後楽園遊園地でジェットコースターに乗るマキ(右)とジャッキー(77年5月)

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【マキ上田 ビューティ・ペアかけめぐる3年間の軌跡(12)】全日本女子プロレスで「ビューティ・ペア」の活動を始めた1977年、有線放送大賞の新人賞を狩人さん、高田みづえさん、泉ピン子さん、清水健太郎さんともらいました。人気もあったし、一番売れてたのは私たちだったんだけど、最優秀新人賞は取れなくて。

 この年はレコード大賞の企画賞も取った。そういう音楽番組の控室は個室じゃなくて大部屋がほとんどで、畳があって真ん中に長椅子とテーブルがあった。売れてる人は壁際の鏡付きの椅子に名前が書いてあって。私たちとピンクレディーは鏡に名前が書いてあったけど、新人だった岩崎宏美ちゃんとか榊原郁恵ちゃんは長いテーブルのとこで鏡を立ててお化粧してたのを覚えてます。本当に私たちは扱いが良かったんだよね。

 あと「真赤な青春」っていう映画も撮りました。女子プロレス界で映画を放映したのは初めてだと思います。私たちの生い立ちみたいなのを本人が演じる映画で、この前CSで放送してて懐かしくて見てたら、試合とかテレビ番組の撮影の間に東映に通って撮ったことを思い出しました。あの時はビューティが何を出しても売れるから、会社も「お金になるなら何でも売っちゃえ! 今がチャンスだ!」みたいな感じでね。映画化を聞いた時はびっくりしたけど、自分の中ですごいとか思ってませんでした。撮影中がとにかく眠くて早く帰りたかった(笑い)。人って忙しすぎると感情を失うのかもね。

 ビューティとして活動する少し前に事務所の近くの中目黒辺りで1人暮らしを始めたんです。今と違って当時は何もない土地だったし、巡業とかテレビの収録とかでほとんど家に帰らず、荷物置き場みたいな感じ。8畳くらいのところに住んでましたね。知らない土地だからどこにも行きようがなかったです。ビューティで活動してからも「3禁」は守ってましたよ。とにかく忙しかったからどこに行っても会社以外の人と一瞬しか会わなくて、恋人にも巡り合えません。それにテレビ局でもプロレスラーってだけで怖がられていたのか、連絡先なんて聞かれたこともない。10代だからタバコもお酒も吸わなかったしね。

 プライベートな時間はほとんどなかったけど、不思議と休みが欲しいとかは思ってなかった。実はたまにディスコに行ってストレス発散はしていたので。その頃、モデルとか女子プロゴルファーの子と仲が良くて。収録とか試合が終わって夜中帰宅した後、六本木のディスコに1、2時間遊びに行ってましたね。踊りもしないし、お酒も飲めないけど、雰囲気を味わって気分転換してたんですよね。普段いい子な分、ちょっとだけ悪い子になった気分が楽しかったのかも。