【若井 克子】よりにもよって元東大教授に…散歩中の認知症の夫に子どもが浴びせた「あまりにも残酷な罵声」
「漢字が書けなくなる」、「数分前の約束も学生時代の思い出も忘れる」...アルツハイマー病とその症状は、今や誰にでも起こりうることであり、決して他人事と断じることはできない。それでも、まさか「脳外科医が若くしてアルツハイマー病に侵される」という皮肉が許されるのだろうか。
だが、そんな過酷な「運命」に見舞われながらも、悩み、向き合い、望みを見つけたのが東大教授・若井晋とその妻・克子だ。失意のなか東大を辞し、沖縄移住などを経て立ち直るまでを記した『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(若井克子著)より、二人の旅路を抜粋してお届けしよう。
『東大教授、若年性アルツハイマーになる』連載第35回
『「君には、ついていけない」...認知症の人とその家族が苦しむ「辛すぎるすれ違い」とその「驚きの解決法」』より続く
講演活動の光と影
故郷の栃木に戻った晋が、講演や取材を通じて注目を集めるようになったこと、それ自体は、悪いことではなかったはず、でした。
しかし、物事にいい面があれば、悪い面も必ずついてくるようです。
2010年10月のことだったでしょうか。ひとりで散歩に出かけた晋が、肩を落として帰ってきました。
「どうしたの?」
声をかけると、なんでも小学校帰りの子どもたちに「バカ」と言われたそうです。
子ども好きな晋は、散歩に出かけると、よく、
「元気かい?」
「歳いくつ?」
と声をかけたりしていました。きっと昔、まだ現役の医師だったころ、診察で子どもにそう語りかけていたのでしょう。
ここからは私の推測ですが、なれなれしく話しかける様子が、子どもには奇異に映ったのではないでしょうか。
その年の8月、晋は縁あってNHK「おはよう日本」に出演していました。認知症の当事者として短いコメントが紹介されただけでしたが、それで近所に顔を知られるようになったことも影響していたはずです。
いずれにせよ、本人は相当ショックだったようで、以来、道端で子どもを見かけると避けるようになってしまいました。
こうした出来事や晋の衰えもあり、私はだんだん、講演に消極的な気持ちになっていきました。
講演活動への不安と悩み
いちばん悩んだのは、お手洗いの問題です。失敗はもちろん心配でしたが、講演を中断して用を足しに行かねばならなかったこともあり、頭の痛い課題でした。
加えて、言葉がいっそう出なくなった、という事情もあります。
聴衆が知らない人ばかりだと、晋はかえって話せるのです。
ところが、旧知の友人・知人が参加したとたん、様子が変わりました。
控室まで挨拶に来てくださる方もいて、それはそれでうれしいことなのですが、なぜかそのあと晋は言葉につまってしまうのです。
久しぶりの再会で、緊張するのか。
それとも、過去の自分と比較されることを恐れているのか。
恥ずかしいと感じるのか――。
2011年には講演で北海道に招かれました。司会は向谷地生良さんで、昔なじみのクリスチャンの友人が何名か、控室を訪れました。
だんだん言葉数が少なくなっていく晋。
それを横目で見ながら、不安を募らせる私。
言葉が出ない
講演が始まります。
司会が向谷地さんだったので、何とかなるだろうと思っていたのですが、その考えは甘かったようです。
晋は壇上にあがりましたが、緊張しているのか、口からは一言も出ません。マイクを手にしましたが、それをどこに向けたらいいかすら、わからないようでした。
私のサポートもうまくいきません。
ほとんど発言ができないまま、時間だけが過ぎていきます。
いよいよ最後になり、司会者が、
「何か一言」
と促したとき、晋は私の耳元でこうささやきました。
「何て言えばいいの?」
「『自分は自分です』と言えば?」
晋は聴衆のほうを向いて、
「自分は自分です」
と締めくくりました。でも、棒読みです。晋の発言なのか私が言わせているのか、わからなくなってしまいました。
講演活動は話だけでない
講演後、私たちは札幌に1泊しましたが、翌日も気分が晴れません。
〈断ればよかった〉
〈いよいよ講演も終わりにしなくては〉
新千歳空港で羽田行きの便を待ちながら、私は参加者に申し訳ない気持ちでつぶれそうでした。
そのときです。
「わ〜か〜い せ〜んせ〜い」
見知らぬ女性がふたり、名前を呼びながら駆け寄ってきました。
「先生、昨日はありがとうございました。感動しました」
「お元気で頑張って下さい」
手を差し出され、ふたりと固い握手を交わす晋。その顔には、こぼれんばかりの笑みが浮かんでいます。
話こそ失敗しましたが、晋の存在そのものから何かをくみとってくれる人がいる。
心に陽光が射し込みました。