『樋口一葉 たけくらべ/夏目漱石/森鴎外』 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集13)河出書房新社
解題・参考資料=紅野謙介、月報=高橋源一郎+水村美苗、帯装画=浅野いにお。

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池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》(河出書房新社)第1期第3回配本である第13巻『樋口一葉 夏目漱石 森鴎外』の収録作は
・樋口一葉『たけくらべ』(1896、川上未映子新訳)
・夏目漱石『三四郎』(1908)
・森鴎外『青年』(1911)
の3篇。
『たけくらべ』は子どもから青春期にさしかかろうという年ごろの美登利と信如の恋愛以前の交流を物語る短篇小説だ。
この作品は文語体で書かれた。現代語訳には前例がある。早くも1950年代には、児童向けの文学全集で現代語訳が試みられている。
平成期に入ると、大人だって現代語訳というか言文一致体で『たけくらべ』を読みたい。一葉没後100周年の1996年から翌年にかけて、
●《現代語訳樋口一葉》全4巻(河出書房新社)
で、角田光代・島田雅彦・松浦理英子・阿部和重・多和田葉子・藤沢周・井辻朱美・伊藤比呂美・篠原一・山本昌代といった文学者がかずかずの一葉作品を現代語訳した。のちにここから河出文庫版の『たけくらべ』『にごりえ』が編まれた。

 それ以後も現代語訳は続く。
・角川ソフィア文庫《ビギナーズ・クラシックス》近代文学編『一葉の「たけくらべ」』(2005、現在はKindle版)
・歌人の秋山佐和子による『現代語訳 樋口一葉』(2005、山梨日日新聞社の《山日ライブラリー》という新書レーベルから出ている)
・教育ジャーナリストの山口照美による『現代語で読むたけくらべ』(2012、理論社)
などが近年の例だ。
(山口訳を含む理論社の《現代語で読む名作シリーズ》は、漱石の『坊っちゃん』や伊藤左千夫の『野菊の墓』、有島武郎の『生まれ出づる悩み』といったもともと言文一致体で書かれていた作品の「現代語訳」もある。ちょっと気になる)

さて今回の川上訳『たけくらべ』がどうなのかは、もう読んでみてほしいとしか言いようがない。たとえば末尾の部分を、まずは原文で読んでみよう。
〈或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの學林袖の色かへぬべき當日なりしとぞ。〉

これを川上はこう訳す。
〈ある霜の降りた朝のこと、水仙の作り花を、格子門の外から差して入れて行った人がいた。それが誰のしたことなのか美登利には知りようもなかったけれど、どうしてなのか、懐かしいような、よく知っているような気がして、違い棚の一輪挿しに入れて淋しく清らかなその花を見つめていたけれど、聞くともなしに伝わってきたのは、その翌日は、信如がどこかの学校に入って袖の色をかえてしまった、まさにその日であったこと。〉

どうだろうか。この〆は読んでいてちょっとため息が出るような仕上がりではないだろうか。気になるかたは河出文庫版『たけくらべ』の松浦理英子訳と読み比べる楽しみもあるだろう。

東大本郷キャンパス内の池「三四郎池」に名を残す漱石の『三四郎』では、福岡県生まれの小川三四郎が熊本五高を卒業して東大に進み、野々宮先輩や友人の与次郎、一高の英語教師広田といったさまざまな人たちと出会う。そして広田の友人の妹である美禰子(みねこ)に惹かれていくけれど、最終的には結ばれない。
主役を含むこれらの登場人物たちは、漱石の弟子である独文学者で批評家の小宮豊隆をはじめ、漱石自身の周囲の人物をモデルにしている。
鴎外の『青年』は、その『三四郎』を意識して書かれたという。山口県から上京した作家志望の小泉純一が、作家の大石、同郷の友人・瀬戸、医学生の大村といったさまざまな人たちと出会う。そして劇場で出会った坂井未亡人に惹かれていくけれど、最終的には結ばれない。
類似をわざと強調する書きかたをしたけど、そうするまでもない。新しい環境にデビューした若者は男女を問わず、友人や先輩や師匠格の人と出会うものだし、告白にすら至らない恋だってしてしまう。
これが青春漫画だったらたいていは結ばれて(か、まれにひどい振られかたをして)終わるのだけど(たとえば『めぞん一刻』)、小説というのは表面上なにも起こらないけど内心は怒濤逆巻く青春の時間を書くのに向いている。

そういうわけで、明治の新出発で更新された若い日本にふさわしい、広義の青春恋愛ものが、この巻ではセレクトされている。
当初川上訳『たけくらべ』だけを読むつもりだったのが、結局全部読み直してしまいました。(『たけくらべ』が原文でよければ)3作とも各社の文庫本や青空文庫で読めるものだけど、ハードカヴァーの大きなフォントが瑞々しく感じられさえして、新鮮な感じで読み終えた。本文もだいじだけど、パッケージも小説のイメージを左右するものなのだ。
(ちなみに第1巻『古事記』では脚註がついていたが、この間では左頁の左端に柱註がついている)

このたびの池澤編全集は全30巻中第13巻から第29巻までの17冊が近代文学に宛てられている(第30巻『日本語のために』は日本語表現のサンプル集+論集になると言われている)。
その17巻のうち、第25巻までの13冊が、文学者の個人名を冠した巻。第26巻から第29巻までの4冊が『近現代作家集』(I、II、III)と『近現代詩歌』というアンソロジーだ。
だから、アンソロジーには明治の作家もきっと登場するだろう。
けれど、この第13巻の池澤による解説はいきなり乱暴なはじまりかたをする。

〈明治期の文学をこの三人に代表させる〉

そうなのだ。代表させちゃったのだ。
拙著『読まず嫌い。』(角川書店)で書いたように、文学全集という商品はもともと、近代日本の「文学史」が通念として共有され信用されていた時代の名産品だった。『国語便覧』とかに載っているそんな「文学史」自体、僕を含む多くの人にはもはやどうでもいい存在に成り果てている。
だから、そういう「文学史」でメジャーなあつかいを受けている明治の文豪、たとえば──
僕らがいま使っている、日本国憲法にも使われている「言文一致体」を最初に作ったと言われる二葉亭四迷も、
『金色夜叉』のメディアミックス大ヒットでいまも熱海に貫一・お宮の像が残る尾崎紅葉も、
の弟子で芸者とお化けを書かせたら随一と言われる泉鏡花も、
自分の体験を赤裸々に書く(あるいは、そのように見せる)告白文学・暴露本文学としての私小説の世界の最初のスター・田山花袋も、
詩人から社会派作家へ、そして社会派からその私小説作家へと鞍替えした島崎藤村も、
デビュー時には洋行帰りで反骨精神も露わだったあの永井荷風も、
──明治のほかの文豪はだれも、この新しい全集では作家名のついた巻を割り当てられていない。

続く第4回配本(第17巻)の解説で〈名を付けた巻を立てなかったからといってその扱いが軽いとは限らない〉
と書いてもいるのだけど、それはそれとして、名前が表紙に、そして背表紙に出る作家は、一葉・漱石・鴎外の三人だけなのだ。池澤の編集方針はまた、「池澤史観」なのかもしれない。

では次回、第4回配本『堀辰雄 福永武彦 中村真一郎』で会いましょう。
(千野帽子)