかかわる人が足りず、そういう人々をいかに増やしていくかが課題だ」(山野事務局長)
また、地域に住む人々が多国籍になりつつある。ワンルームマンションが増えたこともあり、学校や就労のために中国や東南アジアから若い人が来るようになったが、外国人は外国人のコミュニティとなってしまっており、地域コミュニティにメンバーとして迎え入れるタイミングが少ない。
何よりも山野事務局長が課題に挙げるのは、地域に危機感がなくなってきていることだ。「当初は安全なまちづくり、人が歩けるまちにするのが最大の課題だった。ハードの施設整備が落ち着いてきた2012年ごろから、もう安全なまちになったからまちづくりをしなくても大丈夫じゃないかという認識になりつつある。地域の人々が危機感を喪失するのではないかということを大きな課題として認識している」(山野事務局長)
タイニーハウスはこのように運搬できる「動産」だ(画像提供:YADOKARI)
そんな中、京急電鉄は高架下活用の新たな取り組みとして「タイニーハウスホステル事業」を今春から始めると2月に発表した。タイニーハウスとはリーマンショック以降アメリカで広がった小さな家で、多くは自動車で牽引可能な動産だ。家の形だけでなく、必要最低限のものだけを所有するシンプルな暮らし方でもあり、日本では東日本大震災以降に断捨離・ミニマリストといった同じようなライフスタイルが広まりつつある。
そしてこのタイニーハウスを使った暮らし方の提案を日本で行っているのが、今回の事業で京急電鉄と組むYADOKARIだ。同社は動産活用による遊休地や暫定地の企画・開発などを手掛けており、今回の事業では高架下の敷地約500平方メートルに1棟当たり13〜14平方メートルのタイニーハウスを計5棟設置する。ホステルに使うのはうち3棟で、残る2棟はカフェバーと大岡川を利用した水上アクティビティの拠点とする予定だ。ターゲットは「タイニーハウスやミニマルな暮らしに興味のある若年層、インバウンド、ファミリー、横浜エリア近郊の住民」(YADOKARI・広報)と幅広い。
「アートの次のまちづくり」へ
高架横には大岡川が流れる。戦後は写真左手の陸地が進駐軍により接収された(筆者撮影)
この事業では、高架下を貸し出す京急からも「アートの次のまちづくり」をしたいという思いがうかがえる。「黄金町地区はアートによるまちづくりでにぎわいが出てきたが、これを日常的なものにしたいと思っている。そこでフォトジェニックでアートや水上アクティビティと相性がよいものとしてタイニーハウスホステルというアイデアが出てきた。YADOKARIとは2017年初めから1年かけてプロジェクトを進めている」(京急電鉄・広報)。日常的なにぎわいはまちづくりにとっては大きなカギだ。特に高架下脇の道は暗く、まだ店が展開していくには難しい場所だ。まずは高架下でも開放的な場所を使って日常的なにぎわいを生み出し、周辺に広げていきたいという思惑もあるだろう。
その点は、黄金町でまちづくりをしている人々も同じ思いだ。「高架下で普通の商売を行うのは難しい。そこで2016年ごろから高架下でなにか事業ができないかとモデルを見て探った。京急がタイニーハウスホステルという案を持ってきたのは2017年の夏ごろ。このとき京急は賢いことを考えたと思った。タイニーハウスならば可動性があり、増やそうと思えば増やせるし、フレキシブルな展開が可能だ。そして建設費を軽減して安く貸せる。また、地域から要望してきたことも果たされる」(山野事務局長)。
さらに地域にとって大きなことは、YADOKARIという「専業」の事業者が入ってくることだ。「これまでNPOがまちのなんでも屋となり試行錯誤しながら幅広いことの面倒をみていたが、今回、われわれの意思とは別に事業目的がある法人が入ってくる。まちづくり開始後、新しい法人が入ってくるのは初めてのこと。よって今回の事業がまちづくりの新しいステップになり、とても大きなこととなる。また、新しい人の流れも生まれる可能性を持っている。そのため、今回のプロジェクトには大きな期待を寄せている」(山野事務局長)と、地元から寄せられる期待も大きい。
アーティストという「人」の重要性
黄金町で行われている「アート」によるまちづくりは10年以上の長きにわたって行われている。それでもまだ、まちづくりは道半ばだ。その中で山野事務局長が気がついたのは「アート作品」ではなく「アーティスト」という存在の重要性なのだという。
黄金町の高架下では小さいイベント・ツアーが頻繁に行われ、違法風俗店が立ち並んでいた場所とは思えないほど開放的な空気になりつつある(筆者撮影)
「アーティストというのは地域に住むさまざまな人々をつなぐ。たとえばこのまちづくりにも賛成、無関心、反対とさまざまな人々がいる。その人たちと同じスタンス、フラットな立ち位置と付き合いができる。アーティストにはまちづくりのミッションはないからこそ、だからこそできることだ。地域の人々が受け入れるのはアート作品ではなく人間だ。そして間接的にわれわれがやっていることを示してくれてもいる。それはわれわれのように立場がある人間にはできないことだ」
山野事務局長は、黄金町のアートによるまちづくりが本格的に始まってからずっと福岡に奥様を残して黄金町を拠点に活動を続け、今も福岡に帰るのは年に2〜3回程度だという。そこまでして黄金町で活動している原動力と今後について尋ねてみると、次のような答えが返ってきた。「自分の中のテーマがあって、まだそこまでたどり着けていない。テーマが自分の腑に落ち、そしてほかのところにも応用できることを伝えられるまで黄金町にいるつもりだ。でも、私の代ではそこまでたどり着かないと思っている。だからテーマを投げ渡して伝えたいと思っている」。
黄金町の高架下を活用したアートによる活性化はまだ道半ばだ。そして今回のタイニーハウスホステル事業により、また新しい人がやってくる。地域にどんなインパクトが起き、アートによるまちづくりからまちの姿がさらにどう変化していくのだろうか。