港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。

女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。

タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。

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箱根の別荘


2時間半ほどのドライブの末、13時半頃に到着したその場所に、ともみは驚きながら降りた。

都心よりぐっと冷えた気温に慌ててコートを羽織り、ストールを耳まで上げて巻きなおす。気持ちよく澄んだ木々の香りが混じる空気に背筋が伸びながら、大輝の説明を聞く。

「少し日程が急だったから、おすすめのホテルとか旅館は予約で埋まっちゃってて。だったらうちの別荘の方がいいかなって。サプライズにするほど…行き先を隠すほどじゃなかったよね。なんか、ごめん」

「十分なサプライズだよ。でもいいの?」

「何が?」

「大輝くんのご実家のものなのに、私が泊まっていいのかなって」

何言ってるのと笑って大輝はともみの荷物を持つと、中に入ろうと促した。

そこは箱根にある友坂家の別荘だった。自分に譲られている唯一の別荘だと説明され、ともみは大輝が日本有数の名家の一人息子であることを久しぶりに思い出した。

細く曲がりくねった道を車で上り続け、ここから先は私有地だと知らせる鉄のゲート(まるで外国の城にありそうな)を通ったその先にあったこの別荘は、森の中にひっそりとたたずむという表現がまさにぴったりで。

木材と石材がバランスよく組み合わされた外観には温かみがあり、景観との調和を大切に建てられたことがよくわかる。

屋根は赤茶やオレンジの洋風瓦で覆われていて、玄関を入ってすぐの大きな窓のあるリビングルームには暖炉があった。3月に入ったけれどまだ寒いからと、管理をしてくれている人に薪の準備を頼んでくれていたらしい。

「ここ古いけど、こぢんまりしててなんか落ち着くんだよね」

2階の寝室にともみの荷物を運んでくれたらしい大輝が階段を下りながら言った。箱根の森を一望できる窓辺に吸い寄せられるように立ちつくしていたともみが、その声に振り返る。

ともみの感覚においての“こぢんまり”とは随分違う。10人は座れるであろうソファーや、畳2畳分はありそうなガラスのテーブルが置かれたリビングだけでも、おそらく20畳ほどはあるだろう。

「この後どうしよっか?今からならランチの時間に間に合うし街に出る?ここにも露天風呂はあるけど、温泉に行ってもいいよ?

オレも行く場所の目星はいくつかつけてるけど、バースデーガールのご希望を何でも叶えますよ」

大輝が恭しくふざける。

「あ、でも、夜だけはもうプランが決まってるんだ。でもここに19時までに帰ってくれば大丈夫だから」

こんな風に大切に丁寧に準備をしてくれているなんて思いもよらなかったから。とまどいと照れが勢いよく全身を駆け巡ってしまい、焦ったともみはポーカーフェイスを保つことに必死になった。

「…お腹すいた」

うれしいのに。ありがとうと言いたいのに。かわいげのない一言をなんとか吐くだけで精一杯だったともみを大輝は気にすることなく、オッケーじゃあまずランチね、と携帯を取り出し、どこかに連絡をし始めた。


「ともみちゃんがお酒を飲みたいなら、オレも付き合いたいから車を置いて行こう」と大輝に提案されしばらくすると、どこからともなく黒塗りの車がやってきた。

「お久しぶりです、お元気でしたか?」

大輝の挨拶に、お坊ちゃまは会うたびに男前になられて、とニコニコとうれしそうに答えたのはシルバーヘアの運転手だ。名は河北さんと言い、大輝が幼い頃からずっとこの別荘を管理していて求められれば運転手もするとのこと。

何を食べるのかは任せたいと言ったともみを、大輝は老舗ホテルに連れて行った。昭和初期に建てられた有形文化財だというホテルのことはともみも知っていたけれど、訪れるのは初めてだった。

5メートル以上はあるメインダイニングの天井に描かれているのは、日本アルプスの植物らしい。

大輝はそのダイニングにあるフレンチレストランの常連らしく、親しげなサービススタッフが慣れた様子で、少しずつ咲き始めた春の花を楽しめる窓際の席へと案内してくれた。

ともみはオムライスと迷った末に、大輝と同じ、このレストランのおすすめだという蟹カレーを頼んだ。大輝が選んだロゼシャンパーニュが運ばれてきて、今日最初の乾杯をする。




「誕生日おめでとう。そして店長就任もおめでとうだね」
「ありがとう」

グラスを合わせたあと、よかった、と大輝がほほ笑んだ。

「なにが?」
「んー?今日はともみちゃんが楽しそうだから」
「え?」
「このところ、会ってもあんまり元気なかったでしょ」
「そんなこと…」

ない、と言おうとしたともみを大輝が遮った。

「そういうところ。ともみちゃんってオレに似てるからなんとなくわかるんだよね。

本心を見せるのを面倒くさがるというか…相手とかその場の空気に合わせてキャラもテンションも変えちゃうから。

お互いに外面を保つのが得意になりすぎちゃったよね」

シャンパングラスを握るともみの手に力が入った。だからさ、と大輝が優しく続けた。

「今日はふにゃふにゃに緩んで、リラックスして欲しいなって思ってる。もちろんお祝い気分も楽しんで欲しいけど、オレで良ければ話を聞きたいと思って。オレたち、そういう話ちゃんとしたことなかったでしょ」

「…そういう話って?」

「例えば、今悩んでることとか?なんでも聞くよ」

こちらを見つめてくる優しい瞳に、あなたこそ“そういうところ”だよ、とともみは文句を言いたくなった。

ともみは美しいものが好きだ。自分がいわゆる面食いであることを自覚している。美が正義だとされる芸能界で、美に囲まれ育ち、美に慣れ切ったともみでさえも、出会った瞬間に大輝の造形美には驚いた。

最初はその“ただ圧倒的に美しい男”への興味でちょっかいをかけた。けれど大輝は簡単には落ちず、何度も断られたことにより余計に闘争心に火がついたのは、それまでのともみが恋の駆け引きでは負けたことがなかったからだ。

それなのに。関係を持ってから知ってしまったのだ。

大輝は弱い。弱いから強くあろうとしている。弱さを原動力とする生き方はともみと同じなのに、大輝にはともみが持たないものがあった。

それは愛情深さ。大輝という人は優しいのだ。なかなか他人を信用しないくせに、一度ふところに入れてしまった相手は絶対に邪見にできない人。その人のために心を尽くそうとしてしまう人。

― 本人には尽くしてる自覚がないのがまた…質が悪いよ。

そして嫌な事があって落ち込んだ日。大輝に会いたいと思っている自分がいることに気がついた時、ともみはもう認めざるを得なかった。

友坂大輝という男は…沼だと。そして、その美しい沼に、自分が捕らえられてしまったのだと。

けれど大輝は、残酷なほどに鈍感だった。


大輝と関係を持って数ヶ月が経った頃。ともみが、大輝への思いが膨らみつつあることに焦り始めていたある夜のこと。

「オレたちの関係に名前を付けるとしたらなんだと思う?」

ベッドの上で大輝が突然尋ねてきた。

「…どういう意味?」

ともみがなんとか絞り出した返答に、うーんと呑気に天井を見つめたまま大輝が言った。

「ただの“体だけの関係”っていうのも違う気がしてるんだけど…オレ、恋人じゃない人と関係を持ったの初めてだから、なんか不思議な気持ちでさ」

そんな初めてはちっともうれしくない。黙ったままのともみに気づかず大輝は続けた。

「ともみちゃんに誘われて始まった関係だけど、結局、甘えたのはオレの方っていうか…どうしようもなかった夜に側にいてくれたこと、ホント感謝してる。だから…」

くるりと、ともみに顔を向けた大輝が、額が触れあいそうな距離で言った。

「ともみちゃんがオレを必要とする間はいくらでも頼って。で、いらなくなったら容赦なく捨てていいからね。例えば…ともみちゃんに本気で好きな人ができたとかさ」

ニコッと笑った大輝はともみの頬に軽いキスをして、呆然としたともみを残してシャワーを浴びに行ったのだ。

ともみの揺れる思いに全く気づいていないのか、それとも気づいているからこそ敢えて突き放しているのか。どちらであってもベッドの上でそんな話をするのは、無神経過ぎる。

相手の心の機微には聡いはずなのに、こと自分へ恋愛感情を向ける相手にだけ鈍くなるのは、モテ過ぎるが故に身に付けた防衛本能なのだとしても許せなかった。でも。

そもそも体の関係だけでいいと押し切ったのは自分だから仕方がない…と、ともみが自分を奮い立たせた結果が今回の旅行だ。

― フラれてもいいから…気持ちを伝えてみよう。

そう思えたのは。自分がTOUGH COOKIESで働き始めたからだ。

ともみは、これまで誰かの人生に口出すことを好まなかった。自分は自分、他人は他人。それが信条だったから。

けれど不思議と。苦しみを吐き出すように語る客たちを目の前にすると自然と口が動いた。光江に任されている店だという責任感で、光江ならなんと言うのだろうと考えたりしながらも、必死で自分の言葉を探した。そうして初めての客の富崎小春にこう言ったのだ。

「小春さんにも主人公になれるチャンスはあったんです。でもそのチャンスにトライしなかったから、小春さんは闘わずして脇役になった」

その言葉がブーメランのように自分に戻ってくることになるとは、話した時には思いもしなかったのに。

ふと、「新しい店はともみにだからこそ任せたいと思う」と言った光江のにやりとした笑顔を思い出されたとき、香ばしいスパイスの香りが近付いてきた。




「お待たせしました」の声がして、テーブルにカレーが置かれた。

タラバガニとズワイガニが使われているというそれは、1930年代から作り続けられている歴史あるカレーで、大輝の大好物の1つらしい。

カレーを食べる所作さえ美しいなと大輝を見つめながら、ともみは言った。

「さっき、なんでも聞いてくれるって言ったけど……本当になんでもいい?」
「もちろんいいよ。でもそんなに強調されるとなんかちょっと怖いけど」
「じゃあ、夜に話すね」

とびきりの笑顔を…決意の笑顔を作ってみせたともみに、大輝は一瞬虚を衝かれたような顔をしたけれど、ホントに何でも聞くよ、とウィンクを返した。


カレーを食べ終わると河北さんの運転で日帰り温泉に行き、その後、街中を少しぶらぶらしながら、雑貨屋やカフェに入ったりした。

ふざけたふりをして腕を組んでみたともみを大輝が振り払うことはなかったし、1つのソフトクリームを分け合う2人は、はたから見ればすこぶるお似合いの美男美女カップルにしか見えなかっただろう。

普段、大輝にもともみにも写真を撮る癖がないせいで、実はともみは大輝の写真を一枚も持っていない。

だから今日の記念に…と何度かチャンスを狙ったけれど、今更感と恥ずかしさで、2人で撮ろうと言いだすことも、大輝にだけカメラを向けることもできなかった。

それでも、ふわふわとした幸せな気持ちのまま別荘に戻ったともみに用意されていたのは、友坂家のお抱えシェフのバースデーディナーだった。

「本当は、リビングをバルーンとかで飾り付けようかなと思ったんだけど、ともみちゃんあんまりそういうの好きじゃなさそうだから」

「大正解。良かった、気がついてくれて」

ともみの感謝に大輝が笑う。

ともみは部屋を華やかにデコレーションされたり、突然花束を渡されるというようなサプライズを用意されることがとても苦手だ。

勘が良いだけに、その手のサプライズにはほとんど事前に気がついてしまうし、気がつかなかったとしても「うわぁうれしい♡」というかわいい女の子的なリアクションがナチュラルにはできず、仕方なく芸能活動で培った演技力を発揮することになってしまう。

だから今夜の大輝のおもてなしがシンプルだったことにともみは感謝した。フランスの3つ星レストランで長らくスーシェフを務め、その後はヨーロッパ各国の王室や大統領の料理を担当していたというシェフが、和食のコース料理を用意してくれるという。

「ただ、まだお腹空いてないよね。だからもう少しあとにしてもらおうと思って」

確かに今のともみのお腹は、コース料理を食べる準備ができている、とは言えない。

「たぶん今日は星がキレイに見えるから、1時間くらいテラスでアぺでもしよう」

大輝は既に出先から、シェフに連絡を入れ、1時間程食事の時間を遅らせてもらうことを伝えてくれていたようだった。




「…うわぁ…」

大輝に連れられ2階からテラスに出た瞬間、本当に空一面、満天に瞬く星たちに素直に声が出た。ともみは星が好きだ。だけどそれを大輝に話したことはないはずだったからこそ、この偶然にうれしくなった。

3月とはいえ箱根の夜で、気温は2、3度といったところか。大輝にブランケットでグルグル巻きにされてまるでミノムシのような状態で、ともみはストーブの側のカウチソファーに座らせられた。

そして注がれた白ワインの、その銘柄に驚いた。

「え…?1997年のシャサーニュ・モンラッシェ?しかも、メゾン・ルロワの?」

「これは別にサプライズのつもりじゃなかったんだけど…ここのセラーにたまたまおいてあったから、せっかくなら生まれ年の方がいいかなって」

1997年はともみが生まれた年だ。その上、ワインラバーなら一度は飲んでみたいメゾン・ルロワの銘酒。Sneetにもビンテージ違いのものが置いてあるが、この2年でワインの勉強もしたともみには、その値がかなりの高額であることが分かる。

やりすぎたかな、ごめん、とバツが悪そうな大輝を見ていると、ともみの胸がぎゅっとなった。

なんてかわいい人。そして罪作りな人。なぜか笑えてきてしまい、思わず言ってしまった。

「大輝さん、これで私のこと好きじゃないとか、ナシじゃない?」
「…え?」
「ここまでされたら、女の子が誤解しても仕方ないと思う。誰にでもこんなことしちゃだめだよ」
「誰にでもはしないよ。ともみちゃんの誕生日だからだよ」

まるでともみだけが特別なのだと言わんばかりの大輝の無邪気な言葉に、ともみの望む意味はないとわかっていても嬉しい。そんな自分を愚かに思いながら、ともみはどんどん大きくなる胸の鼓動を整えようと小さく息を吐き出した。そして。

「私は、大輝さんが好き。だからもう体だけの関係をやめたい。本当の、本気の大輝さんの特別になりたいんだけど」

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