ノーベル賞の中村修二さん“妻のため内定辞退”の意外素顔
「家族とは生活の喜びです」とかつてテレビで語っていたのは、中村修二さん(60)。青色発光ダイオードの発明でノーベル物理学賞を受賞した、いまや時の人だ。
発明の対価を求めて勤務先だった日亜化学工業を提訴し、その後、8億4千万円で和解。「サラリーマン技術者に、企業は正当な報酬を支払うべき」という前例を作った。“戦う人”のイメージが強い彼だが、徳島大学時代の恩師・多田修名誉教授は「彼は、優しいやつなんです。特に、あの頃はそうでした」と語る。
大学3年生のときに参加した学園祭のダンスパーティで妻となった裕子さんと出会い、恋に落ちた中村さん。大学院修士1年生のときに学生結婚すると、まもなくして長女が誕生。同級生の裕子さんはすでに幼稚園教諭として働いていた。彼女は長女の子育てをしながら家計を支え、大学院で学ぶ夫を支えたという。
そんな彼の転機は就職だった。当時の彼は「大都会に出て就職したい」と燃えていたが、徳島に残ることに。その理由を多田教授が明かす。
「彼は業界大手の京セラに内定していて、就職すると思っていました。でも入社を控えた3月頃に辞退したんです。というのも、奥さんが勤めていたのは徳島でも人気の幼稚園。彼女は『このまま徳島で幼稚園の先生を続けたい』と考えていたようです。でも彼が京セラで働くと、京都に引っ越さなければならない。だから彼は奥さんの気持ちを優先して諦めたようです。突然のことで、彼は何も将来のあてがない状態でした」
結果、多田教授の紹介で徳島の日亜化学工業へ就職した中村さん。もしこのとき自分の意思を優先していたとしたら、世紀の大発明は生まれていなかったかもしれない。「怒りが研究の原動力」と中村さんは言うが、その研究人生はいつも家庭優先だったーー。
発明の対価を求めて勤務先だった日亜化学工業を提訴し、その後、8億4千万円で和解。「サラリーマン技術者に、企業は正当な報酬を支払うべき」という前例を作った。“戦う人”のイメージが強い彼だが、徳島大学時代の恩師・多田修名誉教授は「彼は、優しいやつなんです。特に、あの頃はそうでした」と語る。
そんな彼の転機は就職だった。当時の彼は「大都会に出て就職したい」と燃えていたが、徳島に残ることに。その理由を多田教授が明かす。
「彼は業界大手の京セラに内定していて、就職すると思っていました。でも入社を控えた3月頃に辞退したんです。というのも、奥さんが勤めていたのは徳島でも人気の幼稚園。彼女は『このまま徳島で幼稚園の先生を続けたい』と考えていたようです。でも彼が京セラで働くと、京都に引っ越さなければならない。だから彼は奥さんの気持ちを優先して諦めたようです。突然のことで、彼は何も将来のあてがない状態でした」
結果、多田教授の紹介で徳島の日亜化学工業へ就職した中村さん。もしこのとき自分の意思を優先していたとしたら、世紀の大発明は生まれていなかったかもしれない。「怒りが研究の原動力」と中村さんは言うが、その研究人生はいつも家庭優先だったーー。