写真/産経新聞社

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 石田ゆり子のフォトエッセイ『Lily――日々のカケラ――』(文藝春秋 2018年)に、こんな一節があります。
<「服を着る」「装う」ということってとても社会的なことだと思うのです。自分が今どんな気分か、どんな風に生きているかを一瞬で周りに伝えられる。(中略)当たり前のことだけど、つまり、ファッションってほとんど、それを見る人のためのものだな、と思っているのです。>(p.76)

◆石破内閣の“記念写真”が話題に

 10月1日に発足した石破内閣。その記念写真があまりにもひどいと話題です。

 パンツの股上にはシワが寄り、丈はダルダル。写真によっては上着の間からお腹の地肌が見えてしまっているようなものまでありました。膝が開いて腰が落ちた立ち姿も弱々しく、ネット上では「だらし内閣」とか「みっとも内閣」と揶揄される始末です。

 石田ゆり子の言葉を借りれば、社会性の乏しさや人に見られている意識の低さを印象づけてしまったと言えるでしょう。

 のちに官邸公式サイトは修正した“正式版”の写真を掲載し、事態の収拾を図りました。色々な意味で衝撃的な写真だったことが伝わります。

◆政治家に見た目は無関係?

 とはいえ、政治家は効果的な政策を打ち出すことが仕事なのだから、見た目をうるさく言う必要もないのではないか、と思う人もいるでしょう。それは一面では正しいのかもしれませんが、政治家と有権者との関係としては不十分です。

 たとえば、議会政治の本場イギリスでは、ことあるごとに政治家のファッションや着こなしが槍玉に上がります。彼らが人前にどのような姿格好で登場するのか。自らをどう見せたいのか、そして有権者はそのメッセージをどう受け止めるか。その意識のつばぜり合いの中にも、政治は存在する。そういう文化だという共通理解ができあがっているのですね。

 テレグラフ紙は、14年ぶりに誕生した労働党政権のファッションチェックをしました。グレーのスーツジャケットの肩とラペルのフォルムに存在感を強調する効果があることや、ネイビーパンツスーツを少しフランス人風に着こなした女性閣僚から、“どうぞ安心して仕事は任せてください”と伝える意図があると分析しています。

 また政治家は時代の空気にも敏感であるべきです。だから、体にフィットしすぎたボディコン風ドレスの教育省長官には、「もっと現代的な他のオプションもありますよ」と提言もする。

 単に政治家がオシャレかどうか、良いものを着ているかどうかを論じているのではありません。それよりも、趣味、思想、生き方の指針を、衣服によってあらわす知性はあるのか。たとえ数秒の映像や一枚の写真だったとしても雄弁です。その一瞬への緊張感の有無を問うているのですね。

 つまり、油断せずに有権者に接しているかどうかが服装にあらわれる、と言っているのです。テレグラフ紙やガーディアン紙はしばしばこの手の記事を掲載し、政治家のセンスを厳しく観察しています。

◆「だらし内閣」は、積年の環境が生み出した惨劇

 日本にこのような視点の政治記事はあったでしょうか? ファッションデザイナーによる余興ならともかく、ここまで大々的かつ真剣に政治家の服装を論じる風土はありません。

「だらし内閣」は、こうした積年の環境が生み出した惨劇だと言えそうです。では、なぜ有権者の間にそうした批評眼が育たなかったのでしょうか?

 演説や答弁が立派ならそれこそ信頼に値するものだ、中身がしっかりしていれば外面は問題にならない、との考え方に共感を抱く傾向はないでしょうか?

 それこそが現代人の甘さだと指摘しているのが、シェイクスピア作品の翻訳で知られる劇作家で批評家の福田恆存(1912-1994)です。『私の幸福論』(ちくま文庫)の中で、こう書いています。