(左から)小倉敦生、加藤光男、樋口大輝、櫛田一斗、ヴィタヤ、加藤好男、白木庸平
タイの経済発展とともに、Jリーグ開幕前夜を思わせる盛り上がりに沸くタイ・プレミアリーグでは、“日本流”が旋風を巻き起こしつつある。

その旋風の中心は、現在、リーグ2位につけているチョンブリFCだ。

今シーズンは所属日本人選手こそ櫛田一斗の1人だが、監督のヴィタヤ・ラオハクルはガイナーレ鳥取の監督、さらにJリーグ発足前にヤンマー、松下電器で選手として活躍したことでも知られる親日家。さらにGKコーチには第二次岡田JAPANのGKコーチでもあった加藤好男、アシスタントコーチの加藤光男、トレーナーには白木庸平、営業・広報には小倉敦生と、合計5人の日本人を擁し、海外のクラブでもっとも日本サッカーのカルチャーを取り入れていると言っても過言ではない。


■クラブの“日本化”を進めるヴィタヤ監督
ヴィタヤは、選手時代、タイ代表として、釜本邦茂を擁する日本代表相手に2発のフリーキックを決め、試合後、釜本から「日本でやってみないか」と誘われたという。ヴィタヤはその誘いに応じ、1977年からヤンマーでプレー。その後、ドイツやタイのクラブでプレーし、86年からは松下電器〜ガンバ大阪でも選手・コーチとして在籍した、タイ・サッカー界の第一人者である。

ヴィタヤは日本人を重用する理由を問われると、「日本人が持つ規律をクラブに浸透させたいから」「Jリーグが開幕した頃、ガンバ大阪にいたアレイニコフのように、チームのお手本となる規律ある選手が必要なんだ」と、流暢な日本語で答えた。

もともとタイ人選手は練習嫌いで、かつては練習に来た選手に“お小遣い”が与えられていた。現在もその風習の名残で、選手の報酬は練習に参加した“お小遣い”を含んだ形になっている。

そんな規律に欠けるタイのサッカー文化は、選手として世界を見たヴィタヤには大いに不満だった。また、欧州やアフリカ出身の選手にも、一部にタイ人よりも規律のない選手がいたことから、2011年の監督就任以降、クラブの“日本化”を先頭を切って進めてきた。

■リーグを代表する選手に成長した櫛田一斗
監督から“お手本”と指名された形の櫛田一斗はボランチの選手で、大学卒業後、JFLの佐川印刷SCで2シーズン過ごしたあと、2011年にヴィタヤ監督に誘われた樋口大輝(2012年からウアチョン・ユナイテッドへ移籍)とともに、チョンブリFCへとやってきた。

タイ人の中盤選手は、前掛かりになりがちで、攻撃時は中盤に「櫛田しかいない」といった状況が試合中に何度もある中、攻守のバランスを上手く取り、チョンブリFCには欠かせない不動のレギュラーとなった。今シーズンは、公式戦連続50試合フル出場のタイ・プレミアリーグ記録を樹立するなど、リーグを代表する選手に成長している。

日本人選手は、「バランスを取ってばかりでゴールへ向かう気持ちが足りない」と指摘されることがあるが、攻撃好きの多いタイ人選手の中にあっては、むしろ日本人の特徴は貴重な強みだ。

櫛田のような、評価の高い外国人選手は報酬面でもそれなりに優遇される。さすがにJリーグと同じ水準というわけにはいかないが、タイの物価を考えると、平均的なJ2選手よりは、ずっと楽に生活できる。

また、リーグ上位チーム同士の対戦ともなれば、観客の盛り上がりも凄まじく、櫛田も「大勢のお客さんの中でやれるのがほんとうに嬉しい」と、プロ選手としての幸せを噛み締めている。


■岡田JAPANを支えたGKコーチ 加藤好男
GKコーチの加藤好男は、2010年W杯後、ヴィタヤに誘われ、2011年にチョンブリFC入りした。

加藤は岡田JAPANのGKコーチとして2010年W杯ベスト16入りに貢献し、日本のGKコーチとしては頂点を極めたと言っていい。実際、W杯後は様々なクラブから誘いがあった。その誘いを断って、タイで次なる挑戦を始めたのは、「日本では選手に『海外にどんどん行けよ』と言っていたけど、自分が日本でしかやったことがないのなら説得力に欠けるんじゃないかと思っていた」という理由からだ。

ヴィタヤとは、加藤が大阪商業大学でプレーしていた学生時代から、ヤンマーとの練習試合で幾度となく対戦した旧知の仲。加藤は時にはヤンマーの練習にも参加することがあったため、年齢の近い両者はお互いに若い頃から意識しあっていたという。

練習では、キャッチングだけでなく、足を使ったトレーニングもみっちり行い、フィールドの選手を交えたポゼッションの練習ではゴールマウスの後ろからGKの動きを厳しくチェックする。その姿にヴィタヤは「今、加藤が厳しくチェックしてるでしょ? あれが加藤のいいところネ。タイ人コーチだったらどこかに行って休憩してしまうヨ」と、絶大な信頼を寄せる。

また、「俺は代表のコーチをやっていた頃から、誰がレギュラーだとか、サブだとかを区別して指導したことはない。みんな横一線」とし、競争意識の活性化にも余念が無い。

その甲斐あってか、チョンブリFCのGKコーシン(Sinthaweechai Hathairattanakool)は、2011年のリーグ最優秀GK賞を受賞。加藤の指導が早くも結果となって表れた格好だ。


■「規律こそ日本人の強み」 加藤光男
父・加藤好男を追って2012年からチョンブリFCのアシスタントコーチとなった加藤光男は、タイ人選手のポテンシャルに少々驚いたようだ。

「タイ人選手は技術はある。判断力、規律は日本人のほうが上だが、フィジカルも日本人と比べると決して弱くない。将来、タイはアジアの中でも怖い存在になりますね」

早稲田大学のコーチなどを経て、チョンブリFCへとやってきた加藤光男は、対戦相手の分析も手がけており、日本とタイの“差”をひしひしと感じる日々が続いているという。

「タイ人は練習ではゆるやかな空気でやっているのですが、試合になると豹変します。ゲームの中で、ゴールに向かう動き、仕掛ける数は日本人より多いです」

タイで日本人選手が評価されている理由を尋ねると、「規律ですね」と即答した。

“規律”は多くの日本人選手が当たり前に持っている要素だが、タイでは日本基準の“当たり前”が評価の対象になる。タイ・プレミアリーグは日本人が評価されやすいリーグである、と言えるかもしれない。


■海外挑戦する柔道整復師 白木庸平
「柔道整復師」の肩書きを持つトレーナーの白木庸平は、同じ高校に通っていた櫛田一斗に誘われる形で、2012年、チョンブリFCへとやってきた。

もともとサッカー関係の仕事をしていたわけではなく、「日本人のトレーナーで誰か良い人はいないか?」とチームからリクエストされた櫛田が白木に声をかけた時、「ちょうどタイミングよくチーム入りできる状況だった」のだという。

試合には必ずベンチ入りし、選手が痛めば、ダッシュで駆けつけ、練習後には選手に丁寧なマッサージを施す。その腕前は評判で、今年からウアチョン・ユナイテッドに移籍した樋口大輝が、バンコク近郊に立ち寄った際にわざわざ白木のマッサージを受けに来るほどだ。

「柔道整復師」は日本でのみ有効の資格だが、実は様々な活躍の場があることを、白木の海外挑戦が証明したと言えるだろう。


■異色の経歴を持つ裏方 小倉敦生
営業・広報としてチョンブリFCを支える小倉敦生は、異色の経歴の持ち主だ。日本サッカー協会・小倉純二名誉会長の長男でありながら、「親の七光りと思われるのが嫌だった」という理由で、日本ではサッカー関係の職に就くことはなく、チョンブリFC入りするまでは、タイ・バンコクのIT企業で営業マンをしていたという。

「父親からはタイで何をやってるんだ? 早く日本に帰って来いと言われることもありました」というが、そんな父に反発するかのようにタイで仕事のキャリアを重ねていた折、AFC(アジアサカー連盟)の職員と知り合い、その縁から2012年、チョンブリFC入りが決まった。

「日本では“親の七光り”は悪いことのように思われますけど、海外に出てみると、ドヤ顔の“親の七光り”は沢山いるんです。そういう連中を見ているうちに、自分も堂々と好きな事をやろうと思うようになりました」と、チョンブリFC入りの理由を語った。

選手の海外挑戦は、いまや珍しくも何ともない時代だが、小倉のように営業・広報として海外のクラブで働く日本人は非常に珍しい。過去にあまり例のないことだけに、実際の業務は“想定外”の連続だった。例えば、小倉がチョンブリ入りした当初は、誰がクラブの職員で、どの役職なのかが明瞭でなく、AFCに提出するためのクラブ組織図の作成に2ヶ月を要したという。タイでは日本や欧州のような「組織」が存在しないこともあるのだ。

また、タイ・プレミアリーグは突然の日程変更が多いにも関わらず、クラブ内ではスケジュール共有もなされておらず、たまりかねた小倉はクラブハウスの廊下に大きなカレンダーを貼り出した。当初は怪訝な顔をしていたクラブ関係者だが、いまや監督以下、多くのスタッフから「便利だね」と言われるようになったという。

こうしてクラブ内で小さな革命を積み重ねている小倉が、いま、ひそかに期待を寄せているのは、Jリーグと東南アジア各国リーグの人材交流だ。

「Jリーグのトライアウトをタイでやれば面白いのにと思っているんです。タイ人は日本の入国にビザが必要で、日本でトライアウトや練習に参加するのは簡単ではありません。しかし、タイ代表クラスの選手ならJリーグでやれる可能性もあるのに、と思うのです」とヴィジョンを語る。

実際、2012年のACL1次リーグでは、ブリラム・ユナイテッドが柏レイソルに勝利していることからもわかるように、タイ・プレミアリーグのレベルは近年、上がっている。アジア各国、様々な国籍のトップ選手がJリーグを目指すようになれば、サッカー関係者のアジア各国への行き来はさらに活発化するだろう。高校卒業後、Jリーグ入りするも数年でひっそりと引退してしまうような選手の受け皿も見つけやすくなるかもしれない。それだけでなく、広いアジアでサッカーを通して日本をアピールする、大きなきっかけになる可能性すら秘めている。


■“日本人ブランド”を掲げアジアで奮闘
チョンブリFCはAFCカップ準々決勝で、 ヨルダンのアル・ショルタを破り、ベスト4に進出した。10月23日にはイラクのアルビールと、ホームで決勝進出を賭けた大一番を迎える(アウェーでは1-4で敗戦)。

親日家の監督と5人の日本人を擁し、“日本流”を取り入れたチョンブリFCの活躍は、“日本人ブランド”の価値に直結する。アジアの舞台で奮闘する彼らが、どこまでのし上がれるか、もっと多くの日本人に知ってほしいと願わずにはいられない。

【タイ・プレミアリーグ関連情報】
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