「人間はみんな一緒」スズキを5兆円企業に育てた鈴木修の"中小企業のおやじ交渉術"に滲む器の大きさ

■「これ以上、俺に言わせるな」
2002年に日産が軽自動車に参入することで、OEM(相手先ブランドによる生産)供給するスズキは生産台数が増加する。つまり、工場の稼働率を引き上げられる。
両社の提携について、ライバルメーカーは当時どう見ていたのか。軽を生産するあるメーカーの国内販売担当役員はこう言い放った。
「そりゃ、スズキのほうが得したよ。いくら世界のゴーンといえど、相手はあの鈴木修さんだぞ。海千山千の……。これ以上、俺に言わせるな」
また、別のメーカー系販社社長は、「日産には、利幅が薄い軽を売るノウハウがない。一方、メーカーとしてのスズキにとっては工場の稼働率アップにつながる。しかし、日産がスズキ製の軽を売ることで、スズキにとっての生命線である業販店の売り上げが食われてしまう。両刃の剣になる」と指摘する。
■OEMによる影響はなかった
鈴木修は、第一部の営業幹部研修会でも、第二部での販売店大会でも、日産に供給するのは一車種のみということを強調した。
「日産の軽がたくさん売れたらどうしましょう、という心配もあるでしょうが、もっと自分の腕に自信を持つべきです。これまでスズキは業販網で実績があるのだから」と営業幹部には話し、業販店に対しては
「日産の乗用車とスズキの軽を持っている客は少ない。日産は来年初頭から売り出すが、みなさんにはもう少し早く提供しますから、新規客開拓のチャンスです。カローラは登録車で一番売れて年間16万3000台。だが、ワゴンRは年間24万台も売れているのですから」と具体的な数字(いずれも2000年)を示しオヤジさんたちに自信を持たせた。
では、現実はどうなったのかといえば、日産の2002年度の軽販売実績は4万7356台。月間平均ではほぼ4000台となり、「月3000台程度」を上回った。それでも、業販店から鈴木修への批判は、表だっては出なかった。
■フランスのエリートVS元カミカゼ
スズキと業販店のなかの、特に副代理店とは、“持ちつ持たれつ”の関係を構築しているからである。後に詳述するが、スズキは副代理店の子息を、スズキに入社させているのだ。スズキで働く期間は5年から人によっては10年。実務を身につけてもらう、ある種の研修制度だ。息子である後継者をメーカーが教育してくれることは、父親である副代理店の社長にとっては何よりありがたい。
スズキに働き学んだことを、息子は自社に戻り役立てていく。「3代にわたって知っている副代理店も少なくない」と鈴木修。
この一方、工場の稼働が上がり人が足りなくなると、副代理店はサービスマンを湖西工場などスズキの工場に派遣して、人手不足の穴を埋めていく。
日産自動車の富井史郎常務(当時)は、鈴木修について次のように話した。
「自分で判断し行動できる、日本では希有な経営者でしょう。セールスマンとしても一流。即断即決ができるという点では、ゴーンに似てると思います」
“コストカッター”の異名を持つゴーンと、「ハート・ツー・ハート」の人間関係を何より重視する経営者の鈴木修。
片やフランスの名門エコール・ポリテクニーク卒業に対し、こなた元カミカゼ。対極に位置するように見える二人の経営者だが、実は共通項はある。一つは富井の指摘のように即断即決ができ、もう一つはともに現場主義者であることだ。
現場を軽視するカリスマ経営者なら、社長室にこもり、人事権を背景に“裸の王様”として君臨するだろう。だが、二人は現場に赴き、積極的にコミュニケーションを取る(ゴーンも、日産リバイバルプランを実行中だったときは、現場を頻繁に訪れる経営者だった)。
問題は、コミュニケーションの手法だ。鈴木修の場合、上意下達に徹したり、一方的に質問を浴びせるばかりではなく、時には相手の立場や目線に合わせて本音を引き出していく。その本音の中から、ソリューションを提示していく。相手の本音が出た時点で、いわゆるハート・ツー・ハートは成立する。
もっとも、カリスマ経営者に共通するが、「(鈴木修は)朝令暮改ではなく、朝礼昼改だった」と、多くのスズキ幹部はいまも口を揃える。
■「会社の金にはいっさい手を付けなかった」
一方で、鈴木修と1974年から50年の付き合いがあった秋田スズキ会長の石黒寿佐夫(すさお)は言う。
「修さんはカリスマではない。私のような立場でも、言いたいことは言えるし、やりたいこともやってきたから。(鈴木修から)怒られるのを覚悟で、スズキ仕様ではない独自設計のショールームを作ったこともありました。
しかし、修さんと接したことも話したこともない数多くの関係者にとって修さんは、“雲の上の人”であり、気がつけばカリスマ的な存在になっていったのです。修さんの実像は、口うるさくて厳しいけれど、面倒見の良いオヤジさん。義理深いんです」
秋田スズキは、スズキの資本が入っていない秋田県の四輪と二輪の総代理店。特約店への卸機能と、「アリーナ店」の看板を掲げ一般顧客への販売機能をもっている。
石黒佐喜男が1954年、秋田市内に創業。佐喜男の長男で51年生まれの寿佐夫は、94年から2024年まで社長を務めた二世経営者だ。
「修さんは廉潔な人。公私をきちんと分けます。大好きなゴルフでは、ウエアもクラブも同じものを何年も使い続けていた。会社の金には、一銭も手をつけない。だから、みんな修さんを信頼した。
会社を私物化したゴーンとは、ここが決定的に違います」、と石黒寿佐夫。
浜松市が政令市移行前の2005年、市長の諮問機関として設置された行財政改革推進審議会の会長に鈴木修は就任した。会長職を2期4年間務め、12市町村が合併した後の行財政改革に深く携わった。同時期に同審議会の委員を務めた浜松市内の酒販店店主は、こんな証言をする。
「修会長はあれだけの大企業のトップでありながら、贅沢していないんですよ。私たち庶民と同じように、納豆とか食べている。とても気さくな方で、威張ったりもしなかった」
自動車産業では後発であり、「浜松の中小企業」(鈴木修)であるスズキは、激動する自動車業界にあって単独での生き残りは難しく、大手との提携を重ねてきた。戦国時代の真田氏のように。
■「トップダウン・イズ・コストダウン」
「ボトムアップ・イズ・コストアップ。トップダウン・イズ・コストダウン。スズキ・イズ・トップダウン。イッツ・ソー・ファスト」
97年秋、東京モーターショーのため来日していたジャック・スミスGM会長(当時)に、ミーティングの席で鈴木修は、簡単な英語でこう叱責した(東京の寿司屋で叱責したという説もある)。このとき、スズキのハンガリー工場とGMポーランド工場の双方で生産する共同開発車計画が浮上していたが、スミス会長は鈴木修の提案を持ち帰っては幹部と相談してばかりで、なかなか合意できないでいた。
そこで、鈴木修が、「早く決めろよ」とばかりに催促した。すると、スミスはすぐに決断し、計画は具体化されていった。
スズキとGMの資本提携は1981年。1989年からはカナダに建設した合弁工場で小型車の生産を始めた。スミスと鈴木修の仲がいいことは有名。01年6月にスミスはスズキの非常勤取締役に就任する。スミスも、2000年6月にスミスから最高経営責任者(CEO)職を禅譲されたリチャード・ワゴナーGM社長(当時)も、かつてカナダ工場を担当した経験を持つ。
「運なんだよ。当社と関わりの深い二人が、GMの中枢に上っていったのだから」と鈴木修。

■経営にとって、赤字は悪である
GMがスズキの出資比率を10%から20%に引き上げるとした2000年9月の共同会見の席上で、「GMの傘下に入る」と、鈴木修は旗印を明確にした。だが、スズキはあくまで自主独立であるという点を強調する。
精神面での自主独立ならともかく、GMの出資比率の拡大により、スズキの独立性は低下する。スズキに対するGMの所有率は上がったからだ。
この点を、鈴木修は筆者に次のように語ったことがある。
「みんな左前になってから傘下入りするから、決定権がデトロイトやパリに移ってしまう。スズキは黒字だから、(連結対象でも)浜松で決められる。だからいつも黒字でいることが大事なんだ。経営にとって、赤字は悪である」、と。
一方、ゴーンに対してはこの日の夜、筆者に次のように話した。
「ゴーンはまだ40代。若いから、勢いでもっていっている。ワゴナーは同世代だが、ゴーンのようにせっかちではなく、おっとりしているというのか、落ち着いている。スミスになると、熟練の域だな」
どうも、初対面だったこの頃から、鈴木修はゴーンという人間に対しては、懐疑的に見ていたようだ。鈴木修がよく言う、自身の「カンピューター」が、「この男とは距離をとれ」と指令を出していたのかも知れない。
■トヨタをけん制するための日産との協業
この頃、軽市場でスズキはトヨタ・ダイハツ連合と熾烈な販売競争を繰り広げていた。しかもトヨタは、登録車に比べて税額が低い軽自動車税の優遇面を無くしてしまおう、と動いていた。

それだけに、急速に経営再建されつつあった上、軽に参入する日産と協調していくのは得策にも思えた。商品ポートフォリオ上でも、両社はほとんど重ならない。
しかし、鈴木修はいつも人物を見て物事を判断していた。状況(特に短期的な)ではなく、人の“奥行き”までも心で見ていたのだ。
GMとの資本提携は、GMの経営破たんに伴い2008年11月に解消されてしまう。カナダの合弁工場からも、スズキは撤退していく。
2001年の頃は、最良であり最強のパートナーの元、安定という名の密月にあった時代だった。
一方で、ハート・ツー・ハートが裏切られたとき、鈴木修は強大な相手に対しても闘いを挑む。
1997年、スズキはインド政府と、合弁会社でインド最大の自動車メーカー「マルチ・ウドヨグ社」(現在のマルチスズキ)の社長人事をめぐり激しく対立。スズキは提訴まで行ったが、ゼロを開発した大国を相手に日本の一民間企業が喧嘩をした格好だ。背景には、インド政権の混乱があったが、翌年の新政権発足により両者は和解した。
「インドの自動車産業を育てたのはスズキだ、という思いがあった。どんな相手でも筋はきちんと通さなければ。インドにも応援してくれる人もいて、国や言語が違っても、誠意は通じる」と鈴木修。
その後も、GMに代わり資本提携した独フォルクスワーゲン(VW)と、提携解消を巡り法廷闘争を繰り広げた歴史がある。
秋田スズキの石黒寿佐夫は言う。
「カッコよく言えば、修さんは(映画)ゴッドファーザーに登場するドン。忠誠を誓う人をマメに面倒みる反面、理不尽な仕打ちに対しては徹底して牙を剥く。インド政府やフォルクスワーゲンといった、敵がどれほど強大であっても」、と。
「情の人」か「理の人」かと問われれば、鈴木修は間違いなく前者である。だが、やられたら、徹底してやり返す。筋を通して。
サラリーマンの“三倍返し”などとは、違う次元で。
■「当たり前だよ。忘れてないよ」
仙台ロイヤルパークホテルの宴会場で、業販店の懇親会が始まった。この日のクライマックスである。鈴木修をはじめスズキ関係者は、下座の円テーブルに陣取る。
筆者は鈴木修の隣席に着座した。乾杯と簡単な挨拶を済ませると、前菜に一口だけ箸をつけただけで、「さて、行くか」とアサヒスーパードライのビール瓶を手にして鈴木修は立ち上がった。競技場を走るアスリートのような機敏な動きだ。隣の円テーブルに歩み寄り、挨拶をしながらビールを注ぎ始める。
と、そのとき、「会長!」と、鈴木オートの鈴木三千が、発泡スチロールの箱を抱えて鈴木修を呼び止めた。
「覚えてますか。21年前にホテルDで新年会をやったときにお会いした鈴木です」
「おお……」
鈴木修はビール瓶をテーブルに静かに置くと、おどおどと話しかけた鈴木三千の目を正視しながら、右腕を筋肉質の三千の右腕に絡ませていく。短い沈黙が過ぎ、「会長、海鞘好きだったから、早起きしてうまそうなの買ってきたんだ」と、三千は足下に置いたばかりの発泡スチロールに目をやる。
「思い出したよ。麻雀部屋にいた鈴木さんだね。海鞘をごちそうしてくれた」
「あっ、やっぱり覚えていてくれたんだ。21年ぶりなのに」
「当たり前だよ。忘れてないよ」
弾けるように三千が白い歯を見せたときには、固い握手が交わされていた。それにしても、21年前の小さなやりとりの記憶を、一瞬にして蘇らせる鈴木修とは、本当は怪物なのか……。人間業とは思えない記憶力である。
■「ご飯とタクアンさえあれば、死ぬ気で働く」
三千によれば、1980年の正月、鈴木修は鮑などの高級品には見向きもせず、海鞘をいかにもおいしそうに食べたのだそうだ。その際、名前を聞かれたので名乗ったが、メモを取るでもなかったのに、数日すると印刷された新年会出席の礼状の余白に、直筆でお礼が認められていた。感激した三千は、それまでホンダ車を中心に売っていた店を、スズキ車専売に切り替えた。また、お礼の書は、額に入れ居間にずっと飾り続けた。
「修さんが来なかったら出席しなかった。修さんは友達だから」
と三千は語る。
ライバル社の営業幹部は、スズキの強さの源泉を次のように解説した。
「スズキの業販店の父ちゃんや母ちゃんたちは、ご飯とタクアンさえあれば、あとは鈴木修のために死ぬ気で働く人たちだ。我々は、ディーラー社員に退職金や社会保険、年金などを手当てするため、どうしてもコストが嵩む。しかしスズキにはそれがない」
ビール瓶を片手に円テーブルを回る鈴木修は、業販店主にとってまさにアイドルだ。
老若男女を問わず、握手を交わし、時には業販店の夫人を強く抱き締める。一緒の記念写真を何回も所望され、会場内はストロボの閃光だけで盛り上がる。笑いと喜び、ひとときの安らぎ、そして感動が渦になって増幅されていくが、渦の中心には鈴木修がいつもいる。
軽自動車のような価格の安い商品は、営業マンを抱えるディーラーが売っても儲けは出しにくい。つまりスズキと業販店は運命共同体だ。両者に資本関係はないが、資本の論理を超えた鉄の結束がある。この二者を結ぶのが「人間」鈴木修なのである。
■日本の自動車業界「最後の宝」
「修さんは、日本の自動車業界にとって最後の宝ですよ」
1998年1月、当時ホンダ社長だった川本信彦はプレジデント誌の取材の中で、こう漏らしたことがある。川本にすれば、自身の師であり世界と堂々と渡り合った故・本田宗一郎(1992年に急逝)に鈴木修を重ねていたのかもしれない。

宴がお開きとなり、鈴木修はスイートルームに戻った。部屋に入ると仙台地域の営業幹部を呼び、「○○番目のテーブルはあまり盛り上がらないと思ったら、どうやら他社の車も熱心に販売している。話しかけたら、目が泳いどった。フォローするように」と冷静に指示を出した。
幹部が退出すると、鈴木三千が持ってきてくれた海鞘を大皿に移し、醤油と酢をかける。グラスには麦焼酎、オオバ、鷹の爪を無造作に入れ、お湯で割ったカクテルを自身で作る。さらに、取材スタッフとスズキ広報担当にも、同じものを作ってくれた。器用に手際よく。
軽くみなで乾杯し、それを飲みながらこう語った。
「人間はみな同じなんだ。外国人の大経営者でも、中小企業の社長でも、一般のサラリーマンでも、基本は一緒。いい面をみんな持ってる。だから私は、接する相手を地位や肩書きによって差別しない。世界中どこでも、心で通じることはできるんだ。ハート・ツー・ハートだよ。ただし、自分の仕事を一生懸命やらなければいけない。そして、目標を持って人よりも行動することが大切。五分でいい。客先に足を運び、顔と顔を合わせただけで、誠意は伝わるものだ」
午後11時近く、マッサージを受けたあと、鈴木修はベッドに横たわり、長い旅の一コマを終えるように熟睡した。
だが、翌朝8時前には、カルタスの“助手席”に乗り込み、次の目的地に向け飛び出していった。
■誰も行こうとしなかったインドへ
秋田スズキ会長の石黒寿佐夫は証言する。
「鈴木修さんは、マグロやサメと同じに、いつも動き続けている。逆に動かなくなると死んでしまう。あれほど働く人を私は知らない。
修さんはドンというのか、親分なんです。私達に命題を与えてくれる人。うまくいかないとボロクソに言われるけれど、人格を否定することは一切言わない。戦争の悲惨さを体験したせいなのか、人への優しさが根っこにある。
それにしても、親分をもつのって、いいものです」
寿佐夫の2歳下の弟で、秋田スズキ副会長の石黒光二は、こんな指摘をする。
「私達の父である佐喜男は、戦時中に修相談役と同じ宝塚の海軍航空隊にいました。隊が違ったので面識はなかったようです。大正から昭和一桁の出征した方々は、『自分たちは死ぬはずだったのに、生き残ってしまった』という意識が共通してある。そのせいか、戦争では米英に負けたが、経済では米英を負かしてやる、とい気持ちが強い。
鈴木修相談役は、戦争を知る我が国最後の経営者だったのではないでしょうか。敗戦を経験し、徹底的に打ちのめされた。なのに、あの人は世界に打って出ていった。それも、誰も行こうとしなかったインドに」

----------
永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
----------
(ジャーナリスト 永井 隆)
