秋季大会で見つかった課題を、一つひとつ確認しながらのこの時期の試合

 前日は雨が降り続いたということもあって、いくらかグラウンドが緩かった。したがって、シートノックは省いてサイドノックのみということで試合をはじめたものの、予定通りに試合を行うことが出来た。

 この日は、駒澤大学厚木グラウンドへ青山学院が訪れるという予定で組まれていたのだが、これに急遽、前日雨で試合が出来なかった関東一が加わった。ことに、関東一の場合は、先週の秋季東京都大会の準々決勝(試合レポート)を勝ち上がったことで、まだ秋季大会中である。だから、来週の準決勝へ向けての調整がメインという戦い方となったのは当然だ。

 毎年秋の今の時期に、日大鶴ヶ丘の萩生田博美監督などが音頭を取る形で関東一や国士舘、駒大高、青山学院といった東都大学野球連盟出身の指導者や関連校などを中心に創価、千葉明徳なども参加して行われている交流試合。通称“海坊主交流戦”などと呼ばれている。今週と翌週の日曜日に行われている。

 先日は、そのレセプションも開催されて各指導者たちが集合して、秋季大会の反省をしたり、近況を語りあっいた。

青山学院vs駒大高

 世田谷区に学校のある駒大高だが、都会にある学校の常として、グラウンドは極めて狭い。そこで、母体の学校法人の方で用意してくれたのが、厚木市の駒澤大学の敷地で、そこに専用球場があるのだが、いかんせん遠い。新宿から小田急の急行で40分ほどかかる本厚木から、さらにバスで約20分ゆられて、光福寺というところで下車して山へ向かって小道を上るようにして歩いて5分でようやく到着する。学校からだと2時間以上かかるだろう。そんなこともあって、使用しているのは土日の練習と夏休みも春休みといった時期だけである。

 それでも、専用球場を確保してもらえているということで、新井塁監督は、「贅沢を言ったらきりがありませんから、自分たちの専用球場があるだけでも十分に満足ですよ」という気持ちだ。そして、そのグラウンドの外野には手作りで、天然芝を徐々に植え込んでいるという。まだすべてに埋まっているわけではないが、当初は雑草が生えていて、ゴロが転がると草の生え際などに当たると、とんでもないところへイレギュラーしてしまうということもあったようだ。そんなグラウンドに、一つずつ芝を張っていくことで、グラウンドに対する愛着もまた増していくのだという。そんな思いを伝えていくのもまた、高校野球なのだと思わせてくれた。

 駒大高は現在3年生が20人、2年生36人、1年生27人というかなりの所帯である。その一人一人にグラウンドに対する思いが大きくなっていって欲しいという思いである。また、青の練習試合用ユニフォームを着用しているが、これも、大学と同じデザインで白地に青で「KOMAZAWA」と書かれた公式戦ユニフォームは、その格と重さを感じてもらうためにも、よほどの遠征試合ではない限り使用しないようにしているという。つまり大学と同デザインのユニフォームを着られる喜びと誇りを、それを身に着ける際には、より強く感じて欲しいからだということだ。

関東一vs駒大高

 一方、青山学院は大学野球部から古くなったユニフォームを下がり受けることで大学との一体感を味わえることになっている。「体格や体型に合わせて貰っているので、ユニフォームの背番号は関係ないですよ」と、安藤寧則監督は笑いながら言うが、当初は東都一部の大学野球部とはまったく疎遠なくらいに、別の存在で弱小チームだった時代が長かった。それを、青山学院大在学中から学生監督として野球部の要請で就任した安藤監督の情熱で、東京都でも中堅以上の有力校に作り変えてきたのである。その意識の現れの一つとしても、大学のユニフォームを着用していくことに意味があるということであろう。

 大学が東都の強豪同士の系列校対決、こうしたユニフォームにまつわるエピソードだけでも、それぞれの事情があるのである。

 試合は、青山学院が期待の大塚君がチェンジアップのようなタテの抜き球を駆使して好投していたが、随所で倉田君、坂本君、萩君といった中軸などに長打の出た駒大高が、ことごとくそれが得点に絡んで優位に試合を運んだ。大塚君は6失点しながらも完投したが、駒大高は予定通りの3人の継投だった。

 続く試合は、関東一が、さすがに秋季大会ベスト4に残っている実力を示して、初回から打ちまくった。また、駒大高は大会からほとんどポジションをチェンジして、いろいろ試してみている時期ということもあって、失策も多く出てしまった。その差が、これだけの大差になってしまったのだ。

 ただ、スコアには関係なく、関東一の米澤貴光監督は、「試合では、一つひとつの打席は、やはり大事ですから、どういう形でやっても、打席に立たものは、自分の結果を出さなくてはいけないし、いい形で終われなかったら反省もあるはず」と、大差になった場合でも、決して気を抜いていってはいけないということを強調していた。

(文=手束 仁)