慶應義塾 上田 誠監督 集大成の夏を迎えて

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 神奈川では渡辺元智監督に続き、もう1人の名将が勇退する。それが慶應義塾の上田誠監督である。上田誠監督が監督に就任して、慶應で何を築いたかに迫っていきたい。

慶應改革を断行した上田誠監督

上田 誠監督(慶應義塾)

 現在の慶應義塾の前身慶應普通部は、東京代表として1916(大正5)年の第2回大会では全国制覇を果たしている。しかし、その名門校は戦後になって神奈川に移転。法政二はじめ、横浜や東海大相模などが著しく台頭してきたということもあって、なかなか甲子園出場も難しくなってきていた。

 そんな慶應義塾の監督に上田 誠監督が就任したのが1991(平成3)年のことである。本人はいわゆる塾高出(慶應義塾高校出身のこと)ではない。神奈川県の進学校でもある湘南から、慶應義塾大に入学し、投手として野球部に入部していた。そして、英語教師として桐蔭学園や厚木東に赴任して、コーチや監督も務めていた。

 そんな経歴でもあり“純粋慶應”ではないが、「強いKEIOを作り上げたい」という思いは、格別だった。なかなか結果が出せない中、98年にはUCLAに野球のコーチ留学も経験した。専門分野の英語を生かして、原書を訳したりしながら、“エンジョイ・ベースボール”をコンセプトとして、ニューKEIOの野球を生み出していった。伝統校にありがちな縦の関係、悪い因習を排除しようというところから始めて、慶應大の現役学生にも積極的にコーチとしてサポートしてほしいという旨も伝えた。

 さらには、学校側にも交渉して、ある程度の選手獲得への優遇を図ってもらえるようにはなった。とはいえ、狭き門の慶應義塾高等部である。入試レベルで言えば、全国でもトップレベルである。中等部から内部進学で上がってくるよりも、はるかに難易度が高くなってきている。それでも、有望選手がいれば、受験指導などもしながら、選手獲得に尽力してきた。

 こうして、2003(平成15)年から、スポーツ推薦枠が設けられるようになり、入学希望者の成績がある程度は考慮されるようにはなった。とはいえ、ハードルの高さに変わりはなかった。それでも徐々に成果を出してきて、04年の秋季県大会で準優勝を果たして関東大会に出場。ベスト8に進出して浦和学院と戦い、延長14回日没再試合で敗れはしたものの翌年センバツ代表に選出された。

 上田監督としても、「推薦組と一般組が切磋琢磨し合っていくことは、野球にも勉強にもいい刺激をもたらすようになっている」と感じられるようになっていたところたった。

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上田 誠監督(慶應義塾)

 そして、43年ぶりの甲子園となった春(センバツだけで言えば45年ぶり)の甲子園では、初戦で関西と対戦して雨の中の試合となったが、点の取り合いの末に、8対7でサヨナラ勝ちした。さらに、2回戦でも福井商を3対1で下して、ベスト8にまで進出した。

 これで、「慶應復活」を力強く謳ったことになった。加盟校も全国最多で、最激戦区とも言われている神奈川の中でも、確実に上位に食い込む存在となっていった。それでも07年には秋季県大会で右の只野 尚彦、左の田村 圭の二本柱で準優勝を果たし、関東大会でも常磐、宇都宮南、聖望学園と下して決勝進出。県大会と同じ横浜との決勝となって、敗れはしたものの堂々の準優勝で、センバツ切符を手にした。

 甲子園では、21世紀枠代表の華陵に1失点のみで敗退してしまったが、その負けを夏につなげていった。第90回の記念大会となったこの年は、神奈川県は北と南の2代表が出場できるということも幸いした。最大の難敵でもあった横浜とは別の地区ということになったのである。

 とはいえ、北神奈川地区にも東海大相模や桐光学園、桐蔭学園に横浜商大高、武相などの甲子園経験校がひしめていた。4回戦では只野と田村の継投で神奈川工を完封すると、準々決勝では桐蔭学園を下して勝ち上がってきていた勢いのある川崎工を7対3で倒した。準決勝では、山崎 錬の本塁打などで桐光学園に5対2と快勝。そして、決勝では大田 泰示のいた東海大相模に延長13回に、山崎の2ランなどで3点を奪って撃破。

 大激闘を制した直後、「あ〜〜疲れた、こんな試合していると、野球が厭になっちゃうよ」と言いながらも満面の笑みを浮かべていた上田監督。テーマとしていた“エンジョイ・ベースボール”を満喫したともいえる表情だった。「10回やって1回勝てるかどうかという相手ですよ…。でも、夏は優勝しないと甲子園に行けませんからね、勝って行ってこその価値です」と、ついに46年ぶりの夏の甲子園出場を掴んだ喜びを語っていた。

 慶應義塾創立150周年、慶應商工と慶應普通部が統合して慶應義塾高校となって創立60年という節目も飾った優勝だった。

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[page_break:6年ぶりの甲子園出場を目指して]7年ぶりの夏の甲子園出場を目指して

慶應義塾・上田 誠監督(左)

 甲子園でも初戦で名門松商学園に6対4と46年ぶりの勝利を飾ると、2回戦では高岡商を田村、只野の継投で5対0と完封。88年ぶりの選手権2勝となったが、「夢のようだね」と喜んだ。

 そして3回戦も青森山田に2対0と完封。この試合も、巧みな継投だったが、7回途中から只野を送り出したことについて上田監督は、「田村がよかったので只野に代える決断は迷ったけれども、6回からの予定を引っ張ったので思い切って代えました。回の頭から代えたら力んじゃうんで、回の途中から代えてみたらどう…なんて、横浜の部長(小倉 清一郎)に言われたのでやってみたらよかったね」と、素直に他者のアドバイスも受け入れる姿勢が功を奏していた。

 こうした柔軟性もまた、上田 誠監督の指導スタイルだった。延長で浦添商に敗れはしたものの、ベスト8進出は慶應義塾の新しい歴史を刻んだ。

 その秋には、甲子園では控えの存在だった白村 弘明の成長とともに打線も爆発して、3回戦では東海大相模に8対1、準々決勝では桐光学園を7対0と完璧に下すなどで県大会を勝ち上がった。関東大会でも木更津総合(試合レポート)、前橋商(試合レポート)、習志野(試合レポート)を下して優勝し、明治神宮大会進出を果たした。「KEIOのユニホームは神宮では映えなきゃいけない」とばかりに、その後の明治神宮大会でも光星学院(現八戸学院光星・試合レポート)、鵡川(試合レポート)、天理(試合レポート)を下して明治維新140周年記念と銘打たれた明治神宮大会を制した。

「ちょっとミスもあったのに、それでも秋の日本一になれたのは気持ちいいですね。正直、夢みたいですよ。朝起きてみたら、やっぱり違いました…、なんて言われたりしてね」などと、とぼけてみせていたが、1、2年生だけで98人という大所帯。データ分析班なども含めて、全員に何らかの役割がある野球で“エンジョイ・ベースボール”は、完全に開花した。

 センバツでは初戦で島根の開星に屈したものの、慶應の野球スタイルは多くの高校野球ファンに改めてインプットされていった。夏は神奈川大会3回戦で桐蔭学園に不覚をとった。以降、甲子園からは遠ざかったままだが、最後の夏に向けて、上田監督は、「少しでも長い間高校野球がやれたらいいなぁと、そう思っています」と、謙虚に立ち向かっていくつもりである。

 なお、後任は学生コーチ時代から20年以上も上田監督を手助けしていて、現在は慶應幼稚舎(小学校)の教員でもある森林 貴彦コーチ(42)が引き継ぐことになっている。

(文・手束 仁)

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